第21話

「…………ッ!?シャドー!」


 彼は僕の呼びかけに応じて背中から例の黒い霧を発生させた。瞬時の判断で僕は無意識のうちに二人を抱きかかえ床に伏せることを選んだ。

 同時にエレベーターから噴き出した炎に僕らは飲み込まれる。

 僕はここに来るまでにすれ違った人間の顔を全て記憶していた。彼らの内何人が炎に包み込まれたのか考えたくはなかったが、意識の外に彼らを追い出すことはできなかった。

 僕はまた救えなかった。

 そして、僕の耳が情けなく悲鳴をあげているなか、彼女の声がハッキリと聞こえる。


「ウッドさん!お嬢様が」


 僕が三人の中で一番大きくて助かった。二人はすっぽりと僕、いやシャドーの出した黒い煙に隠れられて命は守られた。しかし、アルナートのお嬢さんは耳から血を流し気絶している。


「大丈夫です……。軽い脳震盪と片耳の鼓膜にダメージってところですね」


 僕は自分でも驚くほどに落ち着いていた。冷静に周囲を見て次に何すれば良いのかを理解している。

 僕は二人を抱えて走り出す。クロエさんは右肩を怪我していたが、僕の目的をすぐに理解して他の攻撃がないか警戒をする。何もない長い廊下を走るが、まだ一般人に扮した敵が混じっている可能性がある、彼女の行動は正しかった。

 崩れた天井の瓦礫に挟まれ助けを求める声が聞こえたが、僕はその声を無視してとにかく走る。

 今はお嬢さんの命が最優先だ……認めてはいけないと思っていたが、ホムラさんの言う通りこの仕事には優先順位が存在する。僕はそれを飲み込まなければいけない。


「クロエさん、このまま直進すれば池がありますよね……?」

「ええ、窓から飛び降りれば……窓、割りましょうか?」

「頼みます」


 彼女は手に持っていた刃物を数本窓に投げつけると見事、窓は木っ端みじんに破壊され飛び込むサイズの穴ができあがった。

 例え炎が燃え広がっても下まで降りるくらい時間に余裕はあっただろう。ここで宮殿の三階から飛び降りる必要はなかったと思える。だが、相手が手練れの傭兵集団だというなら……とっくに察知され既に失敗していた作戦を強行しているヤツらが一つしか手段を用意していない可能性は低い。

 僕らを一撃で葬れていなかったと予想してもう一つ保険を使用するはずだ。

 僕はまたシャドーの発生させたガス状、いや今は固体となって掴めるようになったマントで二人を包み窓から脱出する。

 三階の窓から飛び降りたその瞬間、一階二階と一般開放スペースが次々に爆発した。

 もしあのとき、人を助けていたり下の階に逃げることを選択していたらお嬢さんだけでなく自分までが死んでいただろう。

 爆発から助かったのは良かったのだが、ここにきて一番重要なことに気が付く。

 僕は泳げないのだ。



 その爆発は分厚い強化ガラスでできた特別軍事専用会議室の窓を揺らした。天井から降り注ぐ埃は長い円形のテーブルを汚すが、砲撃にも耐え得るシェルターであった会議室であったため四人が意外に落ち着いている。

 だが、それは自分たちの身は安全であることに対してであり、今起きたことに動揺していなかったわけではない。

 大陸の警備を信頼しすぎた自分にロムは静かに舌打ちをする。


「ジードを置いておくべきでしたね……」

「いや、私自身ここまで大陸の警備が緩いとは思っていなかった。私は公安特科にしか触れられない身、他の部がどうなっているかなんて知らなかったが……これはがっかりだよ」


 濛々と煙が立ちこめる爆発事故現場の方角を見て彼はため息をつく。宮殿内はこの異常事態に対応するのに手がいっぱいでどこも大忙しだった。


「報告です!宮殿南棟解放スペースで爆発あり、負傷者の数などは現在確認中です!」

「犯人らしき人物は」

「い、いえまだ……確認はできていません」


 情報を伝えに来た大陸の兵士であったが、初めての経験に動揺している様子だった。学生のウッドでももっと落ち着いた対応ができるとロムは確信していて、お嬢さんと一笑に居るであろうウッドの行動に期待する。

 しかし、このような事件には慣れたくないモノだ。

 一切動じず冷静に自分の判断を待つ部下の二人を見てそう思った。

 二人の表情に報告の兵士のような焦りはなく、「起こるべくして起こったなら次はどうする」といったある意味でロムを試すような視線だ。自分は信頼されているのか疑われているのかわからないが、やることは既に予定にいれている。


