4:獣の宝物

「三百年に渡る契約は、今終わりを遂げた」


 最初になった鐘の音が止むと同時に、メルはそういった。その声があまりにも禍々しくて、全身が粟立つ。


「誓約を守る必要は、もう、なくなったわけだ」


 背後から掴まれた腕が持ち上げられて、手の甲に柔らかなものがそっと触れる。そのまま温かで湿った何かが手の甲をそうっと撫でてきた。

 まるで耳元でメルに囁かれたときのようにぞわぞわとした感覚が背中に走り、小さな呻き声が口から漏れる。


「血を」


「え」


 思ってもみない言葉を囁かれて、さっきまでの高揚感が吹き飛んだ。驚くと思ってもみないくらいの間抜けな声が出るものだ。

 血を吸う獣ヴァンパイアと言いながらも、僕はメルが血を吸っているところを見たことがなかったし、血を求められるとも思っていなかった。


「血を一滴でももらえりゃあ、俺も坊ちゃんも生きたままここから出られるし、あいつをぶっ倒してやれる……やれます」


 高揚したような、でもそれを隠そうとして隠しきれないような、そんな見たことも無いメルの姿を見て、こんなときなのににやけそうになる。

 先ほど言っていた、契約がどうこうということと関係があるのだろうか。


「お前が血を飲むときは……僕が死んだ時なんじゃないのか?」


「契約が続いてる時ならそうだった。でも、もうちがう」


 後ろから抱きしめているメルの顔を見たくて上半身を捩ると、僕の頭をくしゃくしゃと撫でながらメルがニッと牙を見せて笑う。


「ごちゃごちゃと何を話している! 血を満足に飲んでいない烏のヴァンパイアがわたくしに勝てるわけないだろう」


 それに苛立ったのか、黙っていたアーラが声を荒げながら、今度は杖を此方へ振りかざして魔法を放ってきた。

 パッと火花が散り、拳大の火球がいくつか僕たちに向かって真っ直ぐに飛んでくる。


「二人まとめて死にたいのなら話は別だが」


「お前が死ぬのは、困る」


「うれしいことを言ってくれますね」


 手をぐいっと引っ張られたかと思ったらチクリと手の甲に針が刺さったような感覚が走る。

 それからべろりと温かいものが手の甲に押し付けられ、少ししてからそれがメルの舌だと気が付いた。


「とりあえず、一時的な契約を結ぶとしましょう。血と力を俺に返してもらいます」


「あ、ああ」


 舐められたところからじわじわと単純な痛みでは無く、身体中が疼いてしまうような妙な感覚が広がっていく。

 少しぼうっとしながら、メルの言葉に頷く俺の顎を、美しい指がぐいっと掴んで持ち上げる。


「ああ、あと、坊ちゃん、俺以外の血を吸う獣ヴァンパイアにはそんな簡単に契約を承諾するんじゃ無いぞ」


 深く口づけられた後、舌で自分の唇をペロリと舐めたメルは、いつもとは違う口調でそう告げると、クスリと微笑んでから自分の肩に刺さったままだった乳白色の杭を抜いて火球に投げつけた。

 青い炎を放ちながら飛んでいった杭は、紅く燃えさかる炎をかき消してアーラと継母おかあ様、二人の足下に鋭い音を響かせて打ち込まれる。


「貴様……」


「小僧、お前は若い血を吸う獣ヴァンパイアだろう? 一つ勉強させてやる」


 呆気にとられたように目を丸く見開いて自分の足下を見ていたアーラが、キッと眉をつり上げてこちらを睨み付けた。

 しかし、僕の背後にいるメルを見て何やら顔を青ざめさせている。


「セオドア、あなた……なんなの……その髪色は」


 継母おかあ様は震えながら僕を指差した。髪色……と言われたので自分の前髪を軽く引っ張って見てみると、鮮やかな赤い髪が見える。


「これは」


「ルベル家当主、本来の髪色だ。炎のような、動物の血のような鮮やかで美しい赤い髪。この色が気に入ってお前らの血筋を選んだんだ。まあ、お前は後から来た部外者だから関係はないが」


 横を見ると宵闇色ではなく、儚げに輝く月のような白銀に染まった長い髪を揺らして笑うメルがいた。


「少しの間、力を返して貰うって言っただろう?」


 髪色も、話し方も違うが、その笑い方は僕がよく知っているメルそのものだった。


「そ、そんな……髪色が銀、だなんて。銀髪の血を吸う獣ヴァンパイアは……力が最も強い氏族の証……」


 白銀色に染まった髪のメルを見たアーラは、先ほどの高慢な態度を崩し、数歩後退りをしながら小さな声でそう呟いた。


「毛色が変わったからなんだというのです! こちらはもう貴方に息子二人を眷属に捧げ、平民も好きなだけ喰らわせたのですよ! さっさとあの無礼で穢らわしい獣を倒してくださいな」


