憂鬱と温もり(2)


 ***


「あっ、高野さんおはよう」


 コンビニの事務所へ入れば、同じ時間のシフトに入ることが多い大学一年生の原さんと店長がいた。「おはよう」と短くあいさつをすると、またパソコンへ目を向けた。基本、バイトでは何時出勤をしてもあいさつは『おはよう』が決まっている。


「おはよう、ございます」


 十分歩いたせいか寒さのせいで舌が凍ったように言葉はなめらかに現れなかった。


「今日すごく寒かったよね。ここまで来るだけで凍りそうだったもん」

「ほんとに、寒いですよね」


 風が吹いているときの体感温度は十度にも満たないだろう。


「カイロ持ってくればよかったなぁ……帰りはもっと寒いんだろうなぁ」


 憂鬱そうな顔を浮かべたあと、


「……あっ、店長。カイロ持ってませんか?」

「なんで僕なの」

「だって店長寒がりだからっていつもカイロ持ってたじゃないですか」

「僕が寒がりって誰に聞いたんですか」

「三ツ橋くん!」


 原さんは店長に親しげに話しかける。


 こういうところすごいなって思う。私は人との距離をとっているから深く関わろうと思わないけれど、原さんのパーソナルスペースはどうやら無いに等しいらしい。


「カイロの話はもういいから早く準備してください」


 呆れたように苦笑いをした店長は、原さんにシッシッと手を払い除ける。「あー、逃げたぁ」と不満そうにしていた原さん。その二人を見つめたまま固まる私に気がついたのか。


「じゃあとにかく今日も一日頑張ろうね!」


 いつも明るい原さんに戻った。


 その声に、はい、と小さく返事をすると原さんは、「先に表に出ておくね」というと、私に軽く手を振りドアの向こう側へといなくなる。


 この場に取り残された私は少し気まずく思いながら、カーテンを閉めた。すると、パイプ椅子がギイと音を鳴らしたあと、パタンッと音が鳴った。おそらくマネージャーが気を利かせてくれたのだと思う。


 コンビニでバイトを始めて三ヶ月が経つ。初めはあたふたしていたレジも慣れて、商品陳列やフライヤーを揚げたりお弁当を温めたり、できることが増えてきた。


 私のサポートをしてくれていたのが原さんだった。原さんは、コンビニ歴二年だそうで、他のバイト生ともすごく仲がいい。私が土日に朝からシフトに入るときだって、パートのおばちゃんたちが原さんのことをすごく褒めていた。


 原さんは、すごくいい人だと思う。決して悪い人ではない。こうやって優しい言葉をかけてくれるのも気遣ってくれるのも優しさから現れているものだと思う。


 けれど、それは私が見ている原さんに限りだ。原さんの全てを知っているわけではない。おまけに年上で私とは対照的なほどに明るくて、人付き合いもうまくて誰にでも好かれる。


 それはもう嫉妬心を抱くほどに。


 優しさを素直に受け取れなくて、ひねくれた性格で、可愛げだってない私。いつか原さんが私の心を読んでしまうんじゃないかと不安にもなる。


「いらっしゃいませ〜」


 制服に着替えて表へ出ると、いつものように原さんはニコニコと愛想よく対応していた。声は明るさと柔さかを含んでいた。

 手際良くピッ、ピッ、とバーコードをスキャンしていく。


 いつも変わらない笑顔と対応に、尊敬と、小さな敗北感さえ感じた。


 その隣のレジで出勤入力を終えると、隣から「またお越しくださいませ」と聞こえた。ハッとした私は慌ててそれを復唱する。

 けれど、なぜか同じ言葉には聞こえなくて。透明な壁に弾かれたようにパチンッと消える。


「あっ、高野さん、商品陳列お願いしてもいい?」


 お客さんが少し減ったのを確認すると、原さんは私へ声をかける。


「あ、はい。分かりました」


 十六時を回ると、陳列棚は前列に空きが目立つ。それを前へと引き出して、足りない商品は補充をする。その際、しっかり何時に作られたのか確認をしながら棚へ置く。うっかりそれを見逃してしまうと、作られた時間を過ぎたら廃棄になってしまうからだ。


 こういう黙々とできる作業は嫌いじゃなかった。人と話さなくていいからだ。気を遣わなくていいから。自分の世界へと入り込める。

 けれど、「いらっしゃいませ〜」レジの方から声がすれば、意識はばっちり戻ってきて、入り口へと顔を向けて復唱する。それが終わると、また補充をする。


 十六時はまだわりと空いている方で、十七時を過ぎだすと会社帰りの人たちがずらずらっと列をなす。その前に早めにフライヤーを補充して、準備をする。揚げ物は、夜ご飯にと買って行く人が多いからだ。