「では、特科は出動させていただきます。今月のボーナスの件……考えておいてください、とモモカ殿に……」

「頼んだよロム……」

「サワベ!いつでも戦える準備をして宮殿の北側、貴族共の住処の警戒に当たれ。ジード!宮殿の屋根から不審な動きはないか、範囲は3㎞だ。蟻一匹でも様子がおかしいなら私に報告だ」

「了解!」



 なんて重要なことを忘れていたんだ僕は……素潜りはできても泳げない。藻掻けば藻掻くほど沈んでいく僕の体は広さも深さも学校のプール数十倍に値する池に沈んでいく。傭兵の死体を回収するときはシャドーを船に固定してなんとか上がれたが、今はシャドーでお嬢さんを守っている。

 酸素も足りない、では一体どうするか。そんなことを考えていたら僕はいつの間にか気絶していた。

 そして目が覚めると池の浅いところで寝っ転がっていた。僕が大事に胸元で抱いているのは髪も着ていた服も濡れたカレンお嬢さんだけでクロエさんの姿が見えない。


「よう、目ぇ覚めたのか……ガキンちょ」

「お、お前は」


 それは濡れたメイド服を乾かしているクロエさんで間違いなかったが、おしとやかな方ではなかった。病院で会った口調の荒い喫煙者の方だ。


「なんだよ、お前を助けてやったのはこのアタシだ。礼の一つも言えないのか?」

「感謝はするけど……クロエさんでいいのか?」

「はぁ?アタシ以外に違うクロエなんて居るのかよ。アタシはクロエ・キルアイだ」


 何を言っているかわからないのはお互い様であった。口調の違う二重人格を見ているソラからすれば違和感しかないが、クロエからはその質問の意味がわからなかった。

 何から聞けばいいのか、それとも聞かなければいいのか。


「クロエさん……好きな絵ってなに?」

「こんなときに何言ってんだ?アタシは絵になんざ興味ない、あるのはバラバラになった人の四肢で描かれるアートだけだ。権力者がギロチンにかけられるところを描いた絵は嫌いじゃない」


 クロエにもう一つ人格が存在することをソラはこのとき確信した。絵画が好きだと言ったクロエと別の人格は乱暴者だ。


「チッ……またライターと煙草どこかに置いてきたのか」

「なあこれなんで爆発したかわかるか?」

「ああ?誰かが調理ミスしたんだろ。誰にだってミスはある」


 彼女はなぜ宮殿で爆発が起きたのかを分かっていないのが何よりの証拠だ。目の前で爆発を目撃して何も知らないは不自然で別人であると考えた方がいい。

 自分の着ていた服を乾かしながら彼女は煙草とライターを探しているし、僕は小柄な大陸のお姫様をいつまでも抱いていた。変な状況だった。


「ハッ!?私何を……?お嬢様ウッドさん大丈夫ですか!?」

「大丈夫ですけどクロエさんは?」

「…………もしかして見てました?なんか私、違う人間みたいになっていたり」

「な、なっていたと言えばなっていたんですけど…………」

「あぁぁ……ああ、私また彼女を抑えられなかった。恥ずかしい……」


 少し取り乱していたが、彼女はいつの間にかメイドのクロエに戻っていた。口調も仕草も可愛らしい、僕はこっちの彼女の方が好みだ。落ち着いてるしね……。


「それより、あのウッドさん……いつまでお嬢様を抱きかかえているおつもりですか?」

「え?あ、あぁ……おはようございますお嬢さん」


 突如目が覚めたカレンお嬢さんの拳が僕の顎を粉砕する。ここ最近で受けたパンチの中で一番痛かった。鋭く美しいストレートに僕は感心する。

 正直僕は嬉しかった。大陸のお姫様からと気絶やパンチを喰らうことなんて普通の人間にはできない、多分僕は最初で最後の人間なのかもしれない。


「クロエ、状況は?宮殿は派手に壊されてしまったようだけど」

「それよりも乾いた私の服に着替えてください。風邪をひいてしまいますよ」

「いいわよ。それよりもウッド……ありがと」

「僕はこれが仕事なんで……」


 いやな返しだったがこれでいい。

 僕は体中のあちこちの傷が開いたことでその場から動けないことを悟られないように平生を装う。爆発から彼女たちを守るためにいくつか壁の破片が突き刺さっていたが、それも植物によって抜き取り止血を行っている最中であった。これがとにかく痛い、想像できない痛みに耐えることとなる。

