第30話

「これはいい機会だとキミも思うだろ?こうして敵対した者同士が同じテーブルについてゆっくりとお話ができるんだから」


 新聞という壁が無ければ僕は完全にヤツのペースに乗せられていただろう。

 リッパーの目的は僕だ。だが、ヤツは僕に攻撃と言うか敵意すら見せることがない……これが大人な対応というやつなのだろうか。


「で、なんで僕がここに居るってわかった……」

「その傷、ひどい右手の火傷を見ればキミがどんな人間であるかがよくわかる」

「それは確信に繋がるモノであって最初から感じていたアンタの違和感とは違うはずだ」

「……本当のことを言えば大陸のお嬢さんがボディーガードを付けないはずがない。それに彼女はキミと同じく宮殿に突如出現した世界樹と接触した……そんな彼女が世界樹について興味を示さないはずがない、恐らく自分ではない誰かにソレを探らせる。そこで彼女と同じく世界樹に接触することができた者に頼むだろうね……キミなら必ずソレを了承する。ホムラの反対があっても強行したことだろう」

「アンタだったらそうするのか」

「ああ、私だったらそうする」


 流石と言うべきか欠点のない完璧な推理で彼女の思考、そして僕の行動を読み当てている。

 それもそのはず、あのカインとアベルを下につけて自分の手足のように操っているのがこの男なのだから完璧でなければいけない。でなければあの二人、人間の力を越えたヤツらに反抗されてしまうしアベルの様な狂った信者は生まれないだろう。


「結局のところ何が目的だ」

「キミが世界樹を知りたいと言うなら私がアレのある場所へ案内してあげよう」

「なんだと?」


 その言葉に唯一ヤツとの壁であった新聞を思わずテーブルに叩きつけてしまった。そして、この時初めて僕は殺さなければいけない敵であるヤツと顔を合わせることとなってしまう。


「やっと顔を合わせることができたなウッド」


 左右の瞳の色が違うその男の顔立ちは芸術作品のように美しかった。嫉妬してしまうほどに容姿端麗で柔らかい表情を浮かべる彼の横に立てば誰でも霞んでしまうような気がする。

 こんな男が人を殺す事に躊躇いがない……人を見た目で判断してはいけないとわかっていてもソレが理解できないくらいリッパーの表情は聖母同様の慈愛に満ちた迷える子羊を導く者のソレであった。

 人とは違う何かを持っている。

 白髪は僕と同じ、写真で見た通りだ。だが、左右の瞳の色が違うオッドアイと言うのは実に珍しい。透き通ったサファイアの瞳は宝石にも勝る輝きを放っている。


「どういうわけか……キミと私は共鳴し合っているようだね。力を抑えているはずが無意識のうちにソレを解き放ってしまっている」


 幸い僕の瞳はサングラスによってヤツには見えていないが反応からすると僕もヤツと同じく無意識のうちに能力を使っている状態、いつもの白髪になっているのだろう。

 だが、それは裏を返せばお互い能力を使用中であるのだ。力もその差も測れない状況で先に攻撃を仕掛ければヤツを怒らせ返り討ちにされる可能性もある。それにヤツの力は既に僕を補足していると考えれば下手に動いて自分を危険に晒すこととなる。

 大人しく従っておくのが一番だ。

 ヤツの言う世界樹に案内するという内容も気になるからな。


「キミは賢いな……私の前にはいつも天使から力を授かったばかりの罪人、いや調子に乗った愚か者ばかりが現れその力の差を測れぬまま死んでいった。だがキミはこの状況でもその力を使用しなかった」

「アンタにどのくらい僕の力を知られているかわからない状況で使うことは自殺行為だろ……それに使ったとて、今の僕がアンタに勝てる気がしない」

「そうだ。それに彼女たちの安全を考えれば下手に動くことは得策ではないね。私はこの島を支配していると言っても過言ではない……この店の従業員、街を散歩する一般人、それが本当にただの人間なのかキミ達はこの島にいる間はよく注意すべきだ」


 何を言っているんだ?この島を支配している?地下帝国がか……?


