第19話 母娘

 この後、仕事があるということで、小海先輩の補講授業は途中でお開きとなった。

 用なしになった俺は、一人帰り道の河川敷を歩いていく。

 河川敷の広場では、野球少年たちが、コーチに指導を受けながら、熱心にノックの練習をしていた。


「あら、恭吾君じゃない。おかえりなさい」


 そんな子供たちを眺めながら、とぼとぼ歩いていると、聞き覚えのある声が聞こえてくる。

 前を見ると、そこにいたのは、恵兎ちゃんの母親である郁恵さん。

 郁恵さんは、パステルピンクのニットに、黒のボトムスを合わせた装いで、大人びた雰囲気を存分に醸し出していた。

 そして、ニット越しからは、娘にはない二つのたわわが、これでもかと主張している。


「お疲れ様です郁恵さん。今帰りですか?」

「えぇそうよ。ついでに、夕食の買い出しをしに行こうと思って」


 そう言う郁恵さんの腕には、エコバッグが掲げられていた。


「なら、一緒に行きませんか?」

「えっ? でも恭吾君、今学校から帰ってきたところでしょ? 戻ってからの方が荷物も重くならないんじゃないかしら?」

「平気ですよ。バッグの中ほとんど空なので」


「もう、置き勉はダメよ?」

「必要最低限物は持って帰って来てますよ? それに、郁恵さんと会って、買い足さなきゃいけないものがあることを思い出したので良かったです」

「まあ恭吾君が大丈夫って言うなら、一緒に行きましょ」

「えぇ、ご一緒させていただきます」


 そうして、俺は来た道を戻るようにして、郁恵さんと一緒に近くのスーパーへと向かって歩いて行く。

 空はオレンジ色に染まっており、背中に西日を浴びながら、二つの影が伸びていた。


「それにしても、恭吾君は凄いわね。学校の後に毎日夕食の準備をして、学校の宿題もこなしてから、よしヱさんのお手伝いまでして」

「いえ、大したことじゃないですよ。それに、自分はばあちゃんには小さい頃からお世話になりっぱなしなので、出来る時に恩返しをしてあげたいんです」

「偉いわね。それに対して恵兎は……」


 郁恵さんは、少々重いため息を吐いた。


「恵兎ちゃんを信じてあげてください。ここだけの話、恵兎ちゃんの家事スキル、以前より断然に上達しましたよ」

「えぇ、それは分かってるわ。家庭科同好会で恭吾君が教えてくれてるんでしょ? 不器用な娘に根気強く教えてくれてありがとうね」

「いえいえ。俺が善意でやってるだけなので、気にしないでください」


 実際、家事を出来ない人に教えるというのは意外と楽しいもので、自分が間違っていた知識を見つめ直すいい機会にもなっている。


「でもね、習ったことを家で実践するのはいいんだけれど、その後処理を私に任せっきりなのはどうにかして欲しいわ」

「あぁー……恵兎ちゃんらしいですね」


 同好会で調理実習を行った時も、片づけしてから実食だよというと、恵兎ちゃんがブーブー文句を垂らしているのをよく見ているのも納得だ。

 きっと、掃除や洗濯を畳んだりという、後片付け作業についてはあまり好きではないのだろう。

 まあ正直、片付けが一番面倒なのは分かる。

 俺だって、面倒な時は、次の日に回しちゃうこともあるからね。


 そういえば、今日も先ほど、沖先生に片づけを頼まれていたけど、恵兎ちゃん、きちんと出来たのかな?

 帰る前に、一旦立ち寄って確認するべきだったか?