「いらっしゃいませ」


 フライヤーの準備が終わると、続々とひと足が多くなる。レジを解放して、私もバーコードをスキャンする。


「からあげ一つとメンチカツ一つ」


 レジ打ちの間に注文が入り、「かしこまりました」と返事をして二つの商品をレジ画面でタッチする。お会計の金額を伝えている間に、アルコール消毒をしたあとトングで商品を袋詰めする。慣れてくると、いつ何を先にしたらいいのか考えなくても分かるようになる。頭よりも身体が覚えているのだ。


 もちろんバイト初めたての頃は失敗を何度もした。入力ミスをしたり、お弁当についているソースを外さずにチンしたり、そのせいでソースはぱんっと弾ける。お客様が買いたかったお弁当は最悪無くなってしまい交換することができなくなる。ミスを犯すたびに何度も頭を下げた。数をあげればキリがない。


 落ち込む私に原さんも店長も『初めのうちは誰でもミスするから』と私を責めることはなくて、フォローをしてくれた。それがあったからこうやって続けることができている。


「ありがとうございました」


 商品詰めをした袋を手渡すと軽く頭を下げて、次のお客様の対応をする。忙しいときはその繰り返しで、フライヤーは好調の売れ行きだった。


 それから引き継ぎを終えて私たちは事務所へと戻る。


「今日もまた人の多さに疲れちゃったね〜。途中、人が途切れたときにフライヤーのセットするけど、そのたびにお客様並んで大変だったよね」


 着替え終わった原さんは、可愛らしい私服にポニーテールにしていた髪の毛をほどくと、緩いウェーブがかかって、ほどよい栗色の現役大学生へ戻る。


「原さんのおかげでなんとかミスなく終われました」

「ううん、そんなことないよ! 高野さんができることが増えてきてるから、自分の成長のおかげだよ」


 コートを着たあとに柔らかそうなマフラーを巻いた。

 パタンッとロッカーを閉めると、「─あっ、もうこんな時間!」腕時計を見て慌てると、「じゃあまたね、高野さん」とニコリと微笑んでノブをひねった。

 あっという間に一人取り残され、引き締めていた気を緩めると「はあ…」とため息がもれた。


 〝自分の成長のおかげ〟……か。果たして私は人として成長できているのだろうか。


 バイトの時間は、十六時〜十九時。土日は朝から入ることもある。高校生は学業が優先だからとシフトを作る際も何かと融通を聞かせてくれる。


「あ、高野さん」


 着替えが終わりかばんを肩にかけた瞬間、ドアから入って来たのは店長だった。


「バイト入って今でどれくらいだっけ」


 普段物静かな店長とは、あまり会話はない。あいさつやシフト確認、引き継ぎ等、仕事関係での会話が主だった。


「え、と……三ヶ月くらいです」


 どうしてそんなこと聞くんだろう、咄嗟にそう思った。「うーん、そっか」と腕を組みながらキャスター付きの椅子に深く背もたれると、ギイと軋む音が響く。


「それならもうちょっと愛想よくできたりしない?」


 困惑したような申し訳なさそうな表情が浮かべられていた。


「……え」


 店長の口から告げられた言葉に、私はひどく動揺する。


「あー、いや。高野さんが真面目にしっかり働いてるのは僕も知ってるよ。でも、コンビニって接客業だからある程度の愛想は必要でしょ? だけどあんまり笑顔がないっていうかさぁ……」


 店長の言葉が胸に突き刺さる。


「私……笑ってないですか?」


 恐る恐る尋ねると、「うーん」と顎に手を添えて考えたあと、後頭部をかきながら。


「口元は笑ってるように見えるんだけど目が笑えてないっていうか、引き攣ってる感じがするんだよね。顔に力が入ってるっていうのかな。だから笑えてないように見えて、それが気になるんだ」


 まるで抜けない棘が痛みを植えていくように、そこからじわりじわりと小さな痛みが広がっていき。


「だからさ、もうちょっと原さんみたいに笑ってくれるとありがたいんだけど」


 ──原さんみたいに笑ってくれると、か。


 やっぱり私は、いつも人より劣ってしまう。比べられて勝てっこなんかない。べつに勝ち負けにこだわっているわけではないけれど。


「……分かりました。今後、気をつけて接客してみます」


 ズキズキと胸が苦しくなって目線を下げる。


「僕も変なこと言ってごめんね。じゃあそれだけだから、もう帰っていいよ」


 あっという間に会話は終わる。店長は忙しそうに表へと行った。十九時以降に入った新人さんのサポートに加わるからだ。


 コンビニでバイトを始めて三ヶ月目。ここは、私を必要としてくれる。けれど、果たしてそれはいつまでだろう? 半年? それともあと一年? ううん、この際だからそんなのはどうでもいい。


