第2話

『天国だ』


 釣りをする少女は顔をこちらに一度も向けることなくそう答えた。

 普通の人間ならここで驚くべきだ……そうであるのがというモノだろうが、生憎僕はもうリアクションに疲れた。それに僕の住んでいた世界と違う崩壊した世界を見せられて今更天国とか……逆に天国がなかった方がショックだっただろう。


「やっぱり僕は死んだの?」

『ああ、死んだ。綺麗に撃たれて痛みを感じる前に死ねたよ……あの男に感謝するんだな』


 顔を見せない女神はなにやら不機嫌そうに僕の質問に答える。あまりにも失礼な態度だが、僕は子供相手にむきになる気はない……彼女がこちらを向くまで勝手にさせてもらう。


『勝手にするのは貴様の自由だ……どこへ行ってもいいがどうせ迷子になるだけだからここに居る方が良いぞ』


 彼女は僕の心を読んでいた。

 僕が単純で態度に現れていたとかそういうのではなく、脳にざらついた不快な感覚が通り過ぎたとき彼女はさっきと変わらない無表情な態度で僕と言う客人をもてなしている。

 辺りを見回すと雄大な大地を不自然に川が一本だけ流れ、そして僕らの傍には朽ちかけた木が一本立っているだけだ。

 花畑のような心癒される景色が数百メートルに一カ所ずつ存在するだけでこれと言った特徴のない大地に僕と彼女は二人きり。何か会話をするわけでもなく彼女は釣りをして僕は自分の体に異常が出ていないか観察する。

 天国と言われたが僕はもっと明るい楽園を想像していた。もっと花が沢山咲くメルヘンなやつだ。

 だが、空は太陽どころか満月が一つ昇っているだけで、月灯り以外の光は傍にあるみすぼらしい木の前にあるアンティーク街灯だけだ。

 それより彼女はずっとこんな所で釣りを一人しているのか?


『私はアスタ、女神だ……ずっと釣りをしている女神だよ。下界にいる貴様ら人間に助けの糸を垂らしてやっているんだ……それより貴様、なんでこの道を選んだんだ?』

「この道ってどの道?」

『なぜ人を助けるなんてあの男と約束したんだ。貴様には他の道が存在するはずだ……それなのになんでまたこの道を選ぶ』


 確かに僕もらしくないと思っている。

 人を助けるどころか僕は人から何かを奪って生きてきた。

 僕は満月の大泥棒と呼ばれ警察、治安のために公安までが僕の敵だ。標的は政治家、汚い金を受け取っている人間だけとは決めてはいるもののそれが僕の今まで行ってきたことを正当化する理由にはならない。ただそこにあったのは僕以上の悪を許せない歪んだ思考と正義の味方警察が裁けない悪を僕という悪が裁くことに僕の存在意義を見出していた。

 それなのにあの崩壊した世界で男から「子供がたくさん死んでいる」と聞いただけで僕は決意を固めてしまっている。


『決意したところ水を差すようで悪いが、私はハッキリ言って貴様が人助けをするなんて向いていないと思っている』

「なんたって冷たいことを言うじゃないか」

『これはお前の為だ。いや、私が一度助けられなかったことに対しての償いなのかもしれんが、お前は包帯の男に会っただろ。彼はなんて言っていた』

「キミと同じく他の道があるって言ってた気がする」

『だろうな。私も彼に賛同するよ』


 なんだよ人がせっかく決意したのに邪魔をしやがって。


「じゃあ人が死なないために誰が戦うってんだ。崩壊したあの世界は誰が救うっていうんだ?」

『もう未来は決まったも同然、女神である私がそう言っているんだ。今頃貴様が動いたとて……』

「なんだよ僕死に損じゃないか。はぁーあ、女神って聞いたから何か僕に道を示してくれると思っていたのにここでも僕は否定されるのか……はぁーあ」

『その手には乗らない……』


 やはり神や女神ってのは僕らを導いてはくれないようだ。助けの糸を垂らしてるって言ったのは彼女のほうだ現在目の前に立つ迷える子羊一匹救えずして女神を名乗らないで欲しいモノだ……。