「馬鹿な……この島の偉い人間が地下帝国のモグラだって?この島にも選挙は存在する。アンタの様なイカレた野郎に票を入れる人間が存在するのか?」


 例えこの島に自治権が認められ選挙で島のトップを選べたとしてもヤツに入れること、それ以前にヤツの存在を知る政府が出馬を認めるのか?

 あり得ない……。二人のことを出すことで少しでも駆け引きで自分を有利にするためのハッタリだ。


「イカレているとは心外だな。だが、親切な私が社会を知らぬキミに一つ知恵を授けるとすれば政治とはキミが思う以上に腐っているのだよ……例え中央の政府であれ金を欲しがる者はどんな手段を使ってでもソレを優先する。ただの価値が付いた紙切れに彼らは頭を下げるのだよ」


 選挙によって島を平和的に占拠することに成功した。

 ヤツらは東大陸と北大陸への攻撃を容易にするためにこの島を選んだ……しかも中央政府の息がかかった政治家を利用して私物化しようとしている。

 このことをあの老人が知ったらどうなるだろうか?リッパーの方が一枚上手でヤツが素直に負けを認めるか、それともリッパーを超える何かを既に用意しているのか。


「…………二人に危害を加えるなら僕はこの命を以てアンタを殺す。刺し違えてでも致命傷は与えてやる」

「威勢がいい……だが私は敵であろうと約束は守る。最初に言った通り私はこの島でキミと戦うつもりはない。これは本心だ」


 僕の強気な態度は華麗に受け流された。それは僕の宣言したことが不可能であるとヤツは理解している為、その余裕を続けられるのだ。

 その様子を見ればリッパーにとって僕を殺すタイミングは何度もあったはずだと納得もいく。

 飛行機の中に居る時から既にヤツのテリトリーに入り込んでいて僕が察知する前に全てを終わらせることができた。宮殿の用意した飛行機であっても中に何人か監視或いは戦闘員を用意していたはずだ。

 しかし、ヤツはそれをしなかった。

 僕の力をまだ把握できていないから慎重なのか、僕にはまだ生かす価値があるからなのか理由を挙げればどれもソレである様に感じる。

 理由が何であれ僕の倒すべき男は目の前に居るがこのチャンスをなんとかモノにできないか……だが、ホムラさんに貰ったスイッチ、知性を持つバケモノや目の前に居るリッパーと遭遇した時に押すよう義務付けられたコレは流石に圏外のはずだ。

 では誰かを呼ぶ?誰を呼べばいい、誰がヤツと戦えるというのだ。

 結局のところ僕には戦うことも逃げることすらも許されない状況、無為無能とはこういう状況のことを言うのか……。


「さて、ウッド……単刀直入に私はキミに一目置いているんだよ」

「は?」

「私の計画はどういうわけかキミの出現と共に色々と狂い始めている。なぜキミの出現に誰も気が付かなかったのか、たぶんこの世界に存在する世界樹にとってもキミの存在は予想外だ」


 「この世界に存在する世界樹」この言葉だけに僕は頭をフル回転させて言葉を選ばなければいけない。

 世界樹が複数存在することをヤツは知っているのか、世界が複数に分岐していることを知っているのか、はたまた何も知らないのか……。場合によっては僕の言葉一つでヤツがまた一つ世界樹に近づいてしまう。


