やり直すチャンス(2)


***



 それから移動してやって来たのは、見慣れないカフェ。初めて入ったおしゃれな店内に、私は居心地が悪くてそわそわする。


「高野さん、何か頼む?」


 そんな私を落ち着かせるように原さんが声をかけて「あ、えっと……」言葉に詰まった私は、慌ててメニューへと目を落とす。


「ここね、パンケーキがすごく人気なんだけど……私のおすすめはストロベリーパンケーキだよ」


 メニューの左下に指をさす原さん。


 原さんがおすすめだと言ってくれたパンケーキはすごくおいしそうだった。でも、お腹が空いてなかった私は、ホットラテだけ頼むことにした。もちろん原さんは、おすすめだと言ったストロベリーパンケーキを注文する。


「無理やり連れてきてごめんね」


 パンケーキを半分くらい食べ終えた途中で、しゃべり始める原さん。


 私は、いえ、と答えて目線だけを外す。


「あのまま高野さんを一人に帰すわけにはいかないかなって思って、勝手に呼び止めちゃった」


 屈託のない表情を浮かべて、べーっと舌を出した原さん。私と三つしか違わないのに、彼女には余裕と大人っぽさが垣間見える。


「どうして……」


 ぽつりと声を落とすと、「ん?」わずかに首を傾げた原さん。


「どうして、原さんはそこまで……」


 ──ただのバイトで顔を合わせるだけの私なんかのことを、気にかけてくれるんだろう。


 他人である私のことを。


「だって私たち、知らない間柄じゃないからね。いつも同じ時間のシフトに入って、助け合って、おしゃべりだってして……」


 一つ一つ指を折り曲げたあと、「あ」と声を漏らして「まぁそれは私が一方的に、だけど」とクスッと笑って、


「でも、そんな関係が半年も続けば知らない人ではないんだよ」


 今度は、真剣な眼差しを向けられる。


 カフェの店内は、落ち着いたオルゴールが流れていてゆったりとした空間に包まれる。そんな空間で、暗い話をする私たちの周りだけがしんと静まり返っているようで。


「一度関わりを持った人のことを他人とは呼ばない……ううん、他人ではいられないの。だから私は、勝手に高野さんのこと助けるよ。助けたいと思ってるの」


 私たちは、どこまでいっても他人。それなのに原さんは、私のことを他人じゃないと言った。


 胸の奥が、ぎゅうっと苦しくなる。


 どうして原さんも、千聖くんも、〝他人〟である私のためにそこまでできるんだろう。寄り添ってくれるんだろう。


「……私っ…」


 私は、いつだって自分のためにしか行動できないのに。


 きゅっと強く結んだ唇が紐解かれて。


「……過去に後悔してることがあるんです」


 これから初めて誰かに〝過去〟(トラウマ)を話す。


「……トラウマっていうか、すごく、すごく絶望したことが…あって…」


 膝の上に置いていた手のひらは、力が加わっていつのまにか拳になっていて、


「そのことで私……っ、今全然楽しくなくて……ずっと、ずっと…苦しくて……生きてるのに死んでるみたいで…」


 ──あの日、屋上に駆け上がった。そこからなにが見えるんだろうって。行けば何かが変わるのかと思って少しだけ期待した。


 けれど、何一つ変わることはなくて。


「……私、暗いトンネルの中にいたんです。どこまで歩いても出口は見えなくて……もうどうすればいいか、分からなくて…」


 受験に失敗したあの日から、私の光は見えなくなった。どんどんどんどん暗くなって、私の世界に色がなくなっていった。


「そんなときに……声をかけてくれた人がいたんです……っでも、私はその人を突き放してしまって……」


 ──千聖くんを、拒絶した。


 太陽の存在の彼が、雲の存在である私とは住む世界が違うから。


「過去のトラウマの理由って、話せたりする?」


 一呼吸おいた原さんが、穏やかな声で尋ねる。


「それは……」


 言えずに、困った。目を下げて、カフェラテの湯気を見つめると、


「うん、無理して言う必要はないからいいよ」


 今度は優しい声が落ちてきて、恐る恐る顔をあげる。表情は声と同じで穏やかで、わずかに口元に弧を描いていた。


「いくらバイトで顔を合わせてるからといって、それが信用に値するかといえばそうじゃないもんね。高野さんがまだ私と距離があるのは知ってるから」


 と、言ったあとホットコーヒーを一口飲んだ。


 その言葉に、え、と困惑した声を漏らした私を見つめて、また笑う。


「私は高野さんと仲良くなりたいって思うけど、高野さんは一定の距離を保ってる人だから」


 次々と言葉を並べるわけじゃなく、間を置いて。私の考える時間を与えながら。


「無理に踏み込むことはできないけど、でも、悩みって一人で抱えてる方がきつくて苦しいでしょ」


 私の心を理解しているかのように告げられる言葉は、どれも図星すぎて「それは……」と口ごもる。


「私でよければ話聞いてあげたいなって思ったんだけど、それはまだ難しそうだから」


 何か言いたいのに、言えなくて。私は人を傷つけて困らせることしかできないのかと情けなくなって、目線を下げた。


「例えばさ、高野さんの身近に悩みを打ち開けられそうな人いたりしない?」