 それよりも連絡はまだなのか?さすがにあの爆発に気が付かないことは無いだろうが、ロムさんたちから連絡が一つも入らないのはおかしい。


『ウッド……聞こえるか?ウッド―』


 ポケットの中で何とか音を出す無線を取り出し、雑音に紛れるロムさんの声を必死に聞くこととなった。水没や強い衝撃によって僕の無線は良く壊れるから仕方ないのだが、もっといいのを提供してほしいモノだ。


「こちらウッド……どうぞ」

『おお、生きていたか……良かった良かった。お嬢さんは生きているな?』

「ええ、すごく元気ですよ」

『よくやった。では時間が無くすぐに本題へ入ってしまうのだが、私たちは犯人の捜索を開始した。ウッド、何か見なかったか?』


 やはり慣れている分こういうときに何をすればいいのかわかっている、彼らは行動が速かった。無線で会話する僕に近づいてきたクロエさんが無線を取り上げ何やら情報を渡す。

 それは僕が最後にあの場所で衝突したメイドのことだった。


「お久しぶりですロムさん。情報は正確なのが欲しいと思いますが、私の持っているモノはまだ仮説。それでもよろしいですか?」

『何でもいい……』

「初めて見るメイドでした。私、顔を覚えるのは得意なんですけど、彼女初めて見た……犯人は女性ですね』


 犯人は宮殿のメイドに紛れた女性、それなら上手く紛れることも宮殿内を動き回ることもできる。仮説であっても絞り出すには十分な情報であった。


「おいジード、犯人は女の可能性がある……性別を絞れ」

「了解」


 ロムの命令でジードはすぐさま女の気配を探る。彼の作り出した領域内での生命による活動はスローモーションとなり、2㎞という広大な範囲で一人の不自然な動きをする女に向けた。

 やはり、そこまで遠くへは行っていない、怪我をしている。左腕から流れる血液が宮殿から彼女の下まで痕跡として残っていた。


「遠くまでは行ってません」

「ああ、私も見つけたよ血の匂いをな……」


 彼が見つけると同時にロムも女の流す血の匂いを嗅ぎつけていた。



「に、任務完了です……護衛とメイドが居たおかげで姫様の誘拐は失敗しましたが、全てを破壊することには成功しました……少々爆発が多く感じられましたが」

『負傷は……?』

「左腕を少し……しかし、この程度の傷なら前回の北大陸での内戦で負った怪我よりは軽症です……」


 女は爆発の瞬間、飛散した宮殿の破片によって左腕を負傷していたが足を怪我していなかったことに感謝する。彼女にとって足さえあれば戦えたし、逃げることも可能であった。もし、追手が追いついても戦える……そう考えていた。

