不必要な存在(2)


 ***


 千聖くんと別れて帰路についた私の視界に入ったのは、綺麗に揃えられていたローファーだった。

 今日は塾のはずなのにどうして家にいるんだろう。リビングの向こう側からなにやらしゃべり声がしていた。こんなことなら真っ直ぐ家に帰って来なければよかったと後悔の嵐。


「あら、おかえり」


 私の帰りに気がついたお母さんが私を出迎えるようにスリッパをパタパタと鳴らして駆け寄る。ただいまと返して廊下を歩くと、「おかえり、お姉ちゃん」今度はリビングの方から声がする。足を止めて声のする方へ顔を向けると、妹の理緒が椅子に座っていた。


「…うん、ただいま」


 妹の理緒は、私の一つ下。だから今年受験生になる。彼女から目を逸らして、お母さんとも目を合わさないように。


「今日は塾なかったんだ」


 独り言のように言葉を漏らしていると。


「あ、う、うん。なんか急遽、なくなっちゃって。だから久しぶりに早く帰って来たの」


 理緒もどこかぎこちなく返事をして、笑う。その表情さえも引き攣っているのは、私が一方的に妹に距離を取ってしまっているからだ。


「そー…なんだ」


 よりによって塾がなくなってしまうなんて。今日はとことんついてないみたいだ。


「それでね今、理緒とクリスマスのことで話をしていたんだけどね」


 〝クリスマス〟あと二週間もすれば、やってくる。世間ではそれを恋人や友人、家族と楽しく過ごすらしいけれど、私にとってそれは楽しみなイベントなんかではない。むしろその逆で。


「受験生だしあまり時間はないけど、家族みんなでご飯食べるくらいはしようかしらって考えているんだけれど」


 そう告げられて、嫌な考えが頭の隅をよぎった。


「美月は、その日家にいれそう?」


 そして、予想していた言葉が現れる。


 苦い笑みを浮かべているお母さんの瞳の奥には、小さな期待が見え隠れしているようだった。

 けれど、私にとってクリスマスなんてどうでもいい。


 だから私は、


「……まだ分からないや」


 曖昧な言葉で誤魔化した。


「そう、よね。バイトがあるかもしれないものね、まだ分からないわよね」


 すると、私が返した言葉によってお母さんの表情が分かりやすく変化する。


 バイトは二週間に一度、シフトを組む。だから今はまだクリスマスは埋まっていない。それでもその事実を言えないのは、どうしても家族と過ごすのが嫌だから。


「美月には美月の時間があるものね」


 お母さんは、私の言葉を汲み取ってそれ以上〝クリスマス〟の話をするのはやめた。そのせいでリビングには変な空気が充満する。


「……ごめん」


 私は、あの日からお母さんを困らせてる。


 それは間違いなく、目に見えて感じる。


「う、ううん、いいの。気にしないで」


 おまけに妹の理緒ともすれ違ってばかり。私は二人のことを避けている。距離をとっている。

 掛け違えたボタンのように、私とお母さん、妹の距離はどんどん深くなる。一度ズレたらそのあとはずっとその距離を保っていくだけ。


「じゃあ部屋、戻るから」


 かばんの紐をぎゅっと握って逃げるように廊下を足早に歩くと「お姉ちゃん」妹に引き止められる。おかげで部屋まであと数歩といったところで立ち止まる。


「あ、あのさ、実はちょっと話があって……」


 振り向くと、視界に映り込んだ理緒の表情は、とても強張っているようだった。


 昔は、こんなんじゃなかった。ずっともっと仲がよかった。私のあとをずっとついてきて、お姉ちゃんお姉ちゃんって、近所の人が見たら仲良い姉妹だねってよく言われていた。

 けれど、今の私たちにはそんな名残りさえない。


「どうしてもお姉ちゃんに聞いてもらいたくて」


 ガンガンと頭を鈍器のようなもので殴られるような強い痛みが走って、「ごめん」と会話を断ち切るように声を落とす。


「今からまだやらなきゃならないことあるから、今度でもいい?」


 私は、いつも逃げる。お母さんからも、妹からも。そのせいで修復はどんどん先延ばしされて、代わりに〝深い溝〟だけが大きくなる。


「…あ、うん、分かった」


 私の存在が、みんなに気を遣わせてる。それをひしひしと肌で感じる。


「……ごめんね」


 こんなに家族に迷惑かけるくらいなら私の存在なんて必要ない。


「……お姉ちゃん?」


 全部私のせい。私が一年前の受験に失敗なんかするから。

 私の存在自体が〝不幸〟を呼ぶのかもしれない。


「ううん、なんでもない。じゃあね」


 現実から目を逸らすようにその場を離れた私は、後ろを振り向かずに部屋の中へ逃げ込んだ。

 一気に緊張の糸がほどけて、ドアにもたれかかるようにズルズルと座り込む。フローリングの冷たさが身体に流れ込み、体温を奪う。


 リビングは、暗くて重くて、いつも酸素が足りない。私が行くとさらにその重圧はのしかかり、居心地が悪い。

 もっと遅くに家に帰ればよかった。そしたらこんな思いしなくて済んだのかもしれないのに。


「なんで私ばっかり……」


 つらい思いをしなければいけないんだろう、苦しくなって身体を抱きしめるようにうずくまる。


 身体の芯まで冷たくて、心は凍てついている。

 けれど、彼に借りたマフラーのおかげで首だけは暖かくて。


 ふいに、顔を上げる。


 以前は、もっと華やかな部屋だった。【志望校に合格する】と書いた紙を壁に貼ったり、友人との写真をボードに貼り付けたりしていた。けれど今は、六畳の部屋の中は、何もない殺風景。壁に一つも貼ってはいない。外の世界と遮断するように、締め切られたカーテン。たくさんあった参考書は、全部捨てた。


 ──希望も、目標も、未来も、幸せも。


 全部全部、過去へ捨ててきた。


 ──今の私には、何もない。


 だから、

 

「……明日なんて、来なければいいのに」


 そう思っていつも、夜、眠るのだ。

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