第1話 不必要な存在(1)


 

 ◇


「死ぬつもり?」


 屋上から景色を眺めて現実に打ちのめされていると、不意に後ろの方で声がする。驚いて、恐る恐る振り向くと、そこにいたのは見知らぬ男の子だった。


 色素の薄い髪の毛が風にふわりとなびく。顔のパーツは全て整っていて、背も高く、何もかもが完璧に見えて。私は、目を逸らすことができなかった。


 彼が着ているブレザーの刺繍が同じ色だから、私と同級生みたい。


「それとも……」


 私を見つめて固唾を飲んだあと、


「……すでに幽霊とか?」


 少し顔を青ざめる表情が視界に映り込んだ。


 死ぬつもり、って……。会話もできて姿もはっきり見えているはずなのに、どうして私のことを〝幽霊〟だなんて思うんだろう。


「……ちゃんと生きてますから」


 止まっていた時間を進めるように答えると、そっか、と安堵したように声も表情も柔らかくなり、そばへ寄る。私の隣でぴたりと止まる彼の口からは白い息が現れて、そして消える。


 春から冬へと過ぎ去って、季節は十二月に入った。空気はしんと冷えて、息を吸うと肺がその冷たさに驚いてぎゅっと縮まり、息を吐くと、白い息が浮かぶ。それは一秒にも満たない時間であっという間に空気に溶けてなくなる。


 今日は一日中曇りだったせいか、気温がうんと低く感じる。体感温度だと十度にも満たないだろう。


「じゃあどうしてここにいたの?」


 ふいに尋ねられて困った私は、「それは」と言って口をつぐんだ。ここにいた理由なんて言いたくなかったから。


「何か悩みでもあった?」


 彼は、さらに質問を重ねた。それも絶対に答えられるはずのない問いを。


 だから、私は。


「……べつに理由なんてないよ。ただ、ここからはどんな景色が見えるのかなって少し思っただけ」


 半分の真実と、半分の嘘を含ませて。そうすれば、それらしく聞こえると前に何かの本で読んだことがある。全てを嘘で言ったとしてもそれは嘘にしか聞こえない。だからあえてほんの少しの真実をプラスするの。


「それで何か見えた?」


 私の答えを信じた彼はさらに言葉を重ねる。


 何か変われるかもしれない、そんな期待をした私が間違いだった。

 ここへ来たって何も変われないし、希望だって生まれてこなかった。


 〝何か〟なんてなかった。


 ただただ、この世界に絶望する。


「ううん、特にはなにも。ただ、いつも見ている景色がそこに広がっているの。それだけだった」


 あまりにも初対面の男の子に話すことではなかったと、言い終えた瞬間思って目線をわずかに下げる。


「ふーん、そっか」


 何度も質問を重ねた本人の言葉とは思えないほどにあっさりとした返事が返ってきた。

 どうしてあんなこと聞いたんだろうと疑問が降ってくる。けれど、それを何事もなかったかのように目を瞑り、フェンスから手を離してその場を離れようとする。


「でもそれ、なんか分かる」


 けれど、予定外に現れた彼の言葉に身体が動かなかった。動揺したとも言えようか。足の裏が過剰に反応して、急ブレーキがかかった。


「屋上ってさぁ」


 恐る恐る顔を上げて、彼を見据えると、


「人をそんな気にさせるっていうか、あの分厚い扉の向こうには何が広がってるんだろうとか、ここに来るまでの階段が少しわくわくしたりするとか。ここに来れば、何かが見えてくるんじゃないかって期待するの」


 固まる私の隣で、フェンスの向こう側を見つめながらわずかに口元を緩める。風が吹いて、黒いマフラーをなびかせて。


「でも全然、そんなことないんだよね。屋上に来たからって見えるのは、地上よりもかなり遠くまで眺められるだけってところかな」


 彼の横顔は、笑っている。


 それなのに、どこか切なそうに見える横顔。


「……よく屋上に来るの?」


 思わず口をついて出た言葉。


 声をかけずにはいられなかった。


 なぜだろう。彼が切なそうに見えるからだろうか? この寒さのせい? それともマフラーがなびいているせい?


 それとも──


 ……きみも私と同じ?


 心の声が以心伝心したかのように、私の方を見つめた彼に、少し焦って目を逸らすと。


「たまーにね。一人になりたいときとか」


 目尻にしわを寄せて微笑んだあと、


「でも今日は廊下の窓から空見上げたら屋上に誰かいるなーって思ったんだよね。なんかその雰囲気があれ?って思ってさ。それで気になって来てみたんだけど……」


 そう告げられて、数分前の一番初めに彼に言われたことを思い出す。


 〝死ぬつもり〟?


