第3話 ハリネズミと離れる距離(1)


 ◇


 千聖くんと連絡先を交換してから連絡を取るようになった。そこでバイトがない日たまに話そうということになって私が提案したのは、たまに行く公園だった。


「美月は、バイト始めようと思ったキッカケって何かあるの?」


 唐突に尋ねられて「え」と困惑した声が漏れる。まさか聞かれるとは思ってなかったから頭の中が白く抜け落ちる。


「キッカケ……」


 えっと、えっと、早く誤魔化さないと……


「……欲しいものがあったから」


 頭の中で考えて一番無難な答えを口にする。欲しいものなんて特にないないし、お金なんてべつに欲しくない。けれど生きてくためには必要なものだ。だから毎月ほとんど貯金してスマホ代だけは自分で払うようにしてる。


「あー、そっかぁ。やっぱ高校生になると欲しいもの増えるもんね」

「う、うん……」

「それに少しでも自分で働くとお金稼ぐ大変さも分かっていいよね。親に感謝の気持ちも湧くし」


 親に感謝の気持ちとは無縁な私。

 むしろ妹とお母さんとは距離をとっている。


「……そう、だね」


 けれど、その感情を飲み込むの。


 千聖くんには知られたくなかったから。


 心の内側で私がどんなことを考えているのか知られないために、気づかれないために嘘をつく。


「でもさ、美月えらいね」

「え、なんで……」

「高校生でバイトするって簡単なことじゃないよ。高校一年の十六歳ができることじゃない。だからもっと美月は自信もっていいんだよ」


 私の低い自己肯定感を、彼はひょいと掬い上げる。

 けれど、だからといって簡単に自己肯定感は持ち上がることはない。


「全然、すごくなんてないよ」


 自信なんてもてるはずがないし、むしろ後ろめたさしかない。だって私の負の部分をひた隠しにして、千聖くんの前では別人のように偽っているから。


「なんで。そんなことないよ。もっと自分のこと褒めてあげなよ」


 千聖くんの真っ直ぐな言葉が、罪悪感を煽り悪いことをしたような気分になる。


「そ、そうかな。私なんかよりもすごい人はもっといると思うよ」


 過去に囚われたままで、嘘をついて罪悪感を感じて、そんな自分が嫌になる。


 それを指摘するように、


「美月ってなんか自己肯定感が低いよね。俺が褒めても全然って否定するし、〝私なんか〟って自分を下げて言うし」

「それは……」

「そういうのもったいないよ。自分のことは自分が一番認めてあげなきゃ」

「だ、だって、ほんとに私なんて……」


 そこまで言ってさすがに自分でも気がつくと言いかけた言葉を飲み込んだ。


 自己肯定感が低いのは、きっと元々だ。そこに何かしらのキッカケがあるとすれば、おそらく受験に失敗したあの日だろう。希望も目標も失って、それと一緒に自己肯定感まで失くしてしまったらしい。


「──ねえ、知ってる?」


 そう前置きをするから、なんだろうと思って恐る恐る顔をあげると。


「言葉には言霊ってのがあるから、自分のことを見下げるような言葉を言ったら自分に返ってくるんだよ」

「……言霊」

「そう。言葉にも力があるからね。自分で言ったことがその通りになっちゃうことだってあるんだよ、気をつけないと」


 言霊……か。でも、そんなことで未来が違うならもうとっくの昔に気をつけてる。

 けれど、千聖くんが私のことを考えて言ってくれてることだけは伝わってきて、


「……うん」


 素直に頷いた。


 そうしたら、千聖くんはクスッと笑って。


「最近の美月、少しだけ丸くなったよね」

「……丸く?」


 それって、太ったって意味かな。だとしたら、それを本人に直接言っちゃう千聖くんは最低ってことになっちゃうけれど。


「性格が、ね」


 ──私の想像は外れていて。


「なんか初めの頃はたくさんの針を纏うハリネズミみたいに、俺のこと警戒してたから。一歩でも近づこうものなら針を俺の方へ向けて威嚇してたし」


 彼の言う〝丸く〟は性格のことらしい。それも私をハリネズミだと例えた。


「威嚇……?」

「うん。自分の身を守るために一生懸命俺に威嚇してるみたいだったよ」

「そんなのしてない」

「してたしてた。だからマフラー巻くときだって針で刺されないか心配だったけどね」

「……私、針なんてついてない」


 おかしな会話でムキになる私に、「まぁ、それくらいの警戒心ってこと」と言葉を付け足して笑う千聖くん。


「だけどさ、今はその針がなくなった感じがするんだよね。少しだけ警戒心解いてくれたのかなー」


 ハリネズミが針なくなっちゃったら、それはもはや。


「……それだと私、ただのネズミになっちゃうじゃん。嫌だよ、そんな弱々しいの」


 私を覗き込むように見つめる彼の視線から、顔をフイッと逸らす。


 私は、いつだって強くなきゃいけない。自分の心を守るために。身を守るために。前後左右のどこから攻撃がきたとしてもそれに打ち勝てるように、無数の針を持っていなければならない。


 それなのに、彼は。


「いいじゃん、弱々しくなっても」


 私とは対照的な明るさの声が落ちたあと、


「てかむしろそれいいことだから。美月の針がなくなったってことは俺に警戒心がなくなったってこと。つまり俺に少しだけ心開いてくれたって意味になるし」


 まくし立てられるように告げられる。


 ……私が千聖くんに心を開いてる?