「へぇ……。僕は特別なんだ」


 僕の言葉にリッパーは神妙な面持ちに戻り話を続ける。


「世界樹以外の知識をキミは持っていないんじゃないか?」

「なぜそう言い切れる」

「でなければこんな回りくどいことはしない。キミは世界樹だけを知ろうとするから世界樹に近づけないんだよ」


 世界樹を知ろうとするから世界樹に近づけない。矛盾した言葉だったが、なかなか的を得ているようにも思えた。

 いつも世界樹はヤツの方から僕の前に現れて知識を与え去っていく。それはまるで台風のように……。


「天気が悪くなってきたな……なんだか不吉なことでも起こりそうだ」


 リッパーの言う通りテラスから見える海側の雲行きが怪しくなり始めた。轟々と轟き始めた雷を生む黒く厚い雲がこちらに向かってゆっくりと近づいているようにも見える。


 ああ……そうか。


「私はキミとは違い世界樹を知っているが、キミは私と違って世界樹に触れることができた……」


 この島では不吉な気象現象なのか街中で何かを訴える声が聞こえ始めた。

 「神の怒りだ」と悲鳴をあげる女の声や「子供を隠せ」と叫ぶ男の声。


「アンタは戦わないと言った……確かにアンタは戦わないようだな」

「約束通りだろう?私は近道を見つけたのだ……世界樹に触れる為の鍵がここにある。これをチャンスと言わずなんという」

「無関係な人を巻き込むのになんとも思わないのか……アンタがこの島の王様なんだろ?」

「キミは蹴り飛ばした石ころに謝罪をしたことがあるのか……?私はないな」


 立ち上がったリッパーの方へ顔を向けるとヤツの左目の碧眼が自らの力で光輝いていた。深紅の瞳と碧眼を持つ男、僕ら能力者とヤツではどう違うのか?

 そして地中から上がってくるヤツらの足音……重たい足取りは200㎏を支える太い丸太のような足を動かしている音だが規則的にきっちりと統一された音だった。だが、唸り声はひどく雑音のようにそれぞれがバラバラでヤツら唯一の個性であるかのようだ。

 ソレは段々とこの島に近づいている。

 本当に卑怯なことをする……関係のない人間を巻き込んででも目的を果たすその意志だけはよく伝わった。

 守らなければいけない存在が居るってのはタツキに乗り移ったバケモノと戦った時によくわかった。

 だから僕は命の価値に優劣を付けさせてもらう。


「アレが彼女たちを狙うというなら僕も宣言通りやらせてもらうよ……」


 リッパーがテーブルを離れたと同時に床を突き破って出現した無数の植物は建物を破壊しながらヤツを追跡する。


「やっぱり偽物か……」


 ソラは瞬時にリッパーがこの場に居ないことを理解する。だが、彼は敵の能力の正体を知ることと牽制も込めて相手になることを決めた。

 突如建物を破壊しながら現れどの位置に居ても視認できるまでに成長し、空中を浮遊し逃げる一人の男を追いかける大樹の根を見た島の住民は恐怖する。

 ただ現れた植物に驚いたのではない、その光景は島に古くから伝わる伝説である厄災の物語の通りであったからだ。


『雷鳴が海よりやりくるとき大地呻きあげ大樹がそのさまを現す。神の使いは四ツ目の物の怪となりて子攫ひ食ひ殺す鬼引きぐし島を襲ふ。鬼は人に人は鬼なりき。』


 その厄災物語は伝説であったがいずれ起こる予言の書でもあった。だからその状況に恐怖する。

 人の語知らぬバケモノは雷鳴に呼び出されたようその姿を海の中から現した。

 蒸気を放出し海の水を沸騰させるバケモノたちの腕にはその太い腕に合わせた頑丈な手錠がはめられ、足にも地面に引きずった跡ができるほどの質量を持った鉄球が繋がれていた。

 それだけでヤツらを拘束できるのか、人間につければ身動き一つできない拘束具であったがヤツらはソレによって大人しかった。ただ、大人しいだけであって戦意を見せないわけではない街中に侵入してきたヤツらは人々に牙を見せつけ低く唸る。

 その光景はまさに百鬼夜行であった。

 バケモノはまだ人を襲っていいという命令を私から受けていない。

 バケモノはその命令まで大人しく主である私に従う。


「私はキミの戦い方を知っている……その初撃さえ外れてしまったらキミの能力は無能となる。私を掴んで圧死させなければ私を倒す決定打となる力は無いのだから……さて、次はどうするのかな」


 安全圏まで下がることに成功したリッパーは次のソラの行動に興味を持っていた。

 彼は現在独断で島へ出向きわざわざ敵の前に姿を現した。

 これは本来の予定には存在しないことで先刻彼の言った通りソラの出現によって全ての計画が狂い始めていたのだ。

 人形を代わりに飛ばし追跡する植物を躱しながら次の行動を予測する彼は楽しんでいた。

 隙だらけなウッドに何度も攻撃を仕掛けることができる。今も攻めようと思えば自分から攻撃に仕掛ける予定だった。ソレは難しくない事であったが、しかしソレを許さない何者かがまたもこの世界に干渉してきていた。