 だが、連絡先の男は彼女とは違う反応。これ以上は戦えない、その場から動くなと言う反応であった。


『なんてこったい……その場から絶対に動くな。呼吸もするな……警戒が解けるまでその場から動くんじゃない。動くなら死ぬ気で人混みに紛れろ』

「動くなとは……?」

『お前は見つかった……ということだ』


 女は宮殿の敷地内に存在する林の中で息を潜め敵を待つ。呼吸を控え、瞬きすらも忘れるほどにその殺気を敏感に感じ取っていたからである。

 急速に近づくソレは私に気が付いて遊んでいるのか、それとも私最後の時間を過ごさせてやろうという慈悲なのだろうか。

 林の中に霧が発生する。それは私を飲み込むと外界の音や光、喧噪すらも通さない異様なモノだった。

 私は今度こそ呼吸を捨て敵が遠ざかるのを待った。

 敵は手に持つステッキらしきモノを一定の間隔で打ち鳴らし、自分の存在をわざわざ知らせる。不気味を通り越した恐怖は研ぎ澄まされた彼女の聴覚が敏感に感じ取っていた。


「出ておいで……私は狼ではない、キミを食べたりはしない」


 尾行もなかった、気配も完全に消していた。

 音をたてず急いで木の裏に隠れるが、その木は丁度彼女の頭スレスレを切られゆっくりと横に倒れた。

 そのとき、彼女はどこに隠れようと逃げようと敵の目から逃れることはできないと悟った。既に自分は敵のテリトリーの中で追い込まれた獲物だったのだ。

 ならばどうする?それは決まっていた……戦うしかない。

 唯一護身用に携帯することができた拳銃に手を掛け敵に構える。


「誰なの……動いたら撃つわよ」


 私の隠れていた木を切り倒した敵は私の位置を把握しているはずが、ヤツは私に背を向けていた。

 私が緊張感が漂うこの状況で一番恐怖を感じるのは敵が何を考えているかわからない時だ。拳銃を向けられてもヤツは振り向こうともしなければ動こうともしない。

 敵は190を優に超える長身であったが、ヒョロヒョロの体格は自分の力でも倒せると彼女は判断した。彼女も他の傭兵と同じくいくつもの戦いで死線を越えてきたが、今回もソレが通用すると思っていた。


「大人しく武器があるなら捨てなさい……でなければ撃つわよ」

「……撃つ?その小さいおもちゃで私を撃つと言うのか……?」

「ええ、本当に撃つわよ」


 すると周囲の霧はより濃く白く世界を包み込みはじめる。それは世界の収縮と表現するのがぴったりと言うほどにこの空間は完全に二人だけの世界へと変わっていた。


「どうした……引き金は引かぬのか?」

「な、なんで……なんで動かないの……!?」


 必死にトリガーに掛けた指に力を入れるがその力は空振り、力の入れ方を忘れた自分に焦りを感じる。既に彼ら能力者という名のバケモノのテリトリーに入って戦うことを選択した彼女の敗北は決定していた。

 彼女は尻餅をついてゆっくりと近づくペストマスクの男から必死に逃げようと足掻く。だが、男は止まる様子を見せず彼女に向かって一直線に歩み寄る。


「や、やめて……来ないで」

「人は何か行動を起こすとき必ず決意する。どんな小さなことでも頭の中で契約書にサインするような簡単な作業で決意してしまう。キミも同じく私を殺す、倒すと決意してしまった……」

「何を言っているの……」


 ペストマスクの男は近づけばその身長の高さに気づかされる。

 まるで巨人だ。そして私はその巨人に胸ぐらを掴まれ軽々と持ち上げられる。大きな手と握力に捕まれ、細い腕で私の体重を持ち上げられると私は身動きが取れなくなっていた。抵抗を忘れ脱力した四肢は空中で伸びきり生きることを諦めた。


「久しいなハンク、貴様はまだこんな仕事をやっていたのか……」


 男は私の腰につけていたトランシーバーに向かって話しかける。彼の呼んだ名前の通り通話相手は私の所属する傭兵部隊の隊長ハンクであった。

 男が喋る度に脇腹に当たった嘴が振動するのを感じる。


『変える場所がなくなっちまったからな……俺もアンタと同じく死に場所を探しているんだよ。それよりなんだ……今回は特科キャンベラ部隊が関わっているのか、通りでこちらの行動全て読まれているわけだ』

「それはコチラのセリフでもある……貴様らと関わると碌なことがない」


 男は無線だけを奪い取ると私の体を投げ飛ばしす。私は受け身を取ってすぐに銃口をヤツに向けたが、いつの間にか背後をとられていた。動く素振りも足音もさせずに男は私の後ろに居た。


「ハンク、お前の部下だ……最後に何か言ってやれ」

『我々には掟があることをお前も分かっているはずだ。エレン、お前もわかっているだろう……?』


 薔薇の傭兵の掟、捕まれば自害せよ。いかなる状況であっても捕まれば傭兵の存在を勘づかれてしまう。だが、傭兵とはどの大陸も使用する汚れ仕事を請け負う傭兵部隊でありその存在は既に知られている。今頃知る組織はこの地上にも地下にも存在しない。

 だから困るのだ。どこの組織も知っているがゆえに恨みを買えば味方が存在しない、傭兵を守ろうとする組織は居ないからだ。

 今回も例外なくエレンと呼ばれた女もカプセルを口に放り込んだ。噛めばこの一つで人間は死ねる、死んだガンマーズ部隊のリーダーもこの毒で死んだ。

 だが、それでも彼女にはやらなければいけない敵が居た。ここで彼を倒さねば作戦が失敗になる。


「私はお前を殺して地獄に行く!私は貴様も連れて行く!」


 先刻とは違って指は自由だった。構えた拳銃のトリガーを引くと火薬が中で炸裂する音も聞こえた。

 撃てた……。

 しかし、弾は虚空を過ぎ去っていった。男の姿はなく弾はすぐに辺りを飲み込んだ見通しの悪い霧の中に消える。


「え……!?なんで、なんでなの……」


 それは怯えた声、次に死ぬのは自分だと悟った人間にしか出せない絶望に震えた声だった。

 すぐに口の中に入れたカプセルを噛まなければいけない。だが、先程漏れるように出た言葉を最後に彼女は動くことも、助けを呼ぶことも、泣き叫ぶことも、死ぬこともできなくなった。