 ううん、そんなはずない。たしかに一度、緩みかけたことはあったけれど、そのとき気づいてまた厳重に鍵をかけた。千聖くんとこうやって過ごすことはあっても一定の距離だけは心掛けている。内側を覗かれたくないからだ。


「私にほんとに針がついてるみたいな言い方しないでよ」

「例えばだよ、例えば。それに弱々しくって言っても、美月と俺の距離が前進してるってことでいい意味なんだからさ」


 ニイと歯を見せて笑う千聖くんの表情に一瞬ひるみそうになったけれど、ある言葉で踏みとどまった。


 〝美月と俺の距離が前進してる〟?


 距離ってなに。心の距離とでも言いたいの? しかも前進してる? どこが?


「なにそれ、勝手に決めないで。全然距離なんて縮まってないもん」


 むしろ一定の距離を保ったまま。


「いいや、確実に縮まってる。その証拠に美月、次々と俺に言い返すじゃん。初めの頃はそんなことしなくて、黙り込むことが多かったし」

「そっ、それは」

「それに美月、俺のこと〝千聖〟って呼んでくれるじゃん。それのどこが距離が全然縮まってないって言うの」


 言い返す暇さえ与えられなくて、おまけに先手を詰まれて言葉が何も出てこなくなって「ぐっ…」唇を固く結んだ。


 それに付け入るように、


「〝伏見くん〟だったのに〝千聖くん〟に変わってるっていうのにまだ距離が縮まってないって言うの」


 どんどん私を追い詰める。


「そ、それは、千聖くんが呼べって言ったから……」


 ようやくのどの奥から出てきた言葉は、あまりにも弱々しすぎて今にも風で飛んでいきそうなほど勢いがなかった。


「べつに呼ばないことだってできたはずだよ」


 ──そして、とうとう王手を打たれる。


 たしかに、その通りだ。呼んでと頼まれたけれど、呼ばないことはできたし、これまで通り伏見くんと呼ぶことだってできた。それよりもとい関わりを持たなければこうして面倒事にも巻き込まれずに済んだはずなのに。


 放課後に会えることを承諾したのは自分で、名前を呼んだのも自分。


 つまりもう、言い逃れはできそうになかった。


 だから、


「……たしかに私の警戒心は、弱くなってるかもしれない」


 それは認める。自分でも気づかないうちに気が緩んでいたのかもしれない。


「でも、私は強くなきゃいけないの。自分の身を心を守るために、強い警戒心を持っていなきゃいけないの」


 そうじゃなければ、自分を保つことができなくなる。過去に囚われて、身動きができなくなって、そのうち学校さえ行きたくなくなってしまうかもしれない。


「どうして?」


 それは──。


「……言いたくない」


 いくら千聖くんでも過去の話だけはできない。


 だって、きっと理解されない。


 たかがそれくらいでなに引きずってるんだよって思われるに違いない。


 千聖くんの性格は、私とは対照的なほどに明るくて眩しくて、前向きで。後ろなんて振り向かない。前だけを見てる。そんな人に、私の話をしたって無駄なだけ。


「……言いたくないの」


 スカートの上でぎゅっと握りしめた拳が、じんじんと熱くなる。

 吸い込んだ空気があまりにも冷たくて、肺の中がびっくりして縮まる。頭の中がズキズキと痛みだす。


「言いたくないなら言わなくていい。べつにそのままでもいい。無理して言う必要はどこにもない」


 千聖くんの静かな声が落ちてきて、恐る恐る顔をあげると、吸い込まれそうなほど澄んだ瞳が私を見据えて。


「俺にはまだ美月が何を抱えているのか悩んでいるのかわからないけど、苦しんでるってことだけは分かる。屋上にいたときの美月は、今にも泣きそうな消えそうな気がしてた」


 ──屋上は、私と千聖くんが出会った場所。


 そして彼の第一声は、〝死ぬつもり〟だった。初対面にしては衝撃的な言葉で、ひどく驚いたのを覚えている。


「だから声をかけずにはいられなくて。美月はひどく驚いてたけど、あの日の行動は間違いじゃなかったって俺は思ってる」


 どうしてそこまで言ってくれるんだろう。親身になってくれるんだろう。千聖くんの言葉が胸に溶け込んで、ぎゅっとなる。


「そして苦しくなってもう限界ってなったときに俺のことを思い出して頼ってよ」

「頼る、なんてそんな……」


 今まで誰にもしてきてない。だから、頼り方だって知らない。

 それなのに胸がこんなに熱くなる。


「俺、いつだって美月の力になるからさ」


 と、口元を緩めて笑った彼は、やっぱりいつものように陽だまりのようで。


「いつかその苦しみを俺に半分分けてくれるといいなって思ってる」


 しんと冷える風が吹く中、それに流れて私の元へと届く声は、儚いほどに優しいのにどこか力強さを感じて。


 ──なぜか、ふと泣きたくなった。



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