 頻りに僕の脳が触れられるようなざらついた感覚を覚える。彼女が僕の頭を覗いているのはずっとわかっている……ならばそれを利用しようってわけだ。陰口というのはわからないから知った時のダメージは大きい、口に出さない僕が思いつく限りの罵倒侮辱を自ら覗く彼女は次第に耳を赤く染め小刻みに震え始めた。

 どうした女神……言われっぱなしで悔しくないのか?知恵と言うのを人間に与えたというのが神ならば与えてしまった己を呪うんだな。


『…………。私は……お前より大人だ……。こんなことでッ……!こんなことでは怒らん!』

「どうした急に大声を出すなんて、顔が真っ赤だぞ?僕はなにも口にしていないのにキミに怒られるのか?」


 やっと顔を向けた彼女の顔は真っ赤に染まり涙目だ。小学生のような幼い顔に騙されて罪悪感を覚えてしまっては僕の負けだ……僕は余裕の笑みを浮かべ彼女の根負けを誘う。

 しかし、罪悪感は多少なりとも覚えてしまうのは確かだ。早く彼女が折れることを期待しているが彼女も彼女で僕の思考を覗くのをやめようとしない、恐らくこの思考も読まれているからだろう。


『私は貴様の為を思って言っているのになぜ言うことを素直に聞かない!』

「だから僕はさっき決意したんだ戦うって!願いは無いがあの木に僕の願いを叶えさせる!」


 天国にまできて怒鳴り合うとは思っていなかった。それも口喧嘩の相手が女神だ……僕はすごく貴重な体験をしているが、こんなこと二度とごめんだね。

 彼女は唇を噛んで感情を抑制しようとするが僕はそんな彼女の姿が滑稽だった。人間を作ったのが彼女みたいな神なら納得がいく、彼女ほど人間らしい仕草をする奴はみたことがない。


『願いがないのに願いを叶えさせるだ?そんな奴数百年生きる中で初めて見たわい!貴様がどの程度あの木を知るのかは私にはわからないが、あの木は貴様が考える程優しい親切なヤツではないぞ!』

「願いを叶えて終わりじゃないのか?」

『当たり前だ…………あ、あ、あぁ……』


 彼女は釣り竿を投げ捨て怒りながら近づいてきたと思ったら突如、魂の抜けた人形のように動きが止まる。透き通ったサファイアのような碧い大きな瞳から一瞬だったが色が抜けたようにも感じた。小さい額には汗がびっしょりと浮き上がっていたがソレは数秒で元通りとなる。


「ど、どうした?」

『な、なんでもない気にしないでくれ……。私は私の仕事を行う。貴様がどんな願いを叶えるかは興味ない。戦うというなら止めはしない』


 情緒の不安定な彼女の様子に困惑する僕を無視して気分の悪そうな顔で何かブツブツ呟いている。

 反対していた話の急展開に驚く暇もなく彼女は僕の手を握り何やら呪文のような僕には理解することのできない言語を呟いている。

 小さい手だった。例え女神であっても彼女の体は子供と同じで僕の手を両手を使っても包み込めていなかった。

 人間のような体温だが、程よくヒンヤリしていて気持ちがいい。


『これは契約の第一段階だ。私と貴様の主従関係を結ぶための儀式……』

「お、おい!僕はお前の奴隷になるつもりはないぞ?」

『今から貴様の住んでいた下界に送り込むために必要な儀式だ。嫌ならあの木に接近することは諦めるんだな』


 僕は渋々彼女の言う通り契約を結んだ。

 契約終了後、全身が内部から体温の上昇を感じる。今まで掛かってきた病気でもここまでの倦怠感と不快感を覚えたことは無い。

 アスタが言うには心臓に契約の印が刻み込まれているようだ。一生消えることのない主人とシモベの契り……その契約解消は命を代償としても消すことのできない呪いだった。


『私は滅多に下界へ降りられない、貴様の前に現れるときは伝言程度だと思ってくれ……。じゃあ、貴様に下界でなにが起こるのか教えてやる』


 やっと本題に入れる。案内人に出会ってから崩壊した世界でも僕はたらい回しにされて正直疲れている……この話の内容もどこまで入ってくるか不明だが、僕の住んでいた世界で何が起こっていたのかは気になる。だってなんともなかった普通の世界が一つの要素であの崩壊した世界に変わってしまうんだから。