 ただ私は、生きる希望がほしいだけ。


 あの日、失った希望を。どうにかして取り戻したいと思っただけ。


 けれど、私は、この世界から消えてしまいたいと思っている。

 生きる希望がないのなら、生きる資格はないから。


 〝生きる〟か〝死ぬ〟かの二択で、私はどちらを選ぶことになるのだろうか。


 コンビニを出てすぐに、想定外の人物に遭遇する。


「──あっ、美月!」


 数日ぶりの伏見くんだった。グレーのニットの下からチラリと見える白がおしゃれな雰囲気を醸し出していた。「あ」思わず声を漏らす。


 けれど、今は合わせる顔がなくて目線を下げて通り過ぎようとする。


「ちょっと待ってよ、なんで逃げるの。今、〝あ〟って俺に気づいたじゃん」


 けれどすかさず手首を掴まれて身動きがとれなくなる。


 バイト終わりに、しかもあんなことを言われた後に伏見くんに会いたくはなかった。


「こんな夜にどうしたの? 買い物?」


 逃がさないように手首だけはしっかりと掴んだまま私に尋ねる。


 学校から少ししか離れていないところにあるコンビニ。どうせいずれは見つかってしまう。それなら早いところ言っていた方がいいだろう。


 そう思った私は、固唾を飲んで。


「……バイト終わりだったの」


 私の言葉に驚いたのか「……え、ここで?」目を白黒させる伏見くんに、小さく頷いた。


「そうだったんだ、知らなかった。俺、結構ここ来るんだけど一度も美月のこと見かけたことなかった」


 驚きのあまり気が緩んだのか私の手首を固定していた彼の手は緩む。


 伏見くんがいつからここを利用しているのかは分からなかったけれど、そんなことどうでもよくて。


 いくらバイトが終わったからといってコンビニ前で話すのは、あんまり心中穏やかじゃない。バイト仲間に見られて変な噂が飛び交うのは困る。


 おまけにさっきあんな話をした私の心はいつも以上に乱れていて、この口が何を言ってしまうか分からない。


「じ、じゃあ私は、これで……」


 だから私は帰ろうとするけれど、


「ちょっと待って。俺、すぐ買い物終わるから一緒帰ろうよ」

「え……」

「じゃあ待っててね!」


 返事をする前に有無を言わさず一方的に事が進む。


 待っててね、と言われたけれど約束を守るような仲ではない。だから私が帰ったって怒られることもない。


「帰ろうかな……」


 そう思って数歩足が進むけれど、家に帰ったってどうせ息苦しいだけだ。


 究極の二択から選ぶなら、きっとこっちの方が無難で。


 ピタリと立ち止まった足はまた引き返して、この寒さの中、一人ぽつんと立ち尽くした。


「待たせて、ごめん!」


 数分後、伏見くんは戻って来た。


「どっちがいい?」


 袋の中を漁ったあと私の前へと二つの袋を掲げて見せる。


「……へ、え?」


 弾けたような声を漏らして、瞬きを数回繰り返す私を見てニイっと笑ったあと、


「外、寒いから暖かいもの食べながら帰ろうと思ってあんまんと肉まん買ってきたんだ。だから、美月どっちがいい?」


 さらにズイッと突きつけられる。


「……え、や、私は」


 いらない。そう思って断ろうとするけれど、


「いらないってのはなしだから」


 先手を打たれて口ごもってしまう。


「なんで伏見くんはそこまで……」


 代わりに疑問が口をついて出た。


 つい最近、知り合ったばかりの人間にマフラーを貸したり一緒に帰ろうって言ったり肉まんを買ってくれたりするんだろう。


「んー、だってさぁ、高校生になるとこうやって買い食いするのとか楽しくない? 中学まではできなかったことが高校では許される嬉しさとか!」