 つまり私が深妙な面持ちでここに立っていたから自殺でも図ろうと思っていたってことになる。


「俺の勘違いだったみたいだね」


 いくら他人とはいえ心配させてしまったことへの罪悪感が募り。


「……ごめんなさい」


 謝罪を口にすると、


「大丈夫。それより何もなくてよかった」


 激怒されることはなくて、代わりに穏やかな安堵したような表情を浮かべて微笑んだ。その表情は、まるで陽だまりのように温かかった。


 ──ヒュー


 屋上は北風が強く吹き荒れる。


「それにしてもさぁ、すっごい寒い!」


 たった今穏やかだった表情がサイコロの反対の目を出したみたいに、顔をくしゃりとしわを寄せて自分の身体を抱きしめる。

 全く私のことなど忘れたように「あー、寒い寒い」と続けて言う。そんなに寒いなら早く校内に戻ればいいのに、なぜか彼はフェンスに背を預けて長居するポーズをとりだした。


 すんっと息を吸って、鼻先に触れたあと。


「まーでもそうだよね。だってもう十二月なわけだし、寒くて当然かあ」


 一方的にしゃべり続ける。まるで栓が抜けた蛇口から水が一気に溢れ出すように、そこから次々と言葉が現れる。


「雪でも降ってきたらテンション上がるけど、当分雪は降らないみたいだし。ただ寒いだけとはわけ違うよな。そう思わない?」


 不意に言葉を丸投げされるから、「はあ」と気の抜けた声しか返すことができなくて。彼の陽気な明るさについていけない私は、終始困った。


 このままだと、いつ帰れるか分からないからだ。

 だから、どうやって逃げよう。


 そんなことを考えていると、


「──あっ、そうだ。名前教えてよ」


 不意をついたように尋ねられて動揺した私は、え、と声を漏らす。が、そんなことなどつゆ知らず。


「俺、一年二組の伏見千聖ふしみちひろ。きみは?」


 まるで川を流れる水のように、どんどん話が進んでゆく。あっという間に〝答える〟以外の選択肢がなくなって。


「……八組の、高野美月たかのみずき


 顔を逸らして、フェンスの向こう側へと目を向けていると、「美月かあ、うん、美月」私の名を確かめるように何度も呼んだ。


 ガシャン。と、フェンスが揺れたあと、


「いい名前だね。これから俺、美月って呼ぶから」


 すでに決定事項だとでも言いたげな明るさの言葉が落ちてきて、「え」弾けたように顔を上げた私は、彼の弧を描いた表情を見ることになる。


「俺のことも千聖って呼んで」


 さらに伏見くんの言葉が続いて、戸惑った。


 いくら同じ学校とはいえ、マンモス校であるこの高校は一クラス八組もある。その中で、二組と八組という端っこで、知り合いもいなければ友人もいない私にとって他のクラスの同級生を知るよしもない。出会ってまだ数分しか経っていないのに、互いのことを呼び捨てで呼び合うなんてそんなの不可能に近くて。


