甘いショートケーキの魔法(4)
***
家に帰ると、妹の姿はなかった。
「おかえり」
その代わりに、お母さんがリビングから姿を現した。
「…ただいま」
少し気まずくて目を逸らす。
静まり返る家の中とは対照的に私の鼓動は暴れていた。
理緒は塾なのかな。多分いないってことは、そうなんだろう。だからこんなに静かなんだ。
「今日はバイトいつもより遅かったのね」
ふいをついたように告げられた言葉に詰まって「あー…」と言葉を探す私。千聖くんのことは絶対に言いたくない。というよりも家族の関係が修復してないのに、言えるはずなくて。
「…うん、クリスマスだから忙しくて」
適当に言葉を誤魔化すと、
「そう、…そうよね」
どこか気まずそうに今度はお母さんが言葉に詰まった。
ちら、と表情を伺うように視線を戻せば、笑顔を作っている目尻は少ししわがよっていて、私よりもお母さんの方が苦しそうに見えた。
私が、お母さんを苦しめてるんだ。
そう思ったら、過去の全部が蘇ってきて、また苦しくなってきた。逃げたい、と心の奥で叫ぶ自分。
足を自分の部屋へと進めようと思った矢先。
「そういえばお腹空いてない?」
まるで私がこの場から立ち去ろうとしていたことを予知していたかのようなタイミングの良さに驚いて、え、と足にブレーキがかかる。
「私ったらあなたがバイトがあるのど忘れしちゃって多く作りすぎちゃったの。もう歳かしら……でもね、あなたたち二人の好きなポトフとオムライス作ってあるのよ。食べない?」
私、クリスマスはバイトがあるからご飯はいらない、と言った。それはつい数日前のことだ。たしかに、覚えている。
それなのにお母さんは、ど忘れしたと言う。
きっとそれは、違う。
顔が、言葉が、真実を暴き出す。
「さっき──」
千聖くんと食べたケーキを思い出し、思わず声が出かかる。けれど、それをすんでのところで止めて、飲み込んだ。
お母さんは、私との関係をどうにかして修復しようと踏み出してくれているのだ。
〝美月が家族のこと大切に思ってるなら、今度こそ絆を結び直すチャンスなんじゃないかな〟
〝自分のペースでいいから、少しずつ歩み寄らないとね〟
千聖くんと話した。
ここで私がお母さんを突き放してしまえば、きっと次こそ、糸は切れてしまう。
そんな気がして。
「……少しだけなら」
逃げることをやめて、振り返る。
そうしたら、
「…え、あ、うん。よかったわ。じゃあ温めておくから手洗ってらっしゃい」
今にも泣きそうな表情で、お母さんは笑っていた。
一年振りに見たお母さんの笑顔は、あまりにも切なくて私まで泣いてしまいそうになった。
「さあ、食べましょうか」
リビングの四人掛けのテーブルには、子どもの頃から好きだったポトフとオムライスとチキンが置かれていた。そのどれもから湯気があがる。
「……いただきます」
二人して手を合わせた。
目の前にお母さんがいるのが久しぶりで、どこへ視線を向ければいいのか分からなくて、もくもくとあがる湯気を見つめた。
「たくさんあるから遠慮なく食べてちょうだいね」
まだ一口目も食べてないのに気が早すぎるお母さんに戸惑いながら、オムライスに手を伸ばす。
一口食べたそれは、幼少期に頬張った懐かしい味そのもので。
「……おいしい」
思わず、声がぽつりと漏れる。
視線を感じてハッとして顔をあげると、お母さんは、
「そう、よかったわ」
と嬉しそうに口元に弧を描いていた。
全部、心を見透かされていそうで恥ずかしくなって目線を下げる。これ以上この口が余計なことを言わないようオムライスを二口、三口と食べ進めた。
しばらくお互いご飯を食べ進めて、スプーンがお皿にぶつかる音だけが儚く響くなか、
「お母さんね」
ふいに、ぽつりと声を落とすお母さん。自然と私の手は止まり、代わりに目線が上がる。
「あなたと……美月とまたこうやってご飯を食べられて嬉しいわ」
お母さんの表情は、少し戸惑いと切なさが含まれている。そうさせているのは、私の責任だ。
