第7話 過去と向き合う(1)


 ◇


 原さんとカフェで話をして数日が経った。千聖くんとはあれ以来、連絡をとってはいない。


「はあ、どうしよ……」


 机の上に本を広げてみるけれど、内容なんか全然頭の中に入ってこない。心が乱されて、落ち着かない。


 原さんと話をして、自分がどうしたいのか分かったからかな。

 まさか自分の口から〝仲直りしたい〟なんて出てくるとは思わなかった。


 けれど、時間が経てば決断力は段々と鈍ってくる。あのときは原さんと話をして気が緩んだだけかもしれない。原さんに誘導されたのかもしれない。あれは私の言葉ではなかったのかもしれない。


 そう思うと、やっぱり行動なんかできなかった。


 きっと今頃千聖くんは、私のことなんて忘れてクラスメイトと楽しい日々を送っているに違いない。私がいないだけで、何も変わりはしない。世界は回ってゆく。いつのまにか私のことを忘れてゆく。


 ──ただ、それだけだ。


 だから、これでよかったんだ。


 これで……


「──美月」


 ふいに私の名前を呼ぶ声が聞こえた。


 その瞬間、私の心はひどく動揺する。


 だって、その声は──


「……なっ、なんで……」


 ここに現れるはずのない、千聖くんの姿があった。


「美月とちゃんと話をしようと思って」


 私の目の前にいる彼の表情は、少し穏やかではなかった。


 そりゃそうだ。なんせあんなひどいことを言ったんだ。怒って当然。


 ──ガタッ。


「……教室には来ないでって言ったじゃん」


 慌てて椅子から立ち上がり距離を取る。


「うん。でも、美月と話すためにはこうするしかなかった」


 教室の中は、なんだなんだとざわめき出して、注目の的になる。普段目立たないように過ごしてきた私からすれば、それは居心地が悪い以外のなにものでもなくて。


「っ」


 ──早くここから逃げ出したい。


 でも、足が鉛のように重たくて、酸素が足りなくて息が苦しくなる。


「だから、ちょっとだけ美月の時間もらうから」


 穏やかな表情が少し戻ってくると、ふいに私の手を取って歩き出す。


「ちょ…っ、待っ……」


 切羽詰まった私は言葉を出すことさえもままならなくなって。


 教室の中は「何々?」「何かあったの?」という言葉とともに、たくさんの視線を感じとって、顔を下げる。けれど、人とぶつかることなく進んでゆけるのは、彼が私の手を握って誘導しているから。