 四ツ目の怪物、厄災物語通りヤツはこの世界にまた帰ってこようとしている。ソレは器とする少年の体を守り彼に攻撃しようものなら逆に噛みつかれてしまうような気配までも放っていた。

 ゾクゾクする。

 しかし、怪物とは違い少年の攻撃は単調なモノで全て簡単に避けられた。

 植物からまた植物が生まれリッパーを追跡するがどれも空振り決定打となる攻撃は無い。作戦を変更したのか彼から空を奪い取る天井を島中に張り巡らせ始めたが、リッパーにとっては空が無くても島から脱出する方法はいくつもある。

 それに彼は兵器というべきモノを沢山引き連れてきていた。

 リッパーは能力者ではなく島に出現した個性を持たぬバケモノたちをソラにぶつけるつもりであった。

 普通の能力者なら一体でも苦労するバケモノを一斉に一人の少年に向けて動かすなんて初めての経験であった。

 だから彼は内心操れるようになった玩具を手に入れ子供のようにはしゃいでいたのだ。

 しかし、彼はこの単調な戦いに違和感を感じる。ソラの戦い方への違和感だ。

 何かがおかしい……何かを狙っているのか?

 彼の嫌な予感は見事的中する。彼は力を使用しようやくウッドの姿を見失っていたことに気が付く。

 彼は人の形を模した木製人形を残し二人の下へ向かったようだ。


「予想外だ……時期的に力を得たのはほんの数か月と言うのに」


 彼は予想以上の成長を見せた少年に対して敬意を込めて島に上陸したバケモノ全てに命令を出す。


―この島に住まう住民を皆殺しにせよ


 その命令がバケモノのアンテナの様な角の先端神経から脳へ伝播するとヤツらは一斉に動き出した。

 対象はカレンアルナート一人でも良かったのだが、それでは楽しくない。人々からの評価が二分される少年の行動はどちらを優先するのかを知りたかった。

 罪なき島の住民かそれとも重要人物か……だが、先程の反応からすればウッドがこの島の住民を優先するようには思えない。

 しかし、無意識のうちに生命の死を実感し憤慨する彼にその強がりは継続できるのだろうか。


「これは計画の第一段階だ……ここで死ぬんじゃないよウッドくん」



 島中でバケモノの咆哮が轟き住民は悲鳴をあげながらヤツらから逃げ始めていた。だが、こんな島でどこに逃げると言うのか。

 カレンは焦ることなく優雅に日傘を差してメイドの切り開く道を毅然とした足取りで逃げ惑う住民とは逆方向に向かっていた。

 それに意味はない。ただ、人が沢山向かうところへ行っても助かるわけではないので自由に歩いているのだ。幸い彼女はバケモノに出くわしてもクロエが何とかすることができる。実際に今、一体倒したところだ。


「お嬢様……避難するなら島のお屋敷に」

「私が安全な場所に居たら示しがつかないわ……それに待っていればセナが来る」

「ソラさんは何かと戦っているのでは?植物の天井が島を覆おうとしていますし……」

「それでも英雄のセナは絶対に来る」


 彼女が呼ぶ英雄セナとはこの島でのソラが使う偽名である。

 彼女は英雄の名を借りた少年が必ず自分たちの下へ来てくれると確信していた。その自信は信頼からくるものなのか、はたまたその英雄がそうであったからなのかヒーローは必ず困った人たちを助けてくれると信じている。

 しかし、クロエは現在ソラが戦っている相手の脅威をヒシヒシと感じている為、カレンとは正反対の反応を示す。


「しかし、お嬢様……守られるべき人間がこう前線に出られては彼も守ることができません」


 彼女は幼いころから磨いてきた戦闘のスキルを発揮してカレンとの会話中にも襲い掛かってきた得体のしれないバケモノを次々と倒していく。

 東大陸王の身辺警護を主とする組織の隊長は彼女を『魔獣』と評していた。獣の様な鋭い勘と躊躇ない判断能力、そして主に対する忠誠は生まれたときからその遺伝子に刻み込まれていたものに違いない。そう評価する者が居るようにバケモノの弱点である核を破壊すれば倒せるなどと言った基本情報を知らない彼女であったが、当たり前のように敵を破壊していく。