けれど、それを素直に謝ることができなくて。
「……ご飯なんて、いつも食べてるけど」
なんで、食べてないみたいな言い方するんだろうって不思議に思う。
「そうなんだけど、あなたはいつも早く食べて部屋に戻ろうとするじゃない。ここにはいたくない、って雰囲気が伝わってくるというか……」
あながちそれは間違いではなくて、「あ…」言葉に詰まって目線を下げる。
たしかに私は、ずっとそう思っていた。居心地が悪くて、息が詰まって。こんなところにいたくないって思ってた。
「あなたを責めてるわけじゃないのよ」
私をかばうように矢継ぎ早に現れた言葉に、恐る恐る顔をあげる。
「美月がそう思う理由も知ってるわ……だってお母さん、ずっとそばで見守ってきたつもりだから」
今まで避けてきた話題を持ち出すから、静かに息を飲んだ。
「知ってるからこそ、何も言えなかったの。一番つらかったのは美月なのに、お母さん、見守ってあげることしかできなくて……」
しんみりとする空気に、今までなら居心地が悪くてすぐに逃げていたと思う。
けれど、千聖くんと話して。それじゃあダメだからと気がついて、ぐっと膝の上で拳を握りしめた。
「でもそれじゃダメなのよね……歩み寄らなければ距離はどんどん開いてゆく」
ひとつボタンを掛け違えると、ふたつみっつとそこから先はずれたまま正しい位置には戻らない。一年前からずっと、そうやって過ごしてきた私たち。
「……うん」
お母さんたちは、歩み寄ってくれた。
ただ、私が一方的にそれを拒絶して、距離を作っていた。
「理緒もね、美月に……お姉ちゃんに軽蔑されたかもしれないって、すごく不安になってたわ」
突然、妹の話題が持ち出されるから「え」と顔が強張った私。
「理緒の受験のこと、聞いた?」
そう告げられて、頭の中に記憶が手繰り寄せられて、口の中が急速に乾く。
〝お姉ちゃんが前に受験したところを受けようと思ってる〟
少し前に理緒に言われたことを思い出すと、胸いっぱいに苦い思いが広がって、ちくりと胸が痛み出す。
「あの子、どうしようって不安になってたわ。一生、美月に口利いてもらえないかもしれないって」
苦しくて、下唇をきゅっと噛み締める。
「たしかに美月の心情を考えたら、嫌なことよね。なんでってあなたが思うのも無理はないわ」
私の心に語りかけるようにゆっくりと一言一句を息でくるむように声を落とす。
「でもね」
一度、言葉を切って黙り込むから、私は思わずゴクリと息を飲んだ。
「あの子は……理緒は美月を苦しめるために志望校を決めたわけじゃないのよ」
誰よりも一番、苦しそうに顔を歪めていた。
私なんかよりも、ずっとずっと。
でも、だからって。
「……なんで、よりによって私が受験に失敗した高校に……」
奥歯を食いしばって、拳を握りしめる。
胸の中いっぱいに苦い記憶が広がって、傷口から血がじわりと滲むようで。
「美月があの高校を受験するって言ったときから、あの子の心の中はすでに決まっていたの」
「えっ……?」
私が決めた頃から、理緒も決めていた?
「〝お姉ちゃんと同じ高校に行きたい〟って言っていたわ。元々、お姉ちゃん子だったからそうなったのかもしれないけど」
たしかに、小さい頃は〝お姉ちゃんお姉ちゃん〟って私の後ろをついて来ていた。小学生に上がってからも仲良くて、中学生の頃だって毎日のように登校するのは一緒で。
「美月が落ち込んでから、何度も受験諦めようとしてたし一度は志望校を変えたことだってあったわ」
理緒がそのことで悩んでいたなんて知らない。
私はずっと、自分ばかりを守っていたから。
けれど、それが私の過去のトラウマと何の関係があるっていうの。
「だけどね、どうしても諦められなくて……やっぱり志望校を変更したみたいなの。自分の未来のために」
私は受験に失敗したあの日から、自分の未来のビジョンが見えなくて、ずっと真っ暗闇の中だったのに。
──理緒には、未来が見えているの?