「でもまあ、少しは恵兎が家事を手伝ってくれるようになってから、私も随分と楽できるようになったわ。恭吾君のおかげね」

「ならよかったですよ。郁恵さんの負担を減らしてあげたいというのが当初の目的でしたから」


 成果が表れているのであれば、それ以上に嬉しいものはない。


「本当にありがとね。恭吾君には、何か改めてお礼をさせて頂戴」

「お礼なんていらないですよ。いつも銭湯の掃除をしてもらっているだけで助かってますから」

「それは、お仕事でやってるんだから当然の事よ。それ以外のことで何かしてあげたいの! 何かないかしら?」

「うーん……」


 俺は顎に手を当てて考える。

 けれど、パッと何か郁恵さんにして欲しいことは思い浮かばない。


「些細なことでも構わないわ」

「そうですか……じゃあ……」


 俺は郁恵さんの方を見つめながら言い放った。


「今度、恵兎ちゃんを行きたい所へ連れて行ってあげてください。彼女も彼女なりに、色々と気を使っているみたいなので」


 恐らく、自身の生活状況が苦しいことを、恵兎ちゃんは理解している。

 その上で、生活を支えてくれている郁恵さんに、迷惑は掛けられないと、遠慮している部分がある。

 俺としては、恵兎ちゃんにも、もっと女子高生らしいことをして欲しい。


「それじゃあ、恭吾君にお返しできないじゃない」

「いえ、俺にとっては。二人が笑顔で生活している姿を見れるのが一番のお礼です」

「もう……恭吾君は相変わらず口が上手いんだから」


 そう言って、郁恵さんは半ば呆れたような目を向けてくる。


「でも分かったわ。恭吾君がそういうのなら、今度恵兎に聞いてみるわ」

「はい、そうしてください」


 そんな話をしていると、スーパーへと到着した。


 今日は特売日なので、郁恵さんも安売りしている商品を次々とかごに入れていく。

 お会計を済ませ、俺は郁恵さんのエコバッグを手に持ち、自身の荷物を背負いながら、郁恵さんのアパートへと向かっていた。


「家まで送ってもらわなくていいのに」

「いえ、結構量ありますし、力仕事は任せてください」

「でも、恭吾君だってこの後夕食作らなきゃでしょ?

「平気ですよ。こう見えても、手際だけはいいので」


 余裕あるように笑って見せると、郁恵さんは諦めたように息を吐いた。


「もう……恭吾君は頑固なんだから」

「よく言われます」

「私なんかより、もっと同い年の女の子とかと一緒の方が本当はいいでしょ?」

「そんなことないですよ。郁恵さんも十分若いですし、こんな美人と隣を歩けるなんて、鼻が高いですよ」

「も、もう! お世辞は良して頂戴」


 恥ずかしかったのか、郁恵さんは身体をモジモジとさせている。


 でも実際、郁恵さんはまだ二十代だし、十分若い部類に入ると思う。

 恵兎ちゃんが成人したら、結婚を考えてもいいんじゃないだろうか?


 そんなやり取りを交わしてうちに、郁恵さんの住んでいる団地に到着。

 辺りに、新しい家々が立ち並ぶ中、唯一昭和感漂う雰囲気がぴょこっと取り残されたように佇んでいるのが、郁恵さんの住むアパート。


 アパート連なる間にある広場では、子供たちがワーキャー騒ぎながら楽しそうにし遊んでいる。


 すると、アパートの階段前に、見覚えのある制服姿をした、青みが買ったお下げの少女が、こちらへと駆け寄ってきた。


「先輩⁉ どうしてここにいるんですか⁉」


 後輩の恵兎ちゃんは、驚いた様子で目を見開いている。


「ちょうど郁恵さんと買い物したついでに会ったから、荷物を運んできたんだよ」


 俺がそう言うと、恵兎ちゃんは手を差し出してきた。


「わざわざありがとうございます。ここからは、私とお母さんで運ぶので、先輩はここまででいいですよ」

「いや、ここまで来たんだし、家の中まで運ぶよ」

「ダメです!」


 恵兎ちゃんは鋭い声を上げたかと思うと、俺からエコバッグを強制的に奪い取ってしまう。

 こうして郁恵さんの荷物を家まで送り届けたことは何度かあるのだが、恵兎ちゃんはいつも頑なに家の前まで付いていくことを拒むのだ。

 まあ、年頃の年齢で、色々と思う所があるのだろう。

 乙女心とは難しいものだ。


「ありがとうね恭吾君、ここまで運んでもらっちゃって」

「いえ、とんでもないです。おかげで色々と面白い話も聞けたので」


 会釈してお礼を言うと、恵兎ちゃんが俺と郁恵さんを交互に見つめてきた。


「お母さんと先輩だけで内緒話とか、ずるいです」


 どうやら、自分だけ仲間外れにされたのが納得いかないらしい。

 ぷっくりと頬を膨らませて不貞腐れてしまう。

 そんな後輩の頭を、俺が優しく撫でてあげる。


「恵兎ちゃんが最近、郁恵さんのために頑張ってるって話をしてただけだよ」

「そ、そんな話しないでください!」


 恥ずかしかったのか、恵兎ちゃんは頬を朱色に染めてしまう。


「さっ、部屋に戻って夕食の準備しましょう」


 郁恵さんが恵兎ちゃんの背中を押して促すと、俺の元から少し離れたところで、二人はこちらを振り返った。


「恭吾君、いつも手伝ってもらってありがとう」

「私からも、お母さんの荷物運びを手伝ってくれて、本当にありがとうございます」


 お礼を言ってくる母娘に、俺は手を横に振る。


「いえいえ、いつでも頼ってもらっていいですよ。力仕事は男に任せてください」


 俺が腕を曲げてみせると、郁恵さんはふっと微笑んだ。


「ありがとう。それから、これからも恵兎のことをよろしくね」

「もうお母さん! そういうこと言わないで、恥ずかしいから!」

「はいはい」


 母娘の仲睦まじいやり取りを見ていると、こちらまでほっこりとさせられてしまう。


「それじゃ、俺は失礼します」


 俺が軽く頭を下げてから踵を返すと、郁恵さんと恵兎ちゃんは、手を振って見送ってくれる。

 手を振り返しながら、俺は団地を後にした。


 帰り際、郁恵さんと恵兎ちゃんの笑顔を思い返す。

 あの二人、笑顔を絶やさず幸せに暮らしていけるよう、俺も出来る限り手伝えることしてあげようと、改めて心に誓うのであった。

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