「いや、あの……」


 断ろうと言葉を紡ごうと思うが。


「美月、八組なんだね。端っこ同士だからあんまり学校で会うことなかったのかぁ。でも、不思議だよね。同じ学校に通ってるはずなのに」


 どんどん話が進んでゆくから断ることさえもできなくなって。


「それとも美月、あんまりこっちのクラス来ない?」


 今日が初対面のはずなのに、彼は人懐っこささえ感じるから。


「ま、まぁ……」


 気がつけば千聖くんのペースに巻き込まれて、名前のことに反論するどころか返事をしてしまう。


「そっかー、まあそうだよなぁ。用事ない限りこっち側通路通ることないもんなぁ」


 彼は、まるでひとりごとのように淡々としゃべり続けたあと、


「それにこっち来てたら俺、絶対覚えてるもんなぁ。だってこんなに可愛い子、絶対忘れるはずないし」


 私が返事をする間さえ与えてくれない伏見くんからは、歯の浮くような言葉がこぼれる。


 だから私は、


「な、なに、言ってるの……」


 一瞬で動揺してしまう。揺れる心を、無視なんてできなかった。それだけ心がうるさくて。


 ──こんなに動揺したのは、あの日以来かもしれない。


「なに、って。美月が可愛いってこと」


 そんな私に、二度目もさらりと言ってのけるから、聞いてる私の方が居心地が悪くなる。ざわざわと心は落ち着かなくなる。


 瞬きだけ繰り返し返事をせずに固まる私を見て「え、なに」さすがの伏見くんもこの空気を察したのか。


「もしかして俺が嘘言ってると思ってる?」


 自分に向けて人差し指をさすから、コクリと小さく私が頷くと、


「そんなわけないじゃん」


 ふはっと軽く吹き出して笑って。


「そりゃあね、ほぼ初対面でこんなこと言うやつもどうかなって思うけど、思ったことは口にしちゃうんだ、俺。だから気、悪くしないで」


 慌てるそぶりさえ見せずに堂々たる顔ぶれで自分を擁護する。その姿に嘘をついているとは思えなかった。


 だから、悪い人ではなさそう。

きっと心が素直で純粋で、日頃からそういう言葉を言い慣れているのかもしれない。


 けれど、いい人かどうかも断定はできない。

ついさっき出会った伏見くんのことを、〝いい人〟だと裏付ける証拠や材料はまだ見つかっていないからだ。彼がどういう人でどういう生き方をしてきたのか分からない。


 チャラくは見えない。悪い人にも見えない。けれど、いい人とも断定できなくて、おまけに真面目そうには見えなくて。


 私の頭の中が導き出した答えは、私とは住む世界が違う人間だということだ。


「帰る」


 だから私は、たった二言でその場をぴしゃりと切り捨てた。


 私は、こんなに暗い高校生活を望んでいたわけではない。もっと有意義に一度しかない高校生活を充実させたかった。友人たちと一緒に楽しく過ごしたかった。

 実現することができない未来に、また絶望感が襲ってきて、目の前の未知なる世界に目を閉じた。


「えっ、美月もう帰るの? せっかく仲良くなったばかりなのに、もうちょっとくらい」


 フェンスに背を向けて歩き出す私のあとを追いかける足音がするが、それを無視して扉の脇に置きっぱなしにしていたかばんを肩にかけると。


「ちょっと待ってよ。ほんとに帰るの?」


 肩に手が添えられる。動き出そうとしていた足はぴたりと動きが止まる。


「うん、帰る」


 屋上に長居しすぎたせいで身体は冷え切った。触れられている部分以外は。


「なんで。俺、なんかした?」

「……伏見くんは何も」

「じゃあなんで。俺の何かが嫌だったからじゃ……」


 自分の記憶を遡って推理した伏見くんは、


「もしかして今の言葉が嫌だった?」


 的確に的をついてきて、一瞬だけ動揺する。


 〝せっかく仲良くなったのに〟は、私には当てはまらない。だって仲良くなったつもりはないからだ。ただ彼が一方的にそう思っているだけであって、私は全然心を開いてはいない。むしろ厳重にカギをかけて閉めている。


「べつに、そういうわけじゃなくて…」


 ──私が望んだ未来じゃない。


「じゃあなんで。なんで急に帰るなんて言うの」


 あの日、私が失敗なんてするから。全部、自分自身にイラついて、ふつふつと煮えくりかえるように。感情の矛先が、そばにいた彼へと向けられそうになる。


「……用事、思い出しただけだから」


 咄嗟についた嘘が、お腹の真ん中でぐるぐると渦を巻く。煮えくり返そうになる感情に混ざって、それは次第に膨れ上がる。


「ほんとに?」

「ほんと…だから…!」


 何度も尋ねる彼に、冷たく言い放つ。


 べつに伏見くんが悪いわけじゃないのに。伏見くんにイライラしているわけじゃないのに。私のそばにいたせいで、不条理に向けられる矛先。


「うん、そっか、ごめん」


 弱々しくなった声のあとに、離れてゆく手のひら。さっきまで温かかったのに、一瞬でその温もりさえ奪われて、急速に心はしんと冷える。


「じ、じゃあ、私帰るから……」


 扉のドアノブを捻った瞬間、「待って」またもや声をかけられる。

 捻ったまま、振り向かずに固まっていると。


「マフラーして帰らないの?」


 それ、引き止めてまで聞くことかな。べつに伏見くんには関係ないじゃん。


「……忘れちゃったから」


 振り向かず、そっけなく返事を返す。そんな自分の声も今は、弱々しく聞こえる。

 なぜだろう。北風がヒューヒューと寂しげだからだろうか。


「もういい?」


 握りしめているドアノブも、外気に晒されたままで極限まで冷えているため、手のひらを伝って身体が冷えてくる。


「じゃあこれ、つけてよ」


 一瞬、何を言われているのか理解できずに「え」困惑した声だけを漏らして、ドアノブから手を離して振り向くと。瞬間、鼻先をかすめた柑橘系の香り。すぐにふわりとした肌触りの良いものが首元へと落ちてきて、冷たい風が遮断される。


「今日すごく寒いからそのまま帰ったら風邪ひいちゃう。それに女の子は身体冷やしちゃダメだよ」


 黒色のマフラーを巻いてくれた彼の鼻先は、私と同じくらい真っ赤に染まっていた。


 同じ高校とはいえ男の子からマフラーを借りるなんて、いくらなんでもありえない状況に困惑して、巻かれたマフラーを逆再生するように剥ぎ取ると。


「……私に貸して伏見くんが風邪引いたらどうするの」


 突き返そうとマフラーを首元から持ち上げるけれど、私の手を止められて、


「俺は大丈夫だから美月が使ってよ。俺ので悪いけど」


 それは失敗に終わる。再度、私が外さないようにぐるぐると巻き始めた。今度は剥ぎ取られないよう首の後ろで結ばれる。


「てか、千聖でいいって言ったのに伏見とかさぁ、よそよそしい」


 それに不満に思いながらも、誰かに優しくされたのが久しぶりすぎて胸がいっぱいになって、マフラーに顔を埋める。


「だ、だから、それは……!」


 マフラーの内側でもごもごとくぐもった声だけが、北風に攫われる。きっと、彼には届いていない。


「うん、でも。次はちゃんと名前で呼んでよ」


 無理難題を押し付けられた気分で、どんよりと気分が沈む。


「じゃあまたね、美月」


 屋上から笑顔で送り出される。


 放課後、午後十六時三十分。


 私の世界は、何も変わらなかった。


 けれど、この日を境に少しずつ変わってゆく景色に、私はまだ気づいていなかった──。

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