 ふいに、そんなことを言われて咄嗟に頭に浮かんだのは、〝千聖くん〟だった。


 な、なんで、こんなときに限って彼が現れるの……私から突き放したのに、なんで。


「もしかしてその顔は心当たりがあるのかな」


 私の表情一つで読み解いたのか原さんは、屈託のない表情を浮かべて。


「高野さんの話を聞いててね、思ったの。もしかしたら、突き放してしまった〝その人〟なら打ち明けられるんじゃないかって」


 一瞬理解が追いつかなくて、瞬きを数回繰り返すと、


「さっき高野さん、声をかけてくれた人がいたって言ってたでしょ? だけど突き放してしまったって。それをすごく悲しんでる様子だった。悲しむってことはそれだけその人に心を許してたんじゃない?」


 淡々と告げられた言葉は私をひどく動揺させる。


 千聖くんになら過去を打ち明けられる?


 ──そんなはずない。だって、ずっと過去を隠してきたんだから今さら言うなんてことできないし。


 私が千聖くんを信頼してた?


 ──ううん、違う。だって私たちは元々、住む世界が違うから一定の距離を保っていた。それは信頼していないわけで。


 だから。


「そんなはずは……」


 ──ない、そう言い切りたいのになぜか言葉はのどの奥から現れなくて。


 そんな私に。


「ないって思いたいのかもね」


 言えなかった言葉を軽々と言ってのけた原さんは、


「それだけ高野さんは、傷つきたくなくて自分のことを守ってるのかもしれないね」


 〝傷つきたくない〟


 たしかに、その通りだ。私は、これ以上傷つくことに恐れている。きっとこの世界の誰よりも。


「でもさ、果たしてそれが自分を守ってることになるのかなぁ」

「……え?」

「そうやって身近にいた人を突き放して自分を守った気でいても、実際はその逆。自分を追い詰めてることになったりしない?」


 自分で自分を追い詰めている?


 一体、何のために……


「私は、だた……」


 自分を守るために千聖くんを突き放して。


「ほんとは、嬉しかったんじゃないのかな。その人がそばにいてくれて、嬉しかったんじゃないのかな、一人じゃないって思えて」


 口ごもる私に向けて落とされた言葉に、ハッとした。


 その瞬間、頭の中で何かがカチッと音を立ててハマった気がした。


 ──もしかしたら、ずっと今まで自分が否定していたものかもしれない。


 住んでる世界が違うからと突き放して、千聖くんを傷つけてあんな顔までさせて。ほんとは傷つけるつもりなんてなかった。

 ただ私は、これ以上自分が傷つかないために、自分の心を守るために放ったトゲだった。


 けれど、自分を守るために相手を傷つけていい理由にはならない。


 それなのに私は。


「……傷つけて、しまった……」


 優しかった彼──千聖くんのことを。


「……どうしよう……っ」


 今になってやっと気がついた。自分がしてしまった〝後悔〟を。


 ──もう千聖くんと、二度と会うことはできない。


「高野さん……」


 そう言って、一度声を切ったあと、


「……ねえ、美月ちゃん」


 意外なものが落ちてきて、思わず顔を上げる。


「その人を傷つけちゃったなら謝ればいいんじゃないのかな。傷つけたことに気づけたのなら、まだ遅くはないよ」

「で、でも、怒ってるかもしれないから……」


 いくら優しい千聖くんでも、一方的にあんなこと言われたら嫌だと思うし。「そうだね、怒ってるかもしれないよね」私の言葉に頷くから、ますます私は落ち込んだ。


「でも、仮に怒っていたとしても、やり直せるチャンスが残ってるならやり直した方がいいって思わない?」


 人生は一度きりしかなくて、やり直すことさえできなかったことだってある。


「それは、思いますけど……」


 苦い記憶が蓋を開けて私の心をひどく傷つける。


「でも、やり直せる証拠なんてどこにもないし……」


 弱虫で、勇気もなくて。あの頃のままの自分と変わらなくて。


「じゃあ、美月ちゃんはどうしたい?」


 ふいに告げられた言葉に、え、と困惑した声を漏らした私に、


「その人と仲直りしたい? それともこのまま関係が修復されなくて何もなかったときに戻って過ごしたい?」


 究極の二択を持ち出されて、困った。


 私は千聖くんとどうしたいんだろう。どうなりたいんだろう。


「……べつに、今の──」


 ままでもいい、と言おうと思ったそのとき。


 優しかった口調や表情や、言葉や存在が。今まで向けられた笑顔、言葉が次々と記憶の奥底から溢れてくる。


 〝美月〟


 優しい声色で、名前を呼ばれる。


 耳に残るあの声が、懐かしくて。


 ──そして。


「……仲直りしたい」


 自然と口をついて出た。


 言ったあとにハッとして、慌てて口を手で覆うけれど、


「じゃあ、これから美月ちゃんがとる行動は一つしかないね」


 その答えが現れるのを見越していたかのような表情で私を見つめる原さん。


 私は、それに小さく頷いたのだった──。


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