 涼しい表情で敵を倒す彼女が居れば誰もがカレンのように平生を保っていることができる。安心感が違う。


「クロエ……何かくる気配を感じない?セナではない……でも彼にそっくりな気配」

「え?」


 突然自分を超える気配の察知能力が目覚めた主君に対して素の反応をしていた。

 だが、彼女はカレンの感じるソラに似た気配と言うモノを感じてはいない。それどころか周りの気配は全て敵であり、味方であるソラに対しても突然目の前に現れれば一発蹴りを入れてしまうかもしれない状況であった。

 そんな中で彼女はソラの様な気配を感じると言ったのだ。


「お嬢様、本当に感じたのですか?」

「ええ……彼にそっくりな気配を」


 自分の仕える神のように尊き御方がそう言ったのであれば賭けるしかない。彼女はカレンの指さす場所を目指し、その導きを邪魔するバケモノをただひたすらに倒していった。

 だが、いくら魔獣と評される彼女もその正体は人間でそして一人の女性だ。無限の体力は持ち合わせてはおらず、その戦いからキレがなくなり始めていた。

 その様子を見てカレンも何度か休むことを提案するが彼女は止まることは無かった。この場で止まっていればバケモノに囲まれて圧倒的不利な状況になるのだから、主の言葉を信じ進んだ彼女は戦わなければいけない。

 バケモノを7体目と一般能力者ですら手こずる数を倒した彼女はもう限界がきていた。


『ウガラァァァ!』


 バケモノの動きも次第に素早く見えてきて反応ができずその大ぶりのパンチをもろに受けてしまった。

 体の内部で響く骨の砕ける音を聞きながらカウンターの鋭い蹴りを入れる。槍の一突きの様な蹴りはバケモノの顔面を破壊した。

 汚い叫び声をあげながら後ろに倒れるバケモノを横目に彼女たちはとにかく走り続ける。


「お嬢様!気配はこっちなのですか?」

「動かなくてもいいかもしれない……私たちが行かなくても彼の方から来てくれる」


 建物の中に避難し警戒する中で、彼女の胸元にぶら下がったペンダントは光輝き道を示すかのように一線の光をどこかに向けている。

 クロエはその光の正体を聞こうとするがバケモノの邪魔が入って聞くことができなかった。


「まずい……建物の中に入ったのは選択ミスでしたね」


 彼女らの入ったその広い建物は既に生きる希望をなくし、避難することを諦めたこの島の住民たちがその身を寄り添わせて絶望の時を過ごす言わば棺桶の様な場所であった。

 すすり泣く声が一つや二つではなく平屋のこの建物自体が泣いているようにソレは連鎖的に人の感情を支配している。


「クロエ……建物の周りにヤツらは?」

「勘ですけどざっと5……6、8ですね」


 囲まれたという事実を汗は流しているものの平生を保ち報告するクロエは流石だと改めて彼女を尊敬し直す。

 幸いクロエの言う通りヤツらは建物を囲ってはいたもののこちらに興味を持っていない様子であったが、少しでも大きな音を立てればヤツらは一斉に襲い掛かってくるかもしれない。彼らのすすり泣く声がヤツらに届いていなくて良かったと思うのと同時に、ここに居る島の住民全てを救えないという結果が頭を過りひどい吐き気を感じた。


「怖い……怖いよ」

「静かにしなさい……!死にたくなかったらここに居るのよ」


 まだ小さな子だった。

 この状況を理解できずとも本能が恐怖を感じ今にも泣きだしそうになっていた。

 なんで私はここに来たの……?

 誰かに呼ばれたような気がしたんだ。私を世界樹が導いてここまで来たんだ。

 貴方はこの光景を見せたかったの?


「お嬢様……?」


 彼女は私の変化に気が付き声を掛けてくれたが、私はこんな所で彼女の意識を逸らさせてはいけない。

 外では島を覆うように成長した植物が見えるようにソラが誰かと戦っている。ここではクロエが私の為に戦っている。

 じゃあ私は……?

 私は今回も守られる人間でいいの?