「……どうだろう」


 〝楽しい〟なんて感情、私の中にはひとつもなかった。


 どこまでいっても暗いトンネルの中で、色鮮やかな情景は浮かんではこない。


 それなのに──


「俺、寒い空の下、暖かいもの食べながら話すの好きなんだよね。だから俺のわがままに付き合うと思って受け取ってほしいな」


 屈託のない表情で笑った伏見くんを見て、いらないとは言えなくなって。


「……じゃあ、あんまん」


 今にも消えそうなか細い声で選ぶと、「ん」と微笑んで、一つ私に手渡した。それを受け取って「…ありがとう」少しだけ照れくさくなる。


 そんな私を気遣うようにすぐに視線を外すと、肉まんをぱくりとかじる。


「んー、やっぱ冬は肉まんに限るなぁ」


 伏見くんがかじったその部分から、ほかほかと湯気があがっていた。


 それは、ゆらゆらと冬の夜空に浮かんで消える。


 つられて私もあんまんをかじると、ほかほかしたあんこがぎっしり詰まっていて、ほのかに感じる甘さが心に染み込んで、疲れが癒される。


「……おいしい」


 思わず、ぽつりと声が漏れる。


 さっきの嫌なことさえも忘れてしまいそうになる。


「ん、よかった」


 隣で肉まんをかじる伏見くん。私よりも一口が大きくて、男の子らしくて。


 一方的に距離を詰めて、自分のペースに巻き込んで自分勝手だけれど。


「……私、こうやって帰りに誰かと食べたの初めて」


 なぜか、嫌いにはなれなかった。


「そうなの? それかなり損してるよ。バイトで忙しかった?」

「そういうわけじゃ、ないけど…」


 私に友人がいないだけ。今の学校では、一人ぼっちだ。それを思い出すとギリッと胸が痛みだし、目線を下げていると「ふーん、そっか」と最後の一口を口に放り込んで食べ終えたあと。


「じゃあさ、これからはこうやって一緒に食べようよ」

「……へ?」

「今までできてなかったのなら、今からすればいいじゃん。高校生活まだ二年も残ってるんだよ。思う存分、楽しもうよ」


 今まで誰にも言ってもらえなかった言葉を、伏見くんは簡単に言ってのける。


「美月がまだやりたいことあるなら全部俺、一緒にやるから」


 どんなに私が冷たくしても、距離をとっても、絶対に私のそばから離れていかない。むしろ二歩、三歩と距離を詰める。そんな彼は、変わり者かもしれない。それとも同情かもしれない。それでもなぜか、彼を嫌いにはなれなくて。


「……ありがとう」


 心の奥底に閉まってある頑丈な扉のレバーが緩まって、開きかける。


「それにしても寒いなあ……夜は冷え込む」


 両手を口の前まで寄せると、はあっと息を吐く。かじかんだ指先を温めるように何度も。そのたびに真っ暗な夜空へと白い息は溶ける。


「でも俺、冬は好きだな」

「……どうして?」

「冬って一番、星が輝くんだ。空が澄んでるかららしいけど……まぁ俺、そこまで星に関しては詳しくないんだけどさ」


 私へと目線を下げて笑ったあと、もう一度空を見上げて「ほら見て」と空に向かって指をさす。

 その声と指先につられるように見上げたら、真っ暗な夜空に浮かぶ無数の星々が、私たちを照らしているようで。


「……ほんとだ」


 思わず声が漏れた。


 受験に失敗したあの日から空を見上げたことなんてなかった。足元の地面にばかり目を凝らして、いつも下ばかりを眺めて。いつからか上を目指さなくなった。目指すべき目的がなくなってしまったから。もういいやって全部投げ出して自暴自棄になって、家族との溝ができていても修復しようなんて思わなかった。


