知られざる過去(2)
◇
「今日も寒いねー」
千聖くんは、相変わらず私の前では〝いつも通り〟を演じていた。
「……うん、そうだね」
だから、神木さんのことには触れない方がいいのかもしれない、と胸の内に隠す。
「もう少ししたら春がやってくるよね。桜が咲いたら一緒に花見しない? 青柳公園近くの桜並木、絶対綺麗だと思うんだよね」
今よりも少し先の未来の話を楽しそうにする千聖くんは、何も悩みなんかなさそうで。そのまま気づかないうちに通り過ぎてしまいそう。
「三色団子とかおいしいもの一緒に食べようよ」
けれど、一度それに気づいてしまえば、見て見ぬふりはできそうにない。
「う、うん、そうだね」
のどの奥に何かがつっかえるように、言葉がすらすらと現れない。
「美月、なんか今日様子おかしくない?」
「そ、そんなことないよ」
「どうしたの? 何かあった」
気づかれるな。知られるな。千聖くんは、勘が鋭い。真実を奥底に隠さないと。
「ううん、何もないよ」
私が、千聖くんの心の内側に踏み込めば、きっと千聖くんは私を拒絶する。
この前のように何もないよ、と誤魔化すの。そうしたら二度と踏み込めない。その小さな亀裂が少しずつ広がって修復が不可能なところまでやってくると、私と千聖くんの関係は絶たれるだろう。
じゃあどうやってすればいいのかな。普通ってどうするんだっけ。今までどうやって接していたっけ。ぐるぐる頭の中で考える。
「あのさ、美月」
私が頭で悩んでいると、不意をついたように千聖くんに声をかけられる。
顔を向けると、あまりにも真剣な表情を浮かべているから、ドキッと嫌な音が鳴る。
「もしかして数日前に廊下で話聞いてたの、美月?」
そう指摘されて、咄嗟に否定ができなかった。というよりも声がでなかった。
「俺と友達が話してるとき〝高野〟って聞こえたんだ。美月の名字がそうだよね。それに今日なんかよそよそしいし」
どうしよう。どうしよう。千聖くんに気づかれた。なんか言って誤魔化さなきゃ。でも、どうやって?
「俺たちの話聞いてたから、だから挙動不審なんでしょ」
──でも、もう無理だ。隠すのは、やめよう。ちゃんと聞いた方がスッキリするかもしれない。
「……ごめん、この前話聞いちゃって……」
すると、千聖くんは「やっぱり」と眉を下げながら微笑んだ。
私は一度、呼吸を整えて、それから拳に力を込めて、一歩踏み出すことにした。
「あの人たちは、友達なの?」
その問いに、彼はわずかにピクリと眉を動かした。
「この前千聖くん、友達と会ったっていうのになんだかすごくよそよそしく感じて」
友達なら、もっと信頼して気を許していて楽しげな雰囲気を感じるのに、冷たい空気を感じ取った。
「タメ口なのによそよそしくて、少し距離を取ってるみたいで」
それにこうも言っていた。あのとき〝階が違うから〟って。でも、そうだとすると千聖くんにとって彼らは。
「あの人たちは、千聖くんの先輩?」
私が導きだした答えは、それだった。
──ううん、私が気になっているのはそれだけじゃない。
「それに神木さんと会ったときすごく動揺しているようだった。まるで──…」
何かを隠しているように。
だから、あんな嘘をついてまで。
「神木さんとも何かがあったから……だから、あんなふう逃げたんじゃない?」
「それは……」
わずかに唇を噛み締めて、瞳を揺らした。
千聖くんは、一体ひとりで何を抱えているんだろう。
千聖くんの力になってあげられないのだろうか。
このままだと、またこの前と同じ時間をたどるだけ。一歩も進めないまま、彼に近づくどころかさらに拒絶されて。
助けてもらったのに、私は何も返せないまま。
──そんなのは絶対に嫌だ。
「私には話せない?」
立ち上がり、彼の目の前に移動する。
おずおずと、私を見上げた千聖くんの瞳は、ひどく驚いている様子で。
「私は千聖くんにとって信用できない? 千聖くんにとって必要ない存在?」
困惑したように目を見開いた。
私は、誰よりも。誰よりも千聖くんの力になりたいと思っている。
「私じゃ千聖くんの力になってあげられないのかな」
今回がきっと、最後。
千聖くんに拒絶されてしまったら、それまでだけれど。
「美月……」
表情が曇ったあと、一度唇をきつく結んで、目を落とす。
──ああ、もしかしたらダメだ。私は、千聖くんの内側に踏み込むことができない。必要とされていない。
私は、やっぱりひとりだ。
「──美月には、もう隠し通せないかなぁ」
けれど、千聖くんの口から現れた言葉はそれだった。強張っていた表情が緩んで、口元にわずかに弧を描く。
意を決したような声が、ひやりと頬を撫でるように流れてくる。
「全部、美月に話すよ」
そう言って、自分の隣のベンチを軽くポンッと叩いた。
私の言葉が届いた、そう思って胸を撫で下ろすようと元の位置へ腰を下ろす。千聖くんは、呼吸を整えるように小さくすーはーと息を吸ったあと、
「俺さ、実は留年してるんだ」
意を決したように告げられた言葉に、ひどく驚いた私は、目を見開いた。
「千聖くんが……」
……留年している?