 違うでしょ……世界樹と約束したじゃない。人を導く手助けをするって。


「大丈夫……怖くない。きっとまた安全で楽しい明日が来るよ」


 私はその子に向けて不器用で下手な笑顔を見せてそう言った。

 無責任なことを言ったもんだ……。

 私はソラとクロエと違って戦えないのに大丈夫だなんて責任の持てないことを口走ってしまった。

 だが、この建物に居る避難民は私の声を知っている。その声の主、私が誰なのかも知っている。

 私の声が彼らに届いたとき絶望が希望へと変わった。


「アルナート様!私たちに救いの道を示しに来てくださったのですか!?」

「我々はこれからどうなるのですか!」

「神の恵みを我らは受けられる!」


 これはマズイ……。そんなに大きな声を出したら。


「みなさん落ち着いてください!大声を出したら外の――」

「全員伏せて!」


 クロエの部屋中に響き渡るその声と同時にこの建物を守っていた扉が打ち破られた。

 破片をまき散らし煙を上げて侵入してきたバケモノは唸り声をあげて住民一人一人の顔を睨みつける。選別なのだろうか、どれから先に襲うかを選んでいるようにも見えるその時間は避難民にとって生きた心地はしない。

 刹那、耐えきれなくなった一人の女性が悲鳴をあげながら建物の外へと逃げ出そうとした。

 その最初の行動はやがて他の避難民にも連鎖し建物の中でパニックが発生する。逃げ出そうと押し合いへし合い混乱が広がりソレを見てバケモノは笑う。

 やがてバケモノは逃げ惑う人々の中からお気に入りを見つけ飛び掛かる。


「ダメ!」


 そんなことをバケモノに言ったって無駄なことはわかっているが咄嗟に出た声は避難民の悲鳴にかき消されてしまった。

 だが、飛び掛かったバケモノの体は宙を浮き壁に新しい穴を作った。

 バケモノが飛び掛かった先にはしゃがみ込んで片足を抑え住民を助けたクロエの姿があった。

 彼女は私の命令なしで自分の判断で避難民を助けたが最後の力を使い果たしたのかぐったりとしている。


「クロエ!もう休んで!」


 だが、彼女は外に飛び出しバケモノにトドメを刺そうとするも負傷した足などを庇って思うように動けていない。

 そして最悪なことは続けてやってくる。

 建物の騒ぎを嗅ぎつけたバケモノが数体侵入してきたのだ。


「嘘……。嘘でしょ」


 ヤツらは既に外へ逃げ出した避難民の動かなくなった体を引きずって、口には持ち主不明の腕を咥えていた。

 もう最悪だ……。クロエを助けなければいけないし、バケモノから安全に避難民を誘導しなければいけない。

 私にどれができるの?

 私に何ができるの?

 その自問は今まで築き上げてきた自己を否定するのには簡単な言葉だ。

 私はここから逃げたっていい。誰もソレを否定しないし、クロエの言った通り私は本来守られる存在。こんな最前線に居ること自体可笑しなことなのよ……。

 そうよ……。みんなを置いて逃げなさい。


「カレン様!お逃げください!」

「姫様の為に道を開けろ!安全な方にだ!」


 逃げるなんてできるわけがない!


「やいバケモノ!アンタたちのボスはいったい誰?誰だっていい……私をボスの所へ連れて行けば昇格できるでしょうね!」


 何を言っているんだろう私は……。

 完全にシラフではない私は私を思って安全な所へ案内しようとする島の住民の手を振りほどきヤツらを挑発しながら建物の外へと駆け出した。

 スカートとヒールで走りずらいったらありゃしない。みっともなくヒールを脱ぎ捨てて裸足で走って逃げる。

 バケモノたちは彼女の挑発を一つも理解していないが逃げる獲物を追いかける野生の本能が彼女を優先し、そして狩りを楽しんでいた。

 全員で一斉に追いかけない。獲物を疲弊するのを待つ。


「どうした!かかってこいゲテモノ集団!そこに居る人たちより私は偉いんだぞ!」


 クロエも凄い顔して見ていたわ……。ごめんねいつも我が儘言ってて。

 でも今は最高に気持ちがいい……!誰かのために私は生きているんだ。

 足の裏が切れても肺が締め付けられるように痛くなろうと彼女の脳が決してアクセルから足を放さない。今の彼女にブレーキは存在しない、低能な馬鹿者が避難民から全て離れ自分を追いかけている間は止まっちゃいけない。

 止まったら最後ヤツらは私を殺してみんなを狙う!


