第2話 憂鬱と温もり(1)
◇
それでも明日はやって来て、東の空から朝日が照らす。十二月の朝は、肌寒く布団の中から出るのは何よりも憂鬱だった。
そんなある日の休み時間、教室で頭を悩ませていた。
「……これ、どうしよう」
ちら、と机にかけてある紙袋に視線を落とす。そこに入っていたのは、伏見くんに借りたマフラーだった。
屋上で出会ったあの日から、早くも数日が過ぎる。いまだに私の元からマフラーは離れていかない。
「石原、これプリント配っててくれー」
次の授業の数学の先生が日直に渡す。その様子を本を広げながら、一番後ろの席から眺めていた私。
基本、学校にいるときは一人で特にすることがなくて、こうやって本を広げながら〝読書をしている〟を演出する。
人と関わることは嫌だけれど、ほんとは一人は嫌いだった。教室にいると、どうしたって自分が孤独なのだと実感させられるからだ。そんな私を見て周りからは〝寂しいやつ〟だと思われているだろうか。
「えー、なにそれ。まじで? うけるー、やばい!」
手を叩きながら談笑するのは、クラスでも目立つ女子たち。若者言葉が流行っているのか、みんなそれを当たり前のように使う。楽しそうにおしゃべりをして、毎日が幸せでたまらない。そんな表情を浮かべていて、私の心の奥にもやっと黒い影が落ちる。
私はなぜ、ここにいるのだろうか。
私はなぜ、存在しているのだろうか。
どうして私は、〝未来〟を掴み取ることができなかったのだろうか。
──パサッ
不意に、本の上にプリントが落とされる。顔を右上へと動かすと、すでに別の人の机へと移動してプリントを配っていた。淡々と。
べつにそれを責めたりはしない。声をかける必要だってない。けれど、無造作に本の上に落とされたプリントが、すごく切なくて悲しくて。
私を必要としている人は、ここにはいないのだと思い知らされる。
望んでやって来たわけではない高校。当然、希望だってなければ未来もない。知っている友人だっていなければ、仲良くしている人だっていない。そんな場所で私はこれから二年もここで過ごしていかなければならないのだと思うと、うんざりした。
──ふわり、風が吹き、机の上のプリントを攫ってゆく。けれど私は、ひらりと儚く落ちたそれをただただ眺めていることしかできなくて。
一人では立ち上がることも、変わることもできない子どものよう。
のどに、胸の奥に、黒い感情のような塊が詰まる。苦しくて、つらくて、息が吸いにくくて。この場所にいたくない。
「……もう嫌…っ」
そう思った私は、気づいたらマフラーが入った紙袋を掴んで、本も、プリントも放置したまま立ち上がった。
どこへ行こうと思ったのかわけも分からず無我夢中で走った。とにかく息が吸える場所に一刻も早く──
「──あっ、美月!」
すると突然、前方から声がした。それは、聞き覚えのある声で、スピードが弱まって。
「……伏見くん」
私を呼んだのは、彼だった。
「ちょうどよかった。今から教室行こうと思ってたんだけど」
少し離れた場所から私に声をかける。
けれど、ここは教室から程遠くない廊下。そんな場所で伏見くんと話しているところをクラスメイトに見つかりでもすれば、何かと面倒が起こりそうだと思い、踵を返して走った。
「え、ちょ、美月……!」
慌てた声が聞こえたあと、私のあとを足音が一つ追ってくる。
止まらない。ひたすら走って、逃げる。
けれど、私が男の子の走りに勝てるはずがなく。
「ちょっと待ってよ、美月!」
人気の少ない渡り廊下で手を掴まれた。
「なんで逃げるの。俺、なんかした?」
伏見くんの切羽詰まったような声に、私は首を振った。
「じゃあなんで?」
「えっと、それは……」
「なんで俺から逃げるのか理由教えて」
伏見くんは、何もしていない。
伏見くんは、何も悪くない。
ただ、伏見くんが──
「……い、いきなり声かけるから、ちょっとびっくりしたの。あまりにも急だったから……」
さっきの私はまだ心の準備ができていないときだった。そんなとき声をかけられたら、誰だって驚くのは当然のこと。
けれど、事実はもっとべつのところにあって。苦しい思いのパーセンテージが限界に達したのと、伏見くんに遭遇した。その二つが重なって、化学反応みたいなものが起こった。それが私にとって〝逃げる〟に繋がったのかもしれない。
「ごめん、驚かすつもりはなかったんだけど」
彼が悪くないのに、こうやって謝るのは、きっと彼が悪い人じゃないからだ。
マフラーを忘れたからって初対面なのに貸してくれるのは、私なんかよりもうんと心が純粋で優しい人だから。
「そ、それよりこれ……」
すっかり忘れていた紙袋を手向ける。
すると、「ん?」紙袋と私を交互に見つめて、目を白黒させる。
