3:新たな獣
「……う゛」
目を覚ました時、ジメジメとした部屋に僕はいた。
硬く冷たい石畳と、高い場所にある窓から差し込んでいる月明かり、そしてカビ臭さが鼻につく。ここは……家の地下に備え付けられている牢だろうか?
痛む頭に手を当てようとして、手が後ろ手に縛られていることに気が付く。
確か狩りを終え、それから
「メルは」
掠れた声であいつの名を呼ぶ。しかし返ってきたのは、身体の内側をざりざりと削って僕の理性を説かすような低くて柔らかい声では無く、まだ甲高さの残る青々しい声だった。
「あの穢らわしい獣ならお母様の部屋だ」
「新しい獣の餌にするんだとさ」
くりくりとした強めの癖っ毛をした赤毛のバランと、ゆるく波打つ髪を肩まで伸ばしている栗毛色の髪をしたカブラが交互に口を開いた。
二人の父上に似た青い瞳が鉄格子越しに僕を見下ろしている。
「本物の
思いきり鉄格子が蹴られて、ガタンと硬い音が響く。
ずきずきと頭が痛む。糞。
芋虫のように惨めな格好で格子に近くへ這いずっていくと、弟たちは腰を曲げて俺に顔を近付けた。
「今夜、月が一番高くなったとき、お前は当主の資格を失うんだとさ。お母様が言っていた」
「王城からの手紙には穢らわしい獣を処理しろと書かれていたんだ」
「どういうことだ?」
「さあね。ただ、あの生意気な獣は今夜、お前は明日殺される」
「それから母様が正式な当主としてルベル家を率いていくことになる」
下卑な笑みを浮かべた弟たちは顎をさすりながらそう言い終わると、ペッと僕の顔に唾を吐きかけてきた。
顔を背けるとゲタゲタと笑った弟二人が、見張り番に鍵を持ってこさせて鉄の重い扉を開いて部屋へ入ってくる。
「髪の色だけで選ばれた出来損ないが。父様をせっかく殺したってのに」
「あの穢らわしい獣は、ボクたちを当主と認めないと言いやがった」
交互に話ながら、弟たちは足を思いきり振りかぶり、僕の鳩尾に爪先をめり込ませてくる。
何度か蹴られながらも、あいつらは何かを言っていたが、痛みで頭が朦朧として何を話しているのか聞き取れなかった。
意識を失っていたらしい。冷たい水をかけられて、痛みと冷たさで目が醒めた。
アレからどのくらい経ったのだろうか。口の中は鉄の味がするし、床も血で汚れている。ずきずきと全身が痛んでいるが、弟たちは僕へ暴行することには飽きないようだ。
枝むちで叩かれて服や肉が裂けるたびに、僕の口からは情けない呻き声が漏れるだけだった。
当主として用済みならば、このまま死んでも心残りはない。だが……あの美しい獣は……どうか主を失うのなら自由になってはくれないのだろうか。
「……メル」
「やっと話したと思ったら、あの穢らわしい獣の名を呼ぶのか」
「実の母でもなく、父上でも無く、あの獣の名を」
手を叩き、ゲタゲタと笑う弟たちの声をかき消すように、遠くから夜の闇を引き裂くような大きな叫び声が聞こえた。
空気がビリビリと震えている。弟たちも何事かと動きを止めて牢から出て行き、使用人を呼びつけている。
慌てているのか扉は開きっぱなしだった。今なら……ここから逃げ出せるかも知れない。
まだ、
長時間暴行を続けられていたからか、足や腹に力を入れるだけでも悲鳴がもれそうになるほど痛む。だが、明日には死ぬ命だ。多少無理をしたところで問題はないだろう。
まだ弟たちが戻ってくる気配はない。壁に寄りかかりながらなんとか立ち上がり、痛みに喘ぎそうになるのを息を止めて堪える。
それから覚悟を決めて走り出そうと足に力を入れた。
「坊ちゃん」
低く、柔らかい声は一瞬で僕の耳から頭の中へ流れ込んできて、身体の芯がカッと熱を持つ。
ざりざりと全身の内側を軽石で削られたみたいに全身がぞわりとして、張り詰めていた気が一瞬で緩んだのか腰から崩れ落ちそうになった。
「メル」
「貴方の獣が参りましたよ」
肩を掴み、膝の裏に腕を差し込んで僕を担ぎ上げたメルの両手首には見慣れた黒い枷が見当たらなかった。