 守ってくれるから。


 ──私、ようやく息ができそうだ。



 ***



 そうして逃げてきたのは、屋上だった。


 ──チャイムが鳴り、授業が始まる。


 グラウンドで体育の授業をしているのか、わーわーと声が響いた。

 授業中、私たちだけが屋上にいる。不思議な感覚が私を襲った。


「なんか不思議だね」


 ふいをついたように、彼が言葉を落とすから、「え」と困惑した声を漏らして顔を上げる。


「授業中なのにここには俺と美月の二人だけ。まるで世界に俺たちしかいないみたい」


 グラウンドを見下ろしながら、笑った。


 たしかに、ここは私と千聖くんが初めて出会った場所。

 私がここに駆け上がってフェンス越しに景色を眺めていると、『死ぬつもり?』って、尋ねられて。千聖くんが来なければ、声をかけられなければ、私は今もずっと一人だった。


 少しだけ懐かしさを思い出し、胸がきゅうっと苦しくなる。


「美月、約束守れなくてごめん」


 いきなり謝られて、困った。


「え、なんで……」


 悪いのは私。千聖くんを傷つけたのも私。


 それなのにどうしてごめんだなんて。


「教室には来ないって言ったのに、その約束守れなかった」


 そういえば、出会った頃にそんなことを約束した気がする。もう随分、前のことのようで。自分から言っておいて忘れるなんて、信じられない。


「だけど、ああしないと美月のこと捕まえることできそうになかったから」


 真剣な話をしているのに、なぜか妙におかしくなってしまう。


 彼が言った〝捕まえる〟って言葉。


 それってまるで私が逃げ回る。


「……私がネズミみたいな言い方」


 思わず、ボソッと呟くと、


「じゃあ俺は、猫かな」


 と、冗談めいたことを言ってクスッと笑った。


 今まですごく怒ってたのに、なんだかバカらしくなって。


「……もうっ、なにそれ」


 思わずクスッと笑ってしまった。


 今までずっと避けていたのが、まるで嘘のようだ。


 ひとしきり笑ったあと、「俺さ」ポツリと千聖くんが話し始めるから、彼に意識を集中させると、


「美月が何かを抱えてるのは気づいてたけど、全然力になってあげられなかった。挙げ句の果てに距離もできちゃうし、なのに俺、美月と約束したからそばに行けなくて」


 まるで自分のことを責めているかのような言葉に声に、胸がぎゅっと苦しくなる。


「学校の外で何度か会ったけど、美月は俺から逃げてばかりだし。全然、話す時間なんかなくて」


 千聖くんは、こんなにも優しくて温かい言葉をかけてくれるのに、私はどうして信頼することができなかったんだろう。頼ることができなかったんだろう。


「俺が近づきすぎたせいなのかなって思って、今回距離をとったけど……」


 あんなに傷つけて、突き放してしまったんだろう。


「でも、今度は俺、引かないよ。美月が教えてくれるまでここを一歩も動かない」


 私の目を見据えて、彼が言う。


 その瞳は、いつになく真剣で私は逸らすことができなくなった。


 彼の言葉はいつだって素直で真っ直ぐで、濁りなんかひとつもなく。霧がぱあっと晴れてゆくようで。


 私は、一体今まで何をモヤモヤと一人で悩んでいたんだろう。何に怯えていたんだろう。


 もう、大丈夫。

 私、決心がついたから。


「……あのね、千聖くんに聞いてほしいことがあるの」


 重たい口をゆっくりと開くと、


「うん、待ってた」


 千聖くんには、全てお見通しのようで。


 陽だまりのように笑ったのだ。


 今日の空は、雲一つない晴天で。晴れ渡る日の三限目、私は千聖くんと屋上にいて。これから私は、一歩踏み出す。


 ぎゅっと拳を握りしめて、すーはーと呼吸を整えてから。


「私ね、受験に失敗したんだ」


 今まで誰にも言えなかった秘密を、ゆっくりと打ち明ける。

 千聖くんは、え、と困惑したように表情が固まった。


「ほんとは、べつに行きたいところがあったの。友人二人と一緒に合格しようねって誓い合った高校に、私は行くはずだった……」


 〝みんなで合格するんだよ。約束だよ。〟


 そうやって、誓い合った。


「でも…私だけが不合格だったの」


 あの日のことは、忘れもしない。


 忘れられるはずがない。


 だって、私がどれだけ。


「……絶望したか……どれだけ苦しかったか」


 どうして私だけ? なんで私だけ?


