第4話 住む世界が違うから(1)


 ◇


「高野、これ半分持ってくれ」


 授業終わり、数学の先生に頼まれる。


 おかげで休み時間は潰れた。といってもべつにいつも無駄に潰していたから用があるだけマシかも。

 数学準備室まで荷物を運ぶと『すまない。助かった』と言われて、あとにする。


「千聖ー、こっち来て」


 ふいに聞き覚えのある名前が呼ばれて、ぴたりと足が止まる。教室の上の小さな看板を見上げると【1ー2】と書かれていた。


 ──ということは今の〝千聖〟って……


 ドアから中を覗けば、輪の中に混ざる彼の姿が見えた。


「なにー?」


 楽しそうに笑う彼──千聖くんの姿。


「なぁなぁ、これどう思う?」

「おー、いいんじゃない。似合ってる」


 たくさんの輪の中に混ざって、楽しそうにはしゃぐ姿は、高校一年生そのもので。けれど、私はその姿を見たことがなかった。初めてだった。


 ──チクリ、胸が小さく痛んだ。


 まるで小さな棘が刺さって抜けない痛みが広がっていく、それに似ていた。


「ねぇねぇ、千聖くん。私のは、どう? 髪の毛、美亜にしてもらったの」

「あー、うん。可愛いと思うよ」

「えー、ほんと? よかったあ」


 彼を取り巻く男女数人。みんなキラキラしていて可愛くて、私とは対照的な過ごし方。


 私の方こそ千聖くんのプライベートを知らなかった。どんなふうに過ごして、笑って、しゃべって。どんな人なのか。全部を理解できてはいなかった。


 べつにそれが彼のせいではない。私だって言っていないことはたくさんあるから。人のことは言えない。


 ──ただ、勝手に思っていた。


 千聖くんも私と同じかもしれないって。何か悩みがあって、後悔もあるんだって。そう思って仲間意識を感じていた。


 けれど、違った。


 私と千聖くんの住む世界は、全然違った。


 私は一体、今まで何を見ていたんだろう。


 恥ずかしくて、この場にいるのが嫌になる。それなのに足が鉛のように固まって動かない。


「──あっ」


 ふいに聞こえた声に視線を向けると、千聖くんの瞳とぶつかった。


 彼はこちらへ来ようとするけれど、咄嗟に目を逸らした。一向にやっては来ない。その理由は、「誰?」「どうしたの?」「何々?」ひそひそと声が聞こえてくるからだ。


 絶対に私のこと言ってるんだ。


 好奇の目に晒されるのは、勘弁だ。


 きゅっと唇をきつく結んで、足に力を入れると鉛のようだった足は動いた。


「待って、美月!」


 けれど、すぐに後ろから名前を呼ばれる。千聖くんの声だ。


 自然と私の足はスピードを下げる。まるで千聖くんの声が魔法のように、身体は固まって動かなくなる。


「美月、こっちで会うの珍しいね」


 どうしよう、どうしよう。自分の教室には来ないでって言うくせに人の教室には黙って行くって矛盾しすぎ……いやいや、べつに来たわけじゃなくて、先生の手伝いのあとにたまたま偶然通っただけで、と頭の中で言い訳を考える。


「……せ、先生の手伝いの帰り、だから……」


 たった今頭の中で考えていたことを口早に告げる。

 そうしたら、そっか、と言いながらもニコニコ笑う千聖くん。その笑顔を見て気が緩みかける。


「いつもは公園でしか会えてなかったから、学校で会うのってなんか新鮮だね」


 いつもひとりぼっちの私は、学校で誰かと話すことなんて滅多にない。それこそ先生たちとしか会話がないときもある。一言もしゃべらないときだってある。たまに言葉を忘れてしまうことがある。それだけしゃべっていないから。


