ハリネズミと離れる距離(3)


 ◇


「おーい、美月!」


 耳元で聞こえる彼の声にハッとして、まばたきを数回したあと隣へと顔を向ける。


「……な、なに?」

「今日の美月、ぼーっとしてるよ。何かあった?」


 〝何か〟は、あった。


 妹に受験する高校名を聞かされたあれが原因だと思う。


「な、何もないよ」


 けれど、言えない。


 そんなことで落ち込んでると思われたら、器の小さいやつだなって笑われるかもしれない。それにきっと理解されない。姉妹なんだったら、仲良くすればいいのにって。姉である私だけが悪者扱いされるに違いない。


「ほんとに? だって何度も声かけたんだよ。でも、気づいてなかったし。何か考え事してたんじゃない?」


 油断をすればすぐ頭の中をあの話が支配する。もやもや、イライラ、渦巻いて、笑うことさえ困難になる。


 ──でも、ダメだ。早く忘れなきゃ。千聖くんは、勘が鋭い。気づかれる前に心の奥底に沈めなきゃ。


「う、ううん、ほんとに。なんでもないよ」


 逃げるように千聖くんの方から顔を逸らす。


 すると、空気を読み取ったのか「そっか」とそれ以上は触れてくることはなくて。溢れそうになった感情が鎮まった。


「そういえばさ、他になにかやりたいこと見つかった?」


 唐突に話を切り替えるから、会話に追いつけなくて「え」と声を漏らすと。


「ほら、前に俺が言ったでしょ。まだ美月がやりたいことあるなら一緒にしようって、あれ本気だからね」


 急速に記憶が手繰り寄せられて、「あ」声を漏らす。


 たった数日ほど前の夜を思い出す。バイト終わりの帰り道、一緒に肉まんを食べた。誰かと一緒に食べたそれは、ほかほかで甘くて身体の中に染み渡った。


 そのときに、千聖くんが言っていた。


 けれど。


「そう言われても、とくにないっていうか……」

「ほんとに? もっとよく考えてみたらまだあるかもしれないよ」

「いや、うーん……」


 実を言えばやったことないことはほかにもたくさんある。ずっと一人だったから。でも、それをやりたいかと言われればそうでもない。今さら思い出を作ったって無駄だと頭が理解しているからだ。


「──あ、でも」


 ふと、あることが頭に浮かんだ。


「なに? なにかやりたいこと見つかった?」


 食い入るように私に詰め寄るから、「そうじゃなくて」苦笑いを浮かべたあと、


「やりたいことは特に思いつかないけど、やり直したいことならあるかな…って」


 あの日からずっと、そうだった。


 タイムリープできるなら、もう一度過去に戻れるなら、やり直したいって。もう一度やり直して、未来を変えたい。そうしたらきっと、次は望んだ未来が手に入る。次は絶対、失敗しない。