「あれのどこが穢らわしい獣だっ! こんな話は聞いてないぞ」


 継母おかあ様がヒステリックな声を出して、顔を青くしているアーラの腕を強く引っ張ってそう喚く。

 そんな母の腕を振りほどきながら、アーラは爪を噛みながらブツブツと何か独り言をつぶやき始めた。

 僕にはよく聞こえないが、メルにはしっかりと聞こえていたらしい。


「ククク……血を吸う獣ヴァンパイアなら、流石にこの髪色が意味することがわかるらしいなぁ」


「クソ……。蝙蝠コウモリ血を吸う獣ヴァンパイアといえど血を僅かにしか飲んでいないなら勝機はある」


 カンっと大きな音と共に、アーラは床に杖をたたきつけた場所からは大きな炎の渦が火の粉をまき散らせながら広がり始める。


「熱い! 死んでしまうわ」


「せっかく楽をして血にありつけると思ったんだが、こうなれば仕方が無い」


 炎から逃れようとした継母おかあ様の首へ手を伸ばしたアーラが、そう言い終わると同時に太い枝が折れたような音がした。

 古い歯車が軋むような音がすぐ後に聞こえたと思ったが、それはあの美しくも恐ろしかった継母おかあ様の断末魔だった。

 あっけなく僕を苦しめていた存在が死んだことに驚く暇もないまま、アーラの巻き起こした大きな炎の渦が大きくなり、天井にまで届く。

 ゆらゆらとガラスのシャンデリアが真っ赤に照らされ、使用人たちの悲鳴があちこちから聞こえ始める。

 動かなくなった継母おかあ様だったものを抱き寄せ、首筋にかぶりついたアーラは「炎の渦よ」と叫びながら抱いていた死体を無造作に放り投げた。


「唸れ燃えろ赤き炎 風と共に空を目指せ、木々を飲み込み全てを焼き尽くせ」


 熱い風が頬を撫でる。火の粉が瞬きながらあっと言う間に屋敷を飲み込み、僕たちの退路も断たれてしまった。

 しかし、メルは慌てた様子もなく、僕の肩を抱きながら炎の渦の中心地にいるアーラを見つめているだけだった。


「なあ、烏の小僧アーラ蝙蝠コウモリの王について知っているか?」


「他の氏族のことなんざ知るわけないだろう! さっさと死ね!」


 両手で掴んだ杖を持ち上げると巨大な炎の渦が杖の先端へ吸い寄せられるように集まっているのが見える。

 ごうごうという巨大な獣の唸り声のような音を立てる炎の魔法を目の前にしても、落ち着き払っているメルを見ていると不思議と怖いという気持ちが消え失せてしまった。

 炎に照らされて、元の僕の髪色に似た赤みを帯びた銀色の髪をさらさらと靡かせているメルは「ふ」と息を漏らすように笑うと右手を軽く前へ翳す。


災厄メルム。それが血を吸う鬼始祖のヴァンパイアから直々に血を分け与えられた蝙蝠の名だ」


 静かにそう言ったメルの手に炎は吸い込まれていく。

 徐々に手を閉じていくと、炎の渦はどんどん小さくなり、完全にメルが手を閉じる頃には屋敷を飲み尽くさんばかりに広がっていた炎はどこにも見当たらなくなっていた。


「高え勉強代になったなぁ?」


 いつのまにか、僕の隣からメルが消えていた。

 低く柔らかい声が少し遠くから聞こえた時には、アーラが力なく地面に膝をついていた。

 アーラの上半身が捲れて荒れ果てた床の上へ倒れる前に、人間に近い姿は紅い煙に包まれ、小さな小さな烏の姿へと変化した。


「死んだのか?」


「力を奪っただけだ。まあ、二百年もすりゃあ人間の姿になれるくらいの力は取り戻せるだろう……」


 永い永い時を生きる血を吸う獣ヴァンパイアの時間感覚はわからない。首を傾げていると、メルは愉快そうに喉を鳴らしながらクックックと笑った。


「そろそろ夜が明けるな。さて、どうする?」


 頭を撫でられて、それからメルは僕を抱き寄せ、空を見上げた。

 白んできた空を見て、それから屋敷の天井がすっかりなくなっていることにようやく気が付く。


「自分で言うのもなんだが俺は良い吸血鬼だ。少なくともお前にとってはな」


 白銀の髪は、光を徐々に失うように毛先から色を失っていく。

 半分ほど黒く染まった髪を乱暴に掻きながら、メルは俺の顔を改めてまっすぐに見つめてきた。


「……話し方がめちゃくちゃだな。それが本来のメルなのか?」


 メルは肩を竦めながら笑った。白んできた空の下に佇むメルは、この場が焼け焦げた瓦礫だらけだというのにとても美しく、神々しく見える。


「ああ。嫌ならいつも通りの口調に戻りますよ、坊ちゃん」


 傷付けないように配慮しているのか、メルは手の甲で僕の頬をそっと撫でながら甘えるような声色でそう囁く。

 聞き慣れた低く、柔らかい声は、ざりざりと全身の内側を軽石で削るみたいに理性を説かしていく。

 家ももうなくなった。それに、城からはメルを殺すように指令が出ているらしい。

 僕に残っているのは、この恐ろしいほど美しい獣だけだ。


「……坊ちゃんと呼ぶのはいい加減やめてくれと言っただろう。それに、僕はもう当主でも主人でもない。ほら、さっさと身を隠せる場所を探そう、メル」


「わかったよ、セオ。じゃあ、行くとするか」


 いつとってきたのかわからない鮮血の宝玉飾当主の証をどこからか取りだすと、優しく触れた僕の耳に飾り付け、満足そうに目を細めてから俺を強く抱きしめた。

 それから、瓦礫の山を蹴って空へ跳ぶ。

 背中から生えた黒い蝙蝠のような羽根が大きく広がって、僕たちはもう明るくなりつつある空を森へ向かってよろよろと飛んで行く。


「移り気な月が変わらぬ闇を愛するものか……と思っていたが、まさかあのバカの戯れ言が本当だったとはな」


 風を切る音と羽根の音、それにメルの胸の奥から響く心臓の音が心地よくてうとうととしていると、ふとそんな言葉が聞こえてきた。

 まどろみに飲まれそうになりながら、僕はふと、彼が放った言葉の意味に気が付く。

 胸に埋めていた顔を離して視線を上げると、目を細めたメルが、唇の片側を持ち上げてニヤリと笑った。


「なんでもないさ、特別な俺だけの宝物」

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