 どうしても今の自分を受け入れたくなかった。


「な、綺麗だよね! こんなに星が輝いてんのって一年の中で冬が一番なんだよ。だから俺、冬が一番好きなんだ」


 好きなものは好きだと、堂々と言える伏見くんが羨ましい。それと同時にいつも明るくて楽しそうに笑う伏見くんが少し妬ましい。


 そう思ってしまうのは、きっと私が人間だから。人間である限り、人を妬んだり羨ましがったり思うのは当然の真理だ。


「こんなに寒くても?」


 斜め上にいる彼の顔を見つめるように尋ねると、「も!」と歯を見せてニイと笑った。

 たった一文字で感情が伝わってくる。どうしようもないくらいに、ひしひしと。


「……こんなに寒いのが好きなんて、千聖くん、変わってるね」


 〝伏見くん〟から〝千聖くん〟に変わった瞬間。私の中で何かが変化する。


 それは、もちろん彼にも通用するわけで。


「美月がやっと俺の名前呼んでくれた!」


 街灯の明かりに照らされて、目がしっかりと見開かれているのが分かる。それはもうレーザービームのように真っ直ぐ私を貫いていく。


「なにも名前呼んだだけでそんなにならなくても……」

「だってさ! お願いしても全然呼んでくれないし、ずっと伏見くんだったし、これはもうダメだなって諦めてたところだったから。まさかの想定外のパターンに」


 ストップをかけなければこのまま一方的にしゃべりだすだろうと思って、焦って、


「わ、わかったから、少し静かに……! もうすぐ住宅街だから……」


 そこでハッと気がついたのか、両手で口を覆った千聖くん。のどまで出かかった言葉をゴクリと飲み込んだあと「暴走しちゃってごめん」とへらりと笑った。


 喜怒哀楽がオープンで、誰がどう見ても一発で分かるくらいに千聖くんの感性は豊かだ。見ている私でさえもおかしくなって、思わず口元が緩む。


「──あっ! 美月が笑った……!」


 唐突に、声をあげる。それもかなりの声量で。


 彼の言葉に驚いた私は、あたりをキョロキョロ見渡して人がいないか確認した。けれど、住宅街に入っていたため人通りはまばらだ。


 シーッ、シーッと人差し指を立てて注意を促すと、もう一度口を覆ったあと、その興奮をゴクリと飲み呑んで、


「だってさぁ、美月が今まで笑ったことなかったから……!」


 かなりボリュームを絞って、そのかわり身振り手振りは大袈裟っていうほどに。


 あたりは街灯だけでお世辞にも明るいとは言えないけれど、それでもしっかりと彼の姿を確認できるのは、夜空に浮かぶ星のおかげかもしれない。


「そ、そりゃ、私だって人間だから笑うときだってあるし……」


 なんて言ってはみたものの、ここ最近笑った記憶なんて一度もない。遡るように記憶をたどってみると、私が笑わなくなったのは、やっぱりあの日と関係していた。


「いや、うん。そうなんだけどさ……普段滅多に笑わない人が笑ったときの破壊力って……相当やばいんだなー」


 今度はカチンコチンに固まって片方の手を口元に覆って、私からわずかに目を逸らし明後日の方を見つめていた。


「千聖くん?」

「……今、こっち見ないで」


 一体、どうしちゃったんだろう。この寒さでおかしくなったのかな。それとも元々独り言が多い人とか……うん、千聖くんならあり得そう。だって私よりも千聖くんの方がしゃべっている時間が多いもん。


 それからしばらくお互い黙ったまま歩いた。すぐに家の近くまでたどりつき、私はここまででいいと言った。

 千聖くんは最後まで送ると言ってくれたけれど、私が頑なに拒むから『それなら家に帰り着いたら連絡して』と連絡先を交換する。


 買ったスマホには、まだ家族しか登録されていない。そこに新たに千聖くんの連絡先が加わって、それを少しだけ嬉しいと思った私。


 家から少し離れたところで彼と分かれて、帰路についた。真っ直ぐ部屋に戻ると、忘れないうちに千聖くんに連絡した。


【今、帰りついたよ】


 震える指先で送信ボタンを押すと、すぐに既読がついて。


【よかった】


 と、何とも簡単な文面が届く。


 それ以上は連絡が続くことはなくて、はじめての会話はそれで終了した。


「ふう……」


 おもむろに立ち上がり窓を開ける。


 ──ヒュー


 夜の北風は、とくに冷え込む。身体の芯の熱まで奪ってゆくようだ。


 寒い冬。私は、ずっと嫌いだった。手がかじかむような寒さもそうだけれど、一番はやっぱり受験を思い出す。


 あの日──、


 一月二十九日。忘れもしない。受験結果の日。友人二人が合格する中、私の番号だけがどこにも見当たらなくて。絶望した、自分に。この世界に。一気にどん底に落ちた気分。なんで、どうしてって自分で自問自答した。それでも結果が変わるはずなくて、その日枕を濡らして翌日、友人たちが気まずそうに私に声をかけてくるから、昨日のあれは夢じゃなくて現実だったんだと思い知らされる。


 惨めで、悲しくて、妬ましくて、苦しくて。


 私の世界が終わった瞬間でもあった。


 だから今までずっと、冬が嫌いだった。


 一生こなければいいのにって思った。


 それでも秋が過ぎれば冬がやって来て、傷口から血が滲みだす。


 夜が過ぎれば朝がやってきて、朝日が射す。その朝日を見て私はいつも絶望する。また今日がやって来たのだと。一日の始まりを知らせる。それが嫌でたまらなかった。


 ──でも、なんだろう。


 今は少しだけ、朝日が待ち遠しいようなそんな気がして。

 そう思うのは、きっと千聖くんのおかげなのだと思ったんだ。

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