「あの子、学校の先生になりたいんですって」
悲しそうに、嬉しそうに、口元を緩ませながらつぶやいた。
「……学校の?」
理緒が、先生に。
「ええ、そうよ」
……なにそれ、聞いたことがない。
いや、それもそうか。だって私は、家族と距離をとって真剣に話を聞こうとしなかった。理緒に受験する学校を教えられたときだって、自分から何かを尋ねることはしなかった。
わざわざ自分の傷口を開こうと思う人間なんていないだろう。
「最初はあの子の実力では受からないだろうって言われたみたいなの。でもね、どうしても先生になるのを諦めたくないって塾に行かせてほしいってお願いしてきたのよ」
自ら進んで塾に行く、なんて意外だった。
べつに今まで疑問に思っても興味はなかったし、それ以上に深く関わろうとしてこなかった。家族なのに、姉妹なのに。
「……え、理緒が?」
すごく意外すぎて気の抜けた声を漏らしていると、「ええ、意外よね」とクスッと笑ったお母さんは。
「あの子、元々勉強は嫌いで机に向かっているより身体を動かすタイプだったのに」
私の表情を見て心を読み取ったのか、私の疑問を簡単に答える。
「じゃあ、なんで……」
小学生低学年の頃、宿題を教えてと泣きつかれたことがある。夏休みだってギリギリまで宿題を放置して私が手伝ったことだってある。理緒は、根っからの勉強嫌いだったはずなのに。
「──〝私は勉強が嫌いだったけど、いつもお姉ちゃんに勉強教えてって言ったら嫌な顔一つせず優しく丁寧に教えてくれた〟あの子、そう言っていたわ」
突然、告げられた言葉は、お母さんのものではないようで。
それに戸惑って、固まっていると。
「それにこうも言っていたの。〝お姉ちゃんに教えてもらっていたのがすごく分かりやすくて、こんな先生がいたら勉強を好きになれそう〟って」
と、もう一つ〝妹〟の言葉を追加した。
初めて聞いた、理緒の胸の内。
「それから学校の先生になりたいって思ったそうよ」
知らなかった。理緒が、そんなふうに思っていたなんて……
「私はただ……」
だらしない妹の面倒を、姉として当然のことをしただけであって。褒められるようなことなんて何ひとつしていないのに。
「美月が理緒に勉強を教えてくれたから、あの子、それで学校の先生に憧れたんじゃないかしら」
どこか遠くを見つめながら、表情を緩ませるお母さん。まるでその表情は、昔私たちが仲良く過ごしていた光景を思い浮かべているのかもしれない。
「だからね、決して美月を苦しめようと思っているわけじゃないってことだけ、どうか……どうか分かってあげてほしいの」
今までは、聞きたくもなかったし知りたくもなかった。
私の身に起こる全てのものが不幸だと思っていた。全部、羨ましくて憎くて苦しくて悲しくて、世界を恨んだし絶望したし、消えたいとすら思った。
──私は、この世界で幸せになれないのだと思っていた。
けれど、彼に出会ってから心に変化が現れた。
それは全部私の思い込みにしか過ぎないのだと知った。
私が変わりたいと願うなら、いつだって変わることができるのだと教えられた。
だったら、今ここで。
〝過去〟を断ち切らないといけないんだ。
「……うん」
私の一歩は、ほんの数センチしか進まないかもしれない。
それでも動かないでその場に立ち尽くすよりは、いいのかもしれない。
「……理緒の気持ち教えてくれて、ありがとう」
私がそう言うと、お母さんは口元に手を当てて、
「……ありがとう」
涙をこらえるように、その言葉を繰り返した。
そして。
「お母さんは、あなたたち二人が一番大切なのよ。それだけはどうか忘れないで」
今にも泣きそうな顔で、精一杯の笑顔を見せていた。
──自分はこの世界に必要ないと、ずっと思い違いをしていたのかもしれない。
だって今は、こんなにも胸が熱く満たされているのだから。
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