 答えが出るはずのない疑問を、ずっと考えていた。


「それからの毎日は私にとって地獄のようで。全然、何も楽しくなくて……」


 生きてるのか、死んでるのか。分からなくなるほどに私は、自分の人生に絶望した。


 私は初めて、〝挫折〟した。


「だからね、この学校にだってほんとは行きたくなくて……」


 声を落とすと、「じゃあ前に言ったあれって」私の言葉を思い出した千聖くん。おそらく点と点が繋がったんだろう。


「うん、行きたくなかったけど、高校を卒業してないとどこも就職は取ってくれないから仕方なく…」


 仕方なく、この学校へ通っていた。


 けれど、それは私にとって。


「苦しくてたまらなくて、今にでも消えてしまいたいって思ってた……」


 ──消えたい、と。

 ──やり直したい、と。


 心の中の感情はぐちゃぐちゃに。まるで混ざり合った絵の具のように。そして最後は、真っ黒な色に染まって、堕ちてゆく。


「そんなときゴミ捨ての帰り道に、ふと空を見上げたの。そうしたら屋上が目に入った。そこへ来れば何かが変わるのかなって思って」


 絶望を目の前にした私が、そんな小さな期待を胸に抱きながら、屋上までの階段を駆け上がった。


 何段あったかなんて数えてないから覚えてないし。


「でも、結局見えるのはただの街の風景だけで。何一つ期待するものなんてなかった」


 そして、あのとき感じたのは。


 ──ああやっぱり、私の人生はこのまま真っ暗闇で、光なんかないのだと思った。


 その瞬間、また絶望感に襲われる。


「そんなときに、急に千聖くんがあのドアから現れて……」


 振り向いて、ドアへ指をさした。


 あの日の出来事は、衝撃的で、鮮明に今でも覚えている。


 初めての出会いなのに、彼の第一声は。


「俺が『死ぬつもり?』って声かけたんだっけ」


 私が言う前にその言葉を千聖くんが言った。


 それに少しだけ驚いて目を見開いたあと、うん、と頷いた私は、


「あのときはすごく驚いたの。どうしてそんなこと聞くんだろうって」


 もしかしたら私の心でも読めるのかなって、そんな摩訶不思議なことを思った。


「あのときの美月、何かしでかしそうなくらい表情が暗かったから、引き留めなきゃって思ったんだよね。で、焦ったらあんなこと言っちゃったんだ」


 何かしでかしそうって、いわゆる自殺ってやつだよね。


「私、そんなに暗い顔してたの?」

「そりゃあもう……今にもここから飛び降りるんじゃないかってくらい」


 あの日の出来事を思い出したのか、千聖くんは焦ったような表情を見せる。


 仮に私が自殺志願者だったとしても、


「これだけフェンスが高ければ飛び降りるなんてできないよ。だってまず向こうに渡れないわけだし」


 決定的な証拠を突きつけると、


「いやまぁ……そうなんだけどさ。その時の俺は焦ってたわけで」


 と、少しタジタジになる千聖くん。


 それに〝焦っていた〟と言われて記憶を掘り返してみるけれど、あのときの千聖くんは焦っていたというよりは、むしろ。


「すごく馴れ馴れしかったけど」

「え?」

「だってあんな初対面で……」


 〝可愛い〟なんて言ったりしない。


 もごもごと口ごもっていると、「ああもしかして」とピンときたのか、


「俺が可愛いって言ったこと?」


 と的確に的をついてくるから、「なっ…!」言葉にならない声を漏らしてしまう。


「あのときも言ったけど、あれは嘘なんかじゃないからね。たしかに馴れ馴れしいかなって思ったけど場の雰囲気を明るくした方がいいかもって思ってさ」


 場の雰囲気を明るくするって。


「……じゃあそれ以外の言葉でもよかったんじゃないの」

「まあー、そうなんだけど」


 照れ隠しのように頭を掻いて笑う千聖くん。


 目を閉じても、あの日の光景が瞼の内側に焼き付いているようで。


「私が、あの日どれだけ千聖くんに冷たく接しても、なぜか優しくしてくれるし」


 瞼を押し上げた。目の前に広がるのは、あの日と同じ光景で。そして隣には彼がいて。


「冷たく接しても千聖くんは全然めげなくて、むしろどんどん距離を詰めて来るみたいで、ほんとはすごく困った」


 私がそんなことを言っても「ああやっぱり?」と笑っているだけで、ちっとも怒らない千聖くん。


 彼は、いつも笑顔で、穏やかで。荒れている私の心を何度もひょいと掬い上げてくれた。


 千聖くんの表情を見ると心が緩む。厳重にカギをしていたのに、ふわっと解けてガードが緩んだ。


「結局ね、屋上に登っても何も変わらなかった。ただただ苦しい毎日の繰り返しで」


 昨日に絶望しても、また朝がやって来たら今日という日が始まってしまう。


「人生に絶望して、希望も望みも失って、生きる意味もなくなった」


 ──この世界に絶望して、そして生きる気力を失って。


「そんなとき、私を追い込むように…妹が……」


 のどの奥が苦しくなって、息ができそうになくなって、しゃべるのを中断してのどを抑えると、


「美月、つらいならもう無理にはいいよ」


 背中にそっと手を添えて、さする。


 そこから伝わってくる温もりが、優しさが、涙を誘う。涙が込み上げてくる。

 けれど、私は首を振って、すーはーと呼吸を整えてから。


「そんなとき…妹が、私が受験に失敗した志望校に受験するって言ってきたの……なんでって思った……どうして私が落ちた志望校をわざわざ受けるのって……私に対する嫌がらせなのかなって、思って妹のこと避けちゃって……」


 たった一人しかいない妹のことを、私は拒絶してしまった。


 けれど、悲しい出来事はこれにとどまらず。


「この前だって中学のときの友人にバイト中に再会したの……二人は、合格した志望校の制服を着てた。私も一緒に着るはずだった…二人は制服を身に纏って、楽しそうにしてた……」


 私ができなかった高校生活を、満喫している様子で。


「どうして私ばかりが、こんなに苦しまなきゃいけないんだろうって……なんでなんでって……」


 ──思って、神様を恨んだ。


「世界は不公平で、そして理不尽で……私ばかりが苦しい目にあって……」


 ──今までギリギリ繋がっていた糸が、切れかかった。


 その日、私は。


「……死にたいって思った」


 だから、


「橋から飛び降りたら、苦しい世界から逃げられるのかなって…思って……」


 あの日、普段は通らない道を通って。川を見つけた。大きな橋を見たとき、なんの躊躇いもなく、そこを渡った。橋の中央あたりで止まって、川を見下ろした。この高さなら、この寒さなら、死ぬことができるかもしれないって。


「思ったけど…死ねなくて……」


 橋の柵を掴んだ、あのときの感触と冷たさが今にも思い出されて、身体が震える。


 あの日、私には勇気がなくて。


「……怖くて、死ねなかった……っ」


 屋上は高さがあるせいで風が吹くと、揺れているように感じる。橋から見下ろした川が脳裏に浮かび、恐怖を感じた私は、咄嗟にしゃがむと両手で顔を覆った。


 苦しくて、苦しくて、たまらなくて。


 生きることを諦めて、死ぬことを選ぼうとした私。


 それなのに、できなくて。


「──もういい…っ」


 ふいに、私を包み込むように落ちた温もり。


「もう、わかった……美月の気持ち痛いほど……だからもう何も言わなくてもいい」


 私の身体をぎゅっと引き寄せる。


 守るように、覆われて。


 その言葉が温もりが、彼の存在が、どれだけ偉大か実感させられて。


「……ふぅ…っ、ひ…っく」


 声をあげて泣いた。


 今まで泣くのを堪えていた。我慢していた。

 泣いてしまえば、もっと心は弱くなって立ち直れなくなると思っていたから。


 これからも嫌でも生きていかなきゃならない。自分を守るためには、泣けなかった。ううん、泣かなかった。


 その張り詰めていた糸が事切れて、涙の波が押し寄せる。


 私が泣いている間、千聖くんはずっとずっと私を抱きしめてくれた──。



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