「やり直したいことかあ……」


 私の言葉を反芻しながら空を見上げる。


「─あ、ごめん。やりたいこととは違う…よね」


 少し身体を縮こめて謝ると、


「ううん、いいよ。俺にもやり直したいことあるからさ」


 そう言ったあと、また空を見上げた。


 そのときの表情は、笑っているはずなのに笑っていない感じがして。


「……千聖くんも何か後悔してることがあるの?」


 ──そう、聞かずにはいられなかった。


「さあ、どうかなぁ」


 いつもストレートに答えてくれていたのに、千聖くんが言葉を濁すのはこれが初めてだった。


「でもさ、その聞き方だと美月も後悔してることがあるってことになるよ」


 鋭い指摘で、私の言葉を詰んだ。「えっと、それは」壊れたロボットのようにベンチから立ち上がったり座ったりを繰り返す私。


 究極に追い詰められた。さて、ここからどうしよう。言いたくない。言えない。私の過去なんて誰にも言えない暗黒歴史。


「──なんてね」


 困っていると、冗談めいた声が漏れるから、恐る恐る顔をあげると、


「べつに無理やり聞いたりしないから安心してよ」


 ポンッと私の頭に大きな手が乗っかった。その瞬間、プシューと音が鳴って、私の身体が思考停止する。


「美月が何を後悔してるのか分からないけど、それを今聞いたりしない」

「え」

「俺だって美月に話してないこといくつもある。聞かれたくないことだって人間一つや二つは当たり前。だから、無理に聞くことはない」


 陽だまりのように温かな眼差しを向けられて、ポッと心に火が灯る。


 今は、まだ言えない。誰にも。


「……千聖くんも」


 〝話してないことがあるの?〟


 のどまで出かかった言葉。「ん?」きょとんと首を傾げる千聖くんの表情は、いつもと変わらなくて。けれど、それを聞いていいのかどうかもわからない。さっき言葉を濁していたから。


 だから、グッと飲み込んで、


「……聞かないでくれて、ありがとう」


 さっきの千聖くんの言葉に返事をした。


 出会った当初は、土足で踏み込まれるんじゃないかと不安だったけれど、千聖くんはそんなことない。一定の距離を保って、ここまでなら大丈夫かなと確認しながら近づいてくる。危ない橋を何度も小槌で叩いて確認しながら渡ってくるような、そんな感じで。


「さっきの話に戻るけど、ほんとにやりたいことない?」

「う、うん」

「じゃあさこれから一緒に探していこうよ」

「……え、探す?」

「だってまだ美月、ないんでしょ。だったら俺と一緒に探せばよくない? 人生まだ長いんだし、これからいくらでも見つかるよ、きっと」


 やりたいことないなら探す、か。


 なんだか千聖くんらしい。明るい彼にぴったり。


 けれど、


「……べつに千聖くんがそこまでする必要ないんじゃないの」


 私と千聖くんは、赤の他人。親友ってわけでもないし恋人同士ってわけでもない。一生を誓うような特別な関係でもない。高校を卒業すれば、きっと会うことだってなくなる。


 それなのに、彼は。


「俺は、俺のしたいようにする。何年かかっても美月のやりたいことを探す。だから、一緒に見つけよう」


 歯の浮くような言葉をけろっと顔色一つ変えずに淡々と告げる。


 ──何年かかっても私のやりたいこと。


「私に見つかるかなぁ……」


 思わず、ぽつりとつぶやいた。


「きっと見つかるよ」


 私は、そんなこと考えたこと一度もなかった。失ったものは戻らないと知っているからだ。あの日と同じように。


「だってまだ高校生だよ。十六歳。時間なんていくらでもあるんだから、自分が諦めない限りやりたいこと見つかるって」


 ──まだ高校生。

 ──もう高校生。


 一体、どちらなんだろう。


「……諦めない限り?」

「うん、絶対」

「なんか信憑性ない気もするけど」


 この世界に〝絶対〟なんてことはない。


 それを肌で感じている。だから、その言葉だけはどうしても好きになれなくて。


 それなのに。


「この世界に絶対があるってこと、俺が証明する。美月と一緒に」


 私を見据えてはっきりと断言する。


「……え、なに、言って」


 諦めなければ人はなんでもできる。


 ──私も、そう思っていた。


 けれど、ある日それはバラバラと崩れて私に大きな傷を残した。


 だから、信じるなんてできないけれど。


「なにって、美月が信じられるように諦めなければ人は何でもできるんだってことを証明するってこと。俺が絶対って言ったら絶対だよ。もちろん美月も一緒にね」


 と、口元に弧を描いた。


 同じ高校一年生の十六歳。

 それなのに私なんかよりもうんと大人に見えてしまう。


 どうして出会ったばかりの私のことを、そこまで気にかけてくれるのか分からなかったけれど。

 それだけ彼も苦労をしてきてるということなのだろうか。私と同じくらい、それとも私よりも辛い過去があるのかもしれない。


 心に寄り添うように優しい言葉をたくさんくれる彼のことを突き放すことはできなくて。


「……うん」


 だから私は、小さく頷いたんだ──。



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