「どこから……」
メルは柔らかく微笑みながら高い場所にある小さな窓を指差す。
どうみても小さな窓しかないのだが……と首を傾げる間もなく、僕の声を聞きつけた弟たちがこちらへ戻ってきた。
「穢らわしい獣め! どうやってここへきた」
「新しい獣に喰われるはずだろう?」
僕を抱えているメルを見て、弟たちは表情を引きつらせながら喚きはじめる。
「あと数刻だ」
メルは、そんな弟たちの言葉を無視して僕を抱えたまま歩き出すと、ぼそりとそう呟いた。
父上に仕えていたときのような、冷たく恐ろしい表情を浮かべたメルが一歩踏み出すと、弟たちは気圧されたように一歩引き下がる。
「お、お前! ボクたちを無視するな」
「お前はルベル家に仕える獣だろ!」
尚も弟たちを無視して地下牢から出る扉に差し掛かるメルに苛立ったのか、二人は同時に壁に掛かっている棍棒を手に取って振り上げた。
「少し早いが、もう従順な獣ごっこはやめてやるぞクソガキ共」
普段の柔らかで太く、低い声色だったが、その口調は僕の知っているメルのものではなかった。
口の片側をいつもより大きくつり上げて、目をゆっくりと細めたメルが足をふっと持ち上げた。
肉を思いきり叩く音が聞こえたかと思うと、弟たちが大きく身体を反らせて後ろへ派手に吹き飛んで行く。
壁に背中を強く打ち付けたらしい弟たちは呻きながら地面へ這いつくばっている。
「三百年だ」
立ち上がろうとしている弟たちの背中をメルは思いきり踏みつける。それから勢いよく腹を蹴り上げ、浮いた身体をさらに蹴りつけて牢の中へ二人を順番に放り込んだ。
「こいつは俺が三百年間、俺が待ち望んでいた宝であり、最高傑作なんだ。昨日今日魔物と契約したボケナスとは出来が違う」
そういうと、勢い良く足で牢の扉を閉める。ガチャンと勢い良く締まった扉に挿しっぱなしだった鍵を器用に僕を抱き上げたまま閉めたメルは、抜いた鍵を適当に放り投げて再び扉へ向かう。
何が起きたのかわからないのか、それとも目の前で獣が拘束もないまま歩いていることが恐ろしいのか、口をぱくぱくと開閉させるだけで言葉を発しない使用人を横目に僕を担いだままのメルは階段を上がっていく。
予想通り、僕がいたのは家の地下牢だったらしい。メルが普段閉じ込められている牢の中に僕は閉じ込められていたらしい。
「メル、どういうことなんだ?
「坊ちゃま、よく考えてください。ただの人間に多少殴られたくらいでは、あなたは怪我をすることすら難しい」
ぺたぺたと裸足のままホールを歩くメルの足音だけが響く中、僕はどういう状況か把握するために幾つか質問を投げかけた。
それを聞いたメルは眉を顰めてから、大きくかぶりを振って僕のことを床へ降ろして、すっかりいつもと同じ口調で僕にそう答えた。
「あなたは獣である俺の主人ですよ。ただの人間に負けるはずがない。それが例え同じルベル家の者だとしても、です」
胸をトンっと指で突かれながらそう言われてみて初めて気が付く。
「……確かに、そうだ」
身体はまだあちこち痛いが、目を覚ました時に痛かった頭の傷がどうやら塞がってきたようだ。
後頭部に手を当てると、ぬるりとした感触がする辺り傷はなかなか深かったようだが……。
「おっと……楽しくおしゃべりしてる場合ではないですね」
ひやりと足下から冷気が漂ってきた気がした。そしてカツカツと早足でこちらへ向かってくる二つの足音が聞こえる。
「
ホールから吹き抜けへ続く階段の上には真紅のドレスで着飾った
そして、その隣には見慣れない男が佇んでいた。
背中まで伸ばされた青みがかった黒髪は、上品にひとつに括られているし、身に付けている装飾品や洋服はまるで貴族のようだった。
「強力な同族が契約をしていると聞いていましたが……わたくしと同じ
杖を片手にしている男は、まるで貴族のような言葉遣いと立ち振る舞いでこちらへ話しかけてくる。