「……そーだね」


 予想もしていなかった展開に口の中が急速に乾いていく。緊張して、身体の熱を奪う。


「もっとこうやって会えたら美月と話せる時間増えるのになぁ」


 ──私と話す時間がなくても千聖くんは、困らないでしょ。たくさんの人に囲まれてるんだから、と心の中で、もう一人の私が棘を吐く。


「じゃあさ、こうやって美月が俺の教室に顔出してよ。そしたら話せるでしょ」


 名案だとでも言いたげな表情を浮かべる千聖くん。


 一体、何が名案なのだろう。


 楽しそうにおしゃべりをしている姿が頭に蘇って、心の奥に黒い感情がもくもくと現れる。


 あんなに友人がいるのなら、私が来る必要はないし私に構っている必要だってない。むしろ私は余所者で、邪魔者扱いしかされない。


「……私、こっちに用事ほとんどないから」


 今日は偶然、先生の手伝いに駆り出されただけ。


「なんで。俺に会いに来るっていう用事があるじゃん」


 ニイと歯を見せて笑う千聖くんは、やっぱりいつ見ても明るくて。私とは対照的。


 それにどう考えても。


「それは理由って言わないよ」

「じゃあそれを理由にして会いに来てよ」


 なんて無茶苦茶な話がスピードを上げて進んでいくから、


「な、なんで、私が」


 困惑して言葉に詰まる。それみよがしに彼は。


「もっと美月と話したいからに決まってるじゃん」


 歯の浮くような言葉を平然と言ってのける。だから、また私だけが一人勝手にそわそわして落ち着かなくなる。


 千聖くんの言葉は、いつもストレートで私の心の奥まで深く染み込んでくる。どんなに拒んでも距離をとっても、二倍のペースで距離を詰めるから。


「そ、それは……」


 結局私が一方的に押され気味になる。


「俺、もっと美月と仲良くなりたいって言ったでしょ。あれ、本気。だからさ、ダメ?」


 さらに言葉を被せて私の身動きを封じる。最後の最後まで、攻める手を緩めない。


 真っ直ぐ見据えられる瞳と、柔らかそうな髪。全神経が彼に釘付けになる──


「千聖ー、何やってんのー?」


 不意をついたように彼を呼ぶ声がする。私より先に「んー?」振り向いた彼。表情は見えないけれど、


「もうちょっと待って」

「なになに。千聖の彼女?」


 窓際と廊下側と距離を隔てて会話する男の子と千聖くん。彼らが今、誰を話題にしているのか容易に理解できた。


 ──標的は〝私〟だ。


「……はあ? そんなんじゃないって」


 ──チクッ。


 胸の奥が小さく痛む。


 なに、今の。べつに私たちがそういう仲じゃないのは、知ってるでしょ。それなのになに勝手に傷ついてるの……私は、目立たずに過ごすことだけを考えてればいいの。


 だから私が今、やるべきことは。


「ご、ごめん、千聖くん。私、用事思い出したからもう行くね……!」


 背を向けて話をしていた彼の背中に声をかけたあと、床を蹴って走って逃げることだった。


「え、ちょっ、美月?!」


 慌てた彼は声を漏らして、パタパタと追いかけてくる足音が一つ大きく響く。が、すぐに捕まって。


「ねぇっ、なんで逃げるの?」

「だ、だから用事思い出したから」

「そうだとしても今まだ話してたじゃん。いきなり帰ったら俺、傷つくじゃん」


 傷つくのは、私だって同じだよ。


「……ごめんね」


 でもね、あの場所にいたくなかった。クラスが違うだけで、まるで別世界。未知の世界に足を踏み込んだみたいにそわそわして落ち着かなくて、私が邪魔者に見えてならない。


 息苦しくてたまらなかった。


「あ、いや……俺こそ途中で他の子と話してごめん。みんな悪い子じゃないんだけど、楽しいことが大好きな子ばかりで。美月に嫌な思いさせてたらごめん」


 急にしおらしく謝るから、こっちが調子狂っちゃう。


「なんで、千聖くんが謝るの?」

「だって、みんなが……俺の彼女か?って言ってきたから。嫌でしょ、好きでもない男と誤解されちゃったら」


 ──私は、千聖くんが嫌いなわけじゃない。


「……べつにそういうので嫌な思いなんてしないよ」


 ただ、千聖くんのクラスに行くと、どうしたって思い知らされる。


 私と千聖くんは、住む世界が違うんだって。


 クラスメイトは和気藹々としていて、楽しそうな雰囲気。その中心に千聖くんがいて、彼がいたらぱあっと一気に晴れる。まるで太陽のように。


「ほんとに?」

「……うん、ほんとだよ」


 本音を奥底に隠して、頷いた。


 そして、縮まりかけた距離をそうっとまた引き伸ばす。

 これ以上、自分が傷つかないために。


「じゃあ私、もう行くね」


 千聖くんの目を見ることができずに胸元についている刺繍を見つめた。胸がチクリと痛んで、血が滲みだしそうになる。


 それから教室へは戻らずに、屋上へと駆け上がる。重たい扉を押し開けて、外に出る。


「ぅわっ…」


 ヒューと強い風が吹いて、一瞬で熱を奪う。


 寒い、痛い。苦しくて、苦い。


 高校生は、難しくて少しのことで傷ついて、嫌になることなんかたくさんで。どんなに涙を流しても、この世界に絶望しても、それでも明日はやって来て、生きなければならない。


 けれど、そろそろ。


「……苦しい、なぁ……」


 自分の限界が近づいていることに気がついていた。


 チャイムが鳴り授業が始まる合図。


 けれど、私はその場から動くことができずに、屋上の扉の前で小さく丸くなって身体を抱きしめるように、小さく小さく下唇を結んだんだ。


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