小さなもやもや(3)


 ***



「──あっ」


 その日の夜、塾から帰って来た理緒と廊下で鉢合わせして、思わず足が止まる。


「お姉ちゃん……」


 然りそれは、妹も同じだった。私の顔を見るなり、一瞬表情が強張った。けれど、その感情を飲み込むようにしたあと、


「た、ただいま」


 笑顔を添えて微笑んだ。


 それは妹なりの強がりと見える。


「……うん、おかえり」


 気を使わせてしまっていることに罪悪感を感じて、申し訳なくなり目を逸らす。


 今までなら会話は、ここで途切れていた。


 私が一方的に逃げるから。


 けれど、それじゃあ今までと同じ。


 何も変わらない。


 だったら私が行動するしかない。


「い、いつもこの時間?」


 緊張のせいで言葉を噛んでしまう。が、私よりも驚いた顔を浮かべたのは理緒だった。私の言葉に「え」と動揺する声を漏らした。


 時刻は、夜二十時過ぎ。バイトがない日は、基本夜ご飯を食べ終えるとすぐ部屋に篭りっぱなしの私は、理緒が何時に帰って来ているのか気づくことがあまりない。


「う、うん、最近は特に遅いかな。受験も迫ってきてるから」


 〝受験〟という言葉に嫌な感情の蓋窯が開きかけるけれど、無理やり押し込んだ。


「あー……そっか、もうすぐだっけ」


 こんなに会話が続いたのは、いつ振りかな。


「う、うん」


 お互い緊張している。


 私も、理緒も。どういう顔をして、どういう態度でいたらいいのか分からないんだ。それだけ長い間距離を取っていたから。


「……」


 お互い沈黙が続いたあと、その空気を打ち壊したのは。


「お姉ちゃん、あのね」


 ──理緒だった。


 けれど、廊下に響く声に気がついたお母さんがリビングからひょっこりと顔を出して「あら」私たちを交互に見つめたあと、


「おかえり、理緒」


 理緒が言おうとしていた言葉は、のどの奥に押し流される。


「……うん、ただいま!」


 そのせいで会話は中断してしまったけれど、理緒が何を言いたかったのか私は少し気がついた。


 会話の流れを見れば察するのは、容易かった。


「あら、美月も。二人して廊下に立ち止まってどうしたの?」


 私と理緒を困惑したように交互に見つめる。


「ど、どうもしてないよ!」


 精一杯、笑って見せる理緒。


 私に気を使わせないようにと、自分が明るく振る舞っているのだ。


「あら、そう?」


 じわりと胸がえぐれる痛みが走り、踏み出そうと思った一歩がたちまち引き下がる。


「理緒は今からご飯食べるでしょ?」

「あ、う、うん!」


 どうせこの場にいたってこれ以上何か進展があるわけではない。そう思って、踵を返そうとしていると、


「美月も一緒にどう?」


 お母さんの声が背中に触れる。


 一時間ほど前に夜ご飯を食べ終えていた私に、尋ねられるとは予想外のことだった。


「お隣さんが夕方、りんごをくれたの。すごく美味しそうでね。だから……一緒に食べないかしら?」


 お母さんが私に声をかける理由は、ひとつしかない。


 ここ一年の間、三人で食卓を囲んだことがほとんどなかったからだ。


「あ、えっと……」


 きっとこれは、お母さんなりの気遣い。


 それを無下にするのは、違う。


 私が一歩踏み出さなきゃ何も変わらない。


「……少しだけ食べようかな」


 伏し目がちに答えると、「よかった」と安堵したような声が落ちたあと、


「じゃあ三人で食べましょう」


 パンッと手を合わせたお母さん。


 恐る恐る顔をあげると、嬉しそうに微笑んでいたお母さん。


 その傍らにいた理緒も、さっきの緊張が少し溶けているようだった。


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