金色の瞳を細めて、値踏みをするようにこちらを見回してから、男は薄い唇を歪めて笑った。
「血を十分に飲んでないと言っても、こいつからは魔力を微塵も感じない。我々の社会で生きていたら餌にありつけないほどの落ちこぼれというわけだ。紅い目をしているから警戒はしていたのだが」
黒い貫頭衣だけを身に纏い、腰まで伸ばした黒い髪を伸ばしっぱなしにしているメルと全く違う様相をしている
どういうことなのか聞こうとしたところで、メルが僕を再び抱えて、床へ転がった。
硬い音が響き、普通の魔物とは違う甘い花に似た香りが辺りに広がる。
小さな呻き声が耳元で聞こえてすぐに、メルが僕を庇って怪我をしたのだとわかった。
「おやおや。まだ契約が切れていないのかい? そんな人間を庇うだなんて」
カランカランと乾いた音と共に、メルの肩に刺さったのであろう乳白色の杭が数本床に落とされる。
ぼたぼたと音を立てながら床に落ちたメルの血が紅い煙になって足下へ広がっている中、僕は身体が痛むにも拘わらず階段を降りてこちらへ近付いてくる男とメルの間に立ち塞がった。
「契約が切れていないと言うことは、一応まだルベル家の当主なのかな? 一応挨拶をしておこう」
男は、うやうやしく頭をさげてから僕とメルを見て、張り付けたような笑顔を浮かべた。
透き通るように白い肌と整った目鼻立ちも
「領地内の平民ならば血を好きに吸っても良いという契約で新たにルベル家と契約することになったアーラという者だ。ククク……魔物狩りのやつらも貴族と契約をしている魔物を易々と攻撃が出来ないからね」
アーラと名乗った男は膝を着いているメルを一瞥してから、再び僕を見てにっこりと笑みを浮かべる。
そして、階段を降りて近付いて来た
「確かに三百年前は弱い個体が人間如きと契約をするのが生き延びる術だったが……昨今はわたくしたち力のあるヴァンパイアも楽をして食料を得たくてね。力のある人間と共生することにしたのだよ」
濃厚な口付けを交わす
あれだけメルを穢らわしい獣だと罵っていた
僅かな嬌声をあげた母は、アーラが唇を離した後に寂しげな表情を浮かべてあいつの胸に頭を預けた。
「マダム、この続きは邪魔者を処分してからに致しましょう」
「獣共々、大人しくアーラ様に殺されなさい」
急にいつものように冷たい表情を浮かべた
しまったと思って思わず目を閉じたとき、背後にいたメルが僕を抱き上げて大きく後ろへ飛び退いた。
「くくくくく……ははは……あーっはっはっはっっは」
抱えていた僕を降ろしながら、メルは堪えきれないとでもいいたげに大笑いをし始めた。
それから顔半分を隠すほど伸びていた前髪をゆっくりとかきあげながら、唇の片側を持ち上げてニヤリと笑みを浮かべる。
「たった三百年だ。三百年の間に、俺のことを知らぬ阿呆が出てくるとはなあ」
長く骨張っているが整った形をした指の間から黒髪が零れ落ち、さらりと後ろへ流れていく。
そんなメルの言葉に眉を顰めたアーラは、こめかみに青筋を浮かべながら腕を目にもとまらぬ速さで振り下ろした。
ぐいと後ろに肩を引かれ、メルの腕で視界を奪われる。甘い花の香りが濃くなって、荒いメルの息遣いが耳を撫でる。
「メル、お前は逃げていい。僕なんて見捨てろ」
「やっと見つけた闇を照らす月の光り。貴方を見捨てるわけがないだろう?」
メルは、先ほど弟たちに話したような乱暴なものとも少し違う口調で愉快そうに話すとククッと肩を奮わせて笑った。
そして、僕を抱きしめる腕に力を込める。
「どういうことだ?」
「ほら、坊ちゃん、もうすぐ鐘がなりますよ」
いつもの口調でそう言われて、どきりと胸の奥が脈を打つ。
僕の理性を溶かそうとする声。僕の衝動を揺する声。
生唾をゆっくりと飲み込むと同時に、大広間にある柱時計が低い鐘の音を鳴らし始めた。
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