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 淡い金色のうろこの塊の先端にぽつんと真っ黒な円形の目が付いているそれは尾びれをばたつかせてグリーンライトの照らす水槽を泳いでいた。部屋は薄暗い。だから水槽だけが存在しているみたいで私はよくここに籠もる。『水質管理室』と表には小さなプレートが貼られているけれど誰もそんな名前で呼ばない。そもそも存在すら彼女たちは知らないだろう。

 と、短い電子音が鳴ってドアがスライドした。


「イチミヤさん。先生が探してたわ」


 声を聞かなくても、端末を向けて認識しなくても、それが委員長だとすぐに分かる。外見が他の生徒と同じように白銀のボディスーツとフルフェイスでも、その立ち振舞いと私を見つけたときの安堵にどうしようもなさを加えてわずかに両肩を落とす仕草は、紛れもなく彼女だけのものだ。


「放っておいてくれればいいのに。別にあなたに迷惑を掛けていないわ」

「わたしまで気にしなくなったらイチミヤさんてどこかに消えてしまうんじゃないの? 少なくともわたしにとってはね、この水槽で泳ぐ一匹のメダカくらいの価値はあるのよ」


 私は防護スーツ越しに水槽に触れ、その中で泳いでいるダツ目メダカ科メダカ属の淡水魚を再度見やる。


「キリーフィッシュって言うのよ、こいつら。何をキルしてるんだろう」


 なけなしの知識を口にして自嘲する。けれどサエキさんは笑うことなく真面目に「そのキリーはキル、つまり殺すって意味じゃないわ」と否定した。


「このキリーはオランダの古い言葉で小川を意味するものよ。だから小川の魚と呼んでいるだけでそんな危ないものじゃないわ。そもそもメダカは日本の固有種で外国にはいないのよ。メダカは英語でもメダカよ」


 聞きかじった適当な知識に対しても手加減なしで本気で答えてくれる。その情熱の矛先に自分という存在がなれているのだと感じて、何だか笑いが滲み出てしまった。


「何かおかしい? わたし、間違ったことを話してしまったのかしら」

「ううん。たぶんサエキさんが言うのが正しいんだと思う。私はネットで適当に見て、へえ、そうなんだって思っただけだし」


 なら良かった、とほっとした様子を見せたのが更におかしくて、私は声を出して笑ってしまった。


「何なのよ?」


 サエキさんは困惑した様子で私を見ている。フルフェイスの目元だけが透けているけれど表情はよく分からない。その無個性なフルフェイスを取り去って彼女の顔をちゃんと確認したい衝動を抑え、私は「ごめんなさい」とだけつぶやく。


「あとでちゃんと職員室に顔を出すから、代わりに一つ質問に答えてくれませんか?」

「え、ええ。いいわよ」

「サエキさんはどう思うかな。このメダカたちのことを。水質に変化があればこの子たちは死んでしまう。それはここで暮らす人間のための仕方がない犠牲なのかも知れないけれど、社会ってこういう誰も気にしない小さな犠牲の積み重ねの上に何とか成り立っているんだって、私は最近感じているんだ」

「正直この設備自体に意味なんてないわ」


 腕組みをして壁に背をもたれさせながら彼女は言う。


「管理なら全てコンピュータが行っているわ。ここは言うなればそういったものが未整備だった頃の名残。メダカたちはね、生きていようが死んでいようがどっちでもいいのよ。ほら」


 サエキさんはそう言うと部屋の隅に落ちていた大きな埃を拾い上げる。


「掃除すらされていない。あなたくらいなんじゃないの、この部屋を頻繁に訪れているのって。少なくともわたしはあなた以外の誰かがここに入っているのを見たことはないわ」

「考えるだけ無駄、ってことか。なんか私たちみたいだなって思ったけど、だとしたら誰も私たちのことなんか見てないし、気にしてもいないし、生きてても死んでてもどうでもいいってことなんだろうね」

「そうやっていつまでも思春期特有の思考に逃げてるつもり?」


 かなり強めの語気だった。


「逃げる?」

「だってそうでしょう? 先生の呼び出しからも、授業からも、勉強からも……ううん、もっと、今自分たちがすべきことその全部かな」

「すべきことって何?」

「学生の本分は勉強よ。それからあとは進路を考えることかな。確かに以前に比べて平均寿命は短くなっているし選べる仕事の種類だって減ってる。けどね、わたしは漫然と次のステップとして自分の学力で行けそうな大学を選び、適当に割り振られるままに職に就く。そんな人生を送るつもりはないの」


 自信に満ちた言葉たちだった。私とは全然違う。ちゃんと“生きている”と感じる彼女の意志がその端々に満ちていた。対して私は何一つ、先のことなんか考えていない。今だって、よく分からない息苦しさから逃れようとしているだけだ。


「ねえ、これを見て」


 そう言ってサエキさんは自分の端末を取り出して、その画面を私に見せた。そこには見たこともないような難しいタイトルの電子書籍がずらりと並んでいた。


「誰にも話したことないから内緒にしておいてほしいんだけど、実はわたし、研究者になりたいのよ」


 彼女の言うそれがどんな職業なのか私にはあまりピンとこなかったけれど「研究」という言葉の響きがとても彼女らしい。


「小さい頃からずっと感じていた。どうしてこんなスーツを着て生活しなければならないんだろうって。あれはまだ小学校に上がる前で、あちこち走り回るわたしのスーツが破けちゃったのね。でもその時には子ども用のスペアがなくて。わたしには大人用のそれがあてがわれたわ。すごく大きくてぶかぶかで、ヘルメットを取り付けたら真っ暗で何も見えなくなるの。けれど大人たちはそれでもう大丈夫だからって、親が来るまでそのまま三時間も放置されて。以来ずっとこのスーツのことが苦手なまま。わたしは防護スーツなんて着なくても生きられる世界を作りたい。その為に研究者になりたいの」


 どういう思いでそんな大切な話を自分に打ち明けてくれたのかは分からなかったけれど、この日から私にとってサエキヨウコという存在は特別なものになった。

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