「私を地獄に連れて行く……いい言葉だ。死ねないハンクもその言葉を聞いたら喜ぶであろう。だが、残念なことに私はキミのようなの人間には殺せない、例え私が死を求め願ってもだ」


 膝を突いた状態で動けなくなった私の目の前で男は羽織っていた黒いコートを脱ぎ捨てる。ヨレヨレになった古臭いシャツには沢山の血痕が付いていた。

 動くことができなくなった私の口からは直前に噛もうとしていたカプセルが地面に落下する。


「私もそれを噛めば死ねるのか……いや、無理であろうな」


 ロムは自分にかけられた呪いという名の運命を自らジョークに使い、そして自ら笑っていた。その光景はエレンから見ればとにかく気持ちの悪い不気味な光景であったに違いない。


「なあ!キミは私を地獄に連れて行ってくれるのだろう?!どうやって連れて行ってくれる?私が今までに屠ってきた者達の様な最期を私に提供してくれるのだろう、なあ、なあ?なあ!」

「こ、こないで……」


 必死に出た言葉は情けない一言。

 男の握力に顎を掴まれると内側からミシッミシ、と音が響く。汗が頬を流れるのを顎の先から落ちるまで感じるが、恐怖に支配されていてもなくことは許されなかった。


「さあ笑え!これが私の最後だというなら貴様も共に笑え!」


 マスクの目元、暗く染まったレンズの向こうには狂ったように瞳孔を狭めエレンを睨みつける男の瞳があった。

 自分の所属する傭兵部隊の隊長ハンクも時折、同じことを叫んでいた。彼もペストマスクと同じく狂ったように誰かを呼び、そして唾液にまみれた口元はいつしか血に染まっていた。彼が自分で自分の指や手を噛み肉を裂いていたのだ。

 最初は薬物だと思われていたが、医者に聞いても彼は薬物の形跡はなかったという。ならば考えられるのは一つ、精神的なモノだ。

 人を殺すことへの罪悪感。


「お、お前も悪魔なのか……何人、人を殺してきたのだ……」

「なぜそんなことを聞く。関係があるというのか」


 なぜ聞いたかは彼女自身わかってはいない。だが、隊長は自分を悪魔だと言っていた。人と同じ形、人の皮や声や感情をもつ悪魔だと。


「私は何なのだろうか……それを知りたいのはキミではなく私の方なのかもしれない。私自身私をよく知らない……」


 私はようやく動けるようになった体を使って男の腕を蹴り飛ばし拘束から解かれる。取り乱していた男は私の一撃によって冷静になっていたが、私は構わず何発も男に銃弾を撃ち込む。

 無我夢中であったが、先程まで感じていた恐怖は無くなっていた。怪物が相手でもヤツは人間と同じ弱さを持っていたことを知ったからだ。

 弾を撃ち尽くすまでヤツの体に向かって発砲する。

 彼女はロムの死ねないという発言を自分が強すぎる所為だという言葉に解釈して、それが比喩であると勝手に思い込んでいた。人間と同じく簡単に死ぬ生物であると錯覚していた。

 だが、何発撃とうが倒れない男の影、霧の中でまだ動くソレに彼女はまた恐怖する。


「なんで死なない!?なぜ……!」

「言ったはずだ。私は凡人には殺されない……と」


stepone教育の時間だ 刮目せよ


 その囁きが耳元に届いたとき、彼女はロムの能力に支配されていた。

 突如暗闇に飲み込まれた彼女はさっきまで見えていた景色、男の姿が消えたことに気が付かなかった。目は開けていると知っているが、瞳には光一つ入ってこない。


「どこだ……!どこだ、どこだ、どこに行った!?」


 彼女は無我夢中でリロードを行った拳銃を四方八方に撃ち込む。その流れ弾に誰が当たろうとお構いなしに撃ち込んだ。

 彼女は改めてその存在と向き合うこととなった。彼女は傭兵に入った時から覚悟していた奴を始めて知る。

 これが死ぬということだ。

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