ハリネズミと離れる距離(2)


 ***


「お姉ちゃん、ちょっと今いいかな」


 夜、お風呂上がり妹に呼び止められる。


「あ、いや今は……」


 私の今の防御力はほぼゼロに等しい。千聖くんの言葉を利用するなら、ハリネズミなのに針がないってことだ。

 お風呂上がりは気が緩む。ぽかぽかと芯まで温まったからかもしれない。


「ほんとに少しだけでいいの!」


 廊下に響く妹の声。下手をすれば一階にいるお母さんに聞こえてしまうかもしれない。ここで妹ともめていると私たちの声に気づいてお母さんが来てしまう。


「だ、ダメかな?」


 それだけは絶対に嫌だ。二人で来られたら、私のダメージなんて計り知れない。


「……少しだけなら」


 だから、強く結んでいた唇を解いて答えると、妹はホッとしたように強張っていた表情がわずかに緩み。


「じゃあ部屋に来て」


 私の顔色を伺うように言った。


 姉妹なのにどこかよそよそしい。それはまるで、隙を見せないように身を守るハリネズミのようで、扉一枚隔てた向こうへ進む私は、戦闘態勢のように針を立てたのだ。


 部屋に入るなり、そこへ座ってと言われてテーブルの前に座る。妹は、棚から取り出した何かを見て立ち止まったまま一言も喋らない。


 かれこれ数分は過ぎたと思う。いつまでこうしてればいいんだろう。チッチッチッと秒針の音だけが静寂な部屋を支配する。せっかく温まった身体の熱も、徐々に低下する。


「あのさ……話ってなに?」


 痺れを切らした私が口を開くと「へっ、え、あっ…」ハッとした妹が持っていた何かを落としてしまう。慌ててそれを拾って、「話、話」と繰り返し呪文のように呟いた。まるでそれは自分に言い聞かせているようで。


 私の目の前へ腰を下ろした今が、すーはーと呼吸を整えるのが見えた。よほど緊張しているらしい。

 その緊張が私にまで伝染する。


「じ、実はね、これ……」


 そうして私の目の前へ差し出したのは、何かの書類のようなもので。よく目を凝らして中身を確認すると見覚えがあった、それに。「あ」声を漏らしたあと、妹へ顔を向ければ「あの、えっと……」顔面蒼白なまま言葉に詰まらせて目線を下げる。


 なぜ妹がそんな表情を浮かべたのか、その理由は簡単だ。

 妹に手渡されたそれは、私が受験に失敗した高校のパンフレットだった。


 ──どくんっ、胸の奥で嫌な音が鳴った。


 そこから黒い膿のようなものが湧いて出てくるようで。


「……なんで、これ」


 そう言葉を発するので、精一杯だった。


 心がざわざわして落ち着かない。


 目の前がゆらゆら揺れて、頭が真っ白に抜け落ちる。


「あ、あのね、私……ここの高校を受験しようと思って」


 ──二度目は、ガツンッと殴られたような衝撃が私を襲う。


 このパンフレットを手渡された瞬間、答えは突き出されているようなものだったのに。それさえも見つけ出せなかったなんて、それほどまでに私は憔悴していて。


「なんで……」


 私が受験に失敗した高校を、どうしてわざわざ受けるの? ……なんで、なんで……っ。


 困惑と、嫌悪感。それらが胸の奥から色濃く現れて、私を支配する。


「受けようと思ったのはずっと前なんだけどね……一度はやめようと思ったの。諦めようって……」


 苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて、ぽつりぽつりと声を落としていく妹は、


「でも、やっぱりどうしてもここを受けたかったの……」


 私に気を使うように言葉を懸命に選び抜いて、説明をする。

 部屋に充満する空気はただならぬもので、姉妹とはほど遠い距離感に。接し方に。


「お姉ちゃんに内緒で受けようとも思ったんだけど……それはなんか違うかなって、思って……」


 ──内緒で、よかったじゃん。私にわざわざ言う必要なかったじゃん。そうすれば私、こんなふうに傷付かずに済んだのに。自分の気持ちが納得いかないからって私を巻き込むのやめてよ。


 ふつふつと湧き出る苛立ちが、魔女鍋のようにぐつぐつと煮えくりかえる。


「だから、その……」


 言葉に詰まった妹は、えっとえっと、とあたりとキョロキョロしながら言葉を探す。私の視線から逃げるように、一度だって目は合わさずに。

 後ろめたさ、罪悪感、その二つがひしひしと伝わった。


 姉妹ならなんて言うんだろう。


 ──いいと思うよ。頑張って。


 けれど、私たちは距離ができている。


「……べつに理緒が決めたことならいいんじゃない」


 わずかの棘を纏った言葉を吐き捨てた。


 それに驚いた妹は「え」と声を漏らし、今まで逃げていた視線を私へと定着させる。


 私は姉で、理緒は妹。たった二人だけの姉妹なのに、私はどうしても優しくできない。


「……いいと思うよ。理緒が決めたなら、べつに私が何か言うつもりもないし、うん」


 ふつふつと湧き出る苛立ちを沈めるために、そして自分に言い聞かせるように。膝の上に置いていた手のひらにぎゅっと力が入り、いつのまにか拳へと丸められていた。

 のどの奥は、苦しくて胸の奥をチクチクと棘が刺すような小さな痛みが広がってゆく。


「お姉ちゃん……」


 早く、ここから出たい。逃げたい。


「私からは何も言うことはないよ」


 おもむろに立ち上がり、背を向ける。


 顔を見てしまったら何を言うか分からないから。


「ちょっと待ってよ、お姉ちゃん……!」


 けれど妹は、私を引き止める。逃がしてはくれない。


〝私、悪いことした?〟


 まるでそんなふうに言っているように聞こえてならなくて。それにますます苛立って、やり場のない怒りで頭の芯がチリチリと音を立てる。


「……何も私に相談せずに受験すればよかったのに」


 小さな声で、つぶやいた。


 背を向けているからきっと妹には聞こえない。くぐもっていたから。


「話はそれだけなら私、もう行くね。まだやることあるから」


 一方的に会話を遮断して、バタンッとドアを閉めた。


 最後、部屋を出る前に一言言ってしまった。小さな棘を吐いたのだ。


「……お姉ちゃんだからってそんなに強くないんだよ」


 自分の部屋に戻って、ベッドの上に顔を埋めた。

 泣いた。声を殺すように。


 その夜、しばらく涙は収まることはなかった──。



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