「私も命を懸けて戦ってるんだ!」


 とにかく走り続け500m……公務で毎日座っているおかげで彼女はもう体力が限界だった。威勢の割に進まない距離だったがバケモノは彼女を追い込み漁の如く建物上から狭い道へと追い込み始めていた。

 ああ、もうだめ……凄く疲れた……。

 そんな疲弊しきった彼女の目の前に人影が一つ、道路のど真ん中にポツンと存在した。

 逃げている様子も慌てている様子もなく何かを待っているように……。そしてその人から感じる気配は彼女がここまで追ってきた優しく温かい気配。

 彼だ……。


「お疲れお姫様……」


 見慣れない男が彼女の横を通り過ぎて行ったと同時に彼女は力尽き頭から地面にダイブする。

 バケモノたちはソレを待っていたかのように一斉に建物の屋根の上など四方八方からカレンとそして謎の男に向かって襲い掛かる。


「お嬢様!チィッ……邪魔をするな!」


 クロエが今から走っても間に合わないことは彼女も分かっているが、遺伝子に刻み込まれたカレンを守るという彼女の意志によって体は彼女の下へ走り始める。

 だが、島に上陸したバケモノは数が一向に減ることがないどころか瞬く間に避難してきた建物を中心に集結していた。当然、彼女の目の前に何体も立ちはだかりカレンの下に行くことも許されない状況だ。

 一体ずつ丁寧に倒していてはキリがない。彼女の戦闘は粗々しくなり始め倒し損ねも増え始めた。

 前へ進まなければ守れない!また大切な存在を失ってしまう!

 前へ進もうとするクロエであったが倒し損ねたバケモノの最期の一撃、投げつけられたバケモノの角が太ももを貫通した。

 アドレナリンが彼女の体を支配していても動かなくなった足を動かすまでの力は発揮されなかった。地面に片足を引きずりながら動き続ける獣の息の根をどうやって止めようか考えるバケモノは悪魔の名に相応しい悪魔の形相をしている。

 避難民なんてバケモノにとっては後からでも問題ない、逃げたところで捕まえることは簡単であったが、目の前の魔獣だけは殺さなければ面倒になるとわかっている。   優先順位は間違いなく彼女が優先だ。

 バケモノたちは見ているだけで不快になる不気味な笑み、顔に入ったヒビを広げながらニタニタと笑いながら彼女に近づく。不規則に響く足音が振動が地面を伝って近づいてくるのに彼女は死を覚悟する。

 足を負傷し、内蔵も砕けた骨が食い込み機能停止しているのが触るだけで分かった。

 彼女は死を恐れることはない彼女が恐れるのは自分の慕うカレン・アルナートが居なくなることだ。


「ああ、お嬢様……こんな状況では約束が守れないかもしれませんね。最後にまた一度あなたの笑顔が見たかった……」

「こんな所で今生の別れを告げるのはよしてくれ……それを彼女は望んでいるのか?」


 刹那、彼女を囲うように近づいてきたバケモノの内、一体が何かを吐き出すような音と共に口から体中の穴からヒビから植物の根を吐き出して突然破裂する。


「彼女はキミの死を望んでいないし……僕はキミを死なせない為にここへ来ることを優先したんだ」


 破裂したバケモノの背後から現れたのは深紅の瞳を持った白髪の少年。

 彼の声は心地がいいほど透き通って私の鼓膜を優しく振動させる。

 初めて感じる安心感に私は冷静さを取り戻すことができ、最終手段として残しておいた彼女を出すことがなくて助かった。

 この状況をひっくり返すことのできる人物の登場に安堵するが、彼女は疑問に思うことが一つある。それはお嬢様の方に居た彼は誰なのかと言うことだ。


「さて、お姫様が頑張ってくれたおかげで俺は戦いやすくなった。感謝します」


 カレンを抱えたその男は右目を透き通ったコバルトブルーに染め上げて能力を使用する。

 それはソラと同じく生態系を破壊することが可能なほどに強力な力だった。


「水龍の誓い。なぎさ

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