「この前の話を聞いて困惑しただろうけど、あの二人は俺の同級生だったひとたち。でも俺が留年したから学年は違うんだけど」
同級生だけど先輩って。すごく複雑な関係。
「えっ、そうだったんだ……でも、なんで……」
──なんで千聖くんが〝留年〟なんて。
「俺が……部活中の怪我で入院してたから」
冷たい風に流れてやってきた言葉は、衝撃的なものだった。
「えっ、部活……?」
「バスケ部だったんだ。でもこの前話しかけられた友達と接触してさ、少し大きな怪我になって。それでしばらく入院してたんだよね」
次々と千聖くんの口から告げられる言葉に衝撃を受け、言葉は何も現れない。
「もう去年のことなんだけど、向こうはすごく気にしているみたいで。今でこそこうして話せるまでになったけど、俺も去年はすごく悔しくて」
固まる私に彼はさらに言葉を続けて、
「一年だったけどレギュラーに選ばれたんだ。すごく嬉しくて、これから頑張るぞって思ってたときの怪我だったからなおさらで」
──これは、私と出会う前の一年前の話。
「初めは早く怪我を治して部活頑張ろうって思ってた……思ってた、けど」
息を切って、空を見上げた千聖くんは、
「なかなかリハビリは思うようにいかなくて、時間だけが過ぎていった。俺は、焦った。みんなに置いていかれると思って。それに……」
苦しそうに顔を歪めた。
まるで今にも泣きそうな顔をしていて。
「千聖くん、話すのが苦しいならもう……」
手を差し伸べようと思ったけれど、千聖くんは首を横へ振った。そのときの表情は泣きそうに笑って。
──最後まで話すよ。
そう言っているように見えた。
「怪我が治ってもレギュラーを取り戻せるのか不安だった。顧問は『まずは怪我をしっかり治せ』って言った。もちろん当然だと思った……でも、レギュラーは外されて……」
知らなかった。千聖くんがこんな思いをしていたなんて。
「自暴自棄になった俺は、部活だって行かなくなって、学校を休むことも増えた。それで日数が足りなくなって留年になったんだけど」
千聖くんが今まで抱えていたものは、とてもとても重たくて。
「俺はあの日、夢も希望も失った。生きることも嫌になった。なんのために生きてるんだろうって思うこともあった」
叫ぶような悲鳴に、私なんかとは比べ物にならないくらいほど苦しくて。
「夢を奪われるならいっそ死んでしまえたら……って考えたこともあった。そう思って屋上から飛び降りようと考えたこともあった」
いつも笑っていた千聖くんの口から、まさかそんな現実を告げられるなんて、想像もしていなかったから。あまりにも突然のそれに「えっ……」言葉を失った。
「楽になりたいって思ったんだよね」
千聖くんは私とは住む世界が違うと思っていたのに。
「だから息苦しい世界から逃げるために屋上に駆け上がったはずなのに、そこから見える景色を見て不思議と心が揺れたんだ」
目の前に視線を向けている千聖くん。
けれど、その瞳はどこか遠いところを写しているようで。
「…‥心が、揺れた?」
それはきっと、苦しかった過去の記憶。
「うん。俺さ、まだ死にたくないって、自分の人生諦めたくないって思うようになって。怪我してバスケできなくなってレギュラー外されたからって、なにも死ぬ必要ないだろって、そう思ってた自分がいたみたいで」
〝死にたい〟と思っていた彼の思いを、引き止めたのもまた〝彼自身〟。
「そう思ったら、少しずつ自分なりに現状を受け入れられるようになったんだよね。まぁ、その時点でかなり時間は経ってるんだけど」
そんな〝過去〟を隠したまま私のことを支えていてくれたなんて。
「えっと、あの……」
あまりにも衝撃的なものばかりで、気の利いた言葉をかけてあげることができない。
「今だからこそこうやって笑って話すことができるんだけどね」
その言葉は、私にも通じるものがあった。
「……うん」
「あの頃の俺や美月には、それが苦しくてたまらなかったのも事実」
「……うん、そうだね」
生きることを諦めて、死を選ぼうとした私たち。
「でもさ、今だったら思うんだ。
……生きててよかったなって、ほんとに」
泣きそうな声で、細々と告げられるから私まで泣いてしまいそうになって、じわっと抑えていた感情が心の奥底から溢れそうになる。
「千聖くん……」
知らなかった事実を聞いて、知らなかった出来事を知って。
彼の存在の大きさを、改めて実感させられる。
彼の過去を知って、苦しいのに。
どうしてここまで私に優しくしてくれたのか、それがようやく謎が解けた気がする。
それと同時に心の距離が縮まったようで。
「美月と出会えることができて、よかった」
蜘蛛の糸のように、つつーと頬を伝う涙が、冷えた空気で一瞬に固まるように。
私の手を引いて、
「……よかった」
何度もその言葉を復唱して。
私をきつく、抱きしめた。
「千聖くん……っ」
その手は、少し震えているようで。
同じつらいことを経験しているからこそ、〝死〟を覚悟する思いが重なって見えた。
「……つらい過去、話させてごめんね。今までたくさんたくさん…ごめんね」
涙を流して、声を漏らして。
「でも、話してくれて……ありがとう」
気づかないうちに私たちは、惹かれあっていた。お互いの境遇が似ていたから。
それとも神様が巡り合わせたのか。
どちらにしても、これはきっと運命で。
「……ありがとう、千聖くん」
胸の奥底に隠れていた感情が、水泡のように表面にあがってくる。まるで深海の中からぶくぶくとあがる水泡のように、その中に潜んでいた〝答え〟は──
──きっとこれは〝愛しさ〟だ。
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