「まだ返してなかったから……」
ようやくそれを受け取ると紙袋の中身を確認して「あ」声をあげた。
「そういえば美月にマフラー貸したっけ。すっかり忘れてたなぁ」
怒ることさえせずに、へにゃりと崩れたように笑った。
その様子を見て、ホッと小さく安堵する。
「なかなか返せなくてごめんね」
ようやく持ち主に帰ることができた。
マフラーがあったおかげで、風邪ひかなかった。
「ううん、俺こそあのときはごめん」
突然、謝られて困惑した私は「へ……?」思わず声を漏らす。
どうして伏見くんが謝るんだろう。
私の心を汲み取ったかのように、
「俺、結構無理やりだったでしょ? だから美月に嫌な思いさせてないかあのあと不安になってさ、渡したあとで後悔したんだ。嫌な思いさせてたらどうしようってさ」
恥ずかしそうに頭をかいた。
彼の鼻先が赤く染まっているのが見える。一つ一つ言葉を落とすたびに、口から白い息があがる。そしてあっという間に溶けてなくなる。
渡り廊下は、外気に晒される。
マフラーを貸してくれたあの日と同じように寒くて冷たい。
けれど、あの日は。
「……伏見くんのおかげで寒くなかった」
あの日は、初対面ということもあって私は今よりも冷たく接していたと思う。それなのに伏見くんは、初めから優しくて。
マフラーを貸してもらったのは、私の方。
だから、お礼を言うのも私の方で。
「この前は、ほんとにありがとう。おかげで風邪ひかなかったし、すごくすごく温かかった」
外気に晒されて寒いはずなのに、心はぽかぽかと暖かくて。
「そっか、ならよかった」
伏見くんは、やっぱりいい人だ。
その証拠に表情が物語っていた。
きっと、今まで出会った中の誰よりも優しさが滲んでいる。
そんな人にこんなことを言うべきではないのかもしれない。恩を仇で返すような最低人間かもしれない。
けれど、やっぱり言っておかなきゃいけなくて。
「あのね、伏見くん。一つだけいいかな」
ゴクリと固唾を呑んで、ぎゅっと拳を握りしめたあと。
「……私の教室には来ないでほしいの」
そう声を落とすと、穏やかだった表情が一気に曇るのがわかった。
「え、なんで……?」
まるで太陽が雲間に入ったような気さえした。
「それは、」
説明しなければいけないのに言葉が続かなかった。のどの奥に張り付いていたから。代わりに息だけが漏れて、白い息が雪解けのように溶ける。
「俺が教室に来たら迷惑?」
「そうじゃないけど……」
言えなくて、困った。
その間にも刻々と時間は過ぎてゆく。待ってはくれない。あの日と同じように、失敗をしても、時間だけは待ってはくれず一定のリズムで時を刻む。
言葉を紡がない限り人に思いは伝わらない。
だから今回もまた、そう思っていたのに──
「分かった、行かないよ」
伏見くんの口から現れた言葉は予想外のものだった。
納得してもらえるとは思っていなくて、ぽかんと固まっていると、
「美月がどうして教室に来てほしくないのかその理由は分からないけど、嫌がることを無理強いはしないよ。美月が会いに行ってもいいって思ったら教えてよ。それまで俺、待つからさ」
来ないでと言う理由は分からないのに、それでも〝待つ〟と答えてくれた。
どうしてそこまで人に寄り添った言葉を的確にこの短時間で導き出せるのだろう。どうして私に歩幅を合わせてくれるのだろう。
その優しさが、空から降り注ぐ柔らかな雪が洋服に溶け込んでゆくように浸透する。
「そのかわり、放課後とか休み時間とかたまに話したりしない?」
「……え」
「だってさ、せっかく仲良くなれたのにこのまま何事もなかったみたいに、はいさようならって嫌じゃん。俺としては美月ともっと仲良くなりたいし」
歯の浮きそうな言葉を言う彼は、私とは住む世界が違うらしい。その証拠に纏うオーラさえキラキラして見えた。
──どうしてだろう。
伏見くんを突き放す言葉をこれ以上言えなくて。
「……放課後、少しだけなら」
らしくない言葉を紡いだ私は、少しだけ顔が火照ってしまう。
それは、外の空気が寒いからなのか。
それとも照れているからなのか。
一体、どちらなのだろうか──。
「よしっ、じゃあ交渉成立! ってことで、これからは俺のことちゃんと千聖って呼ぶようにしてよね」
「えっ? だ、だから、それは無理があるってこの前も……」
「うん。でも今ので交渉成立だから約束は守ってよね、美月ちゃん」
急に〝美月ちゃん〟呼びに変わって、胸が早鐘を打った。じりじりと熱が沸騰してくるように、顔が熱くなる。
「……ずるい」
渡り廊下は、外と直面しているのに、なぜかすごく暑かった。
それは、絶対に気のせいではない。
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