『貴様も崩壊した世界で聞いた通りバケモノを使役するある悪魔が木を狙っている。あの木は自分の気に入った者を所有者と認めその者の願いを一つ叶えると言われている……しかし今までアレに認められた者は存在しない、木を狙う悪魔でさえ何度も失敗しているからな』

「あの木はやっぱり意思を持っているのか?」

『やっぱり?貴様アレから何か感じ取れたのか?』

「え?あ、あぁ……あの木を見たときと言うか今もだけど、あの巨大樹を考えるだけで何か脳内になだれ込むんだ。情報が……」

『情報?』


 僕は巨大樹の光を想像したときいつも同じ映像、壁画に描かれた一本の木から分かれ人間や植物、全ての生命を育む自然が生まれそしてまたあの一本の木へと戻っていく。

 万物は原初の王が作り出し、虚無は終末の王へと集約する。

 原初と終末は互いに反発し合いそして互いに引かれ合う存在であった。


『それが貴様の見た情報なのか?』

「僕もノイズのおかげで全ては見ることができないけど、ずっと頭の片隅でその言葉と壁画が現れるんだ……ってどうしたんだ?」

『え、あ……何でもない。しかし、残念ながら私の口からあの木の説明することは許されていないが、いずれ貴様も知ることとなる……。それより貴様の仕事についてだ』


 彼女は身に纏っていたワンピースのポケットから小さな古い写真を取り出す。写真は近代使われているプリントアウトされたようなモノではなく、過去の遺物と言うべきだろうかフィルム式で今じゃ完全に市場から消えたタイプの写真だった。

 そんな時代遅れのフィルムに写された人物は白髪の男……細く開かれた瞼から覗く瞳はどこかを見てはいるものの左右色が違う感情を捨て生気を失った廃人の瞳だ。


『ソイツの名はリッパー、我々の敵だ。ソイツは我々を裏切った愚か者で貴様と同じく己の願いをあのヤツに叶えさせようとしている。貴様の仕事はソイツを殺して世界を救うことだ……あとついでにバケモノ退治も』

「僕の敵は人間なのか?バケモノを倒すことはわかっていたけど人間と戦うなんて聞いてないぞ」

『神との契約を破棄した初めての人間だ……貴様と同じくこの男も死んでバケモノと戦えば一つの願いを叶えることで神との契約を成立させたが、ヤツに与えた力が突如覚醒し何も持たぬただの人間に力を付与する存在となってしまった。つまりヤツは天使を超え、我々神と女神と同等の力を持ってしまった』

「それのどこが悪いんだ?よく神話でも人間が神と同等になるなんて話沢山出てくるし、あんたら神の仕事が減って助かるじゃないか」

『貴様なぁ……考えてみろ?ヤツは旧世紀の殺人鬼ジャックザリッパーを名乗っているんだぞ?まともなヤツが仲間をつくるのとはわけが違う。ヤツは自分のように何かを変えようとするイカレたヤツらに能力を与えている……能力って言うのは持っただけで現代兵器を超える力を持っているんだぞ?』

「じゃあ危ないな」

『そう危ないんだ。神と同等の力を手に入れてしまったヤツはどこでやり方を知ったのか契約を破棄、挙句の果てにリッパーという危険なヤツを下界に送り込んだことの罰として力を奪い下界に追放された神を殺したとまで言われている』


 つまりリッパーは本気で神を超える気なのだろう。力を使い地上世界を支配したうえであの木を利用して自分の願いを叶えさせる。完璧だ……。


「能力ってのは僕にも与えられるんだよな?」

『当たり前だ。本来はバケモノ退治がお前の仕事だからな、崩壊した世界でもあの男たちはその能力によってバケモノと戦えるようになっている。人間とバケモノの差を埋めるためには必要な力だ』


 リッパーは何を望む……それが問題だ。

 人々を支配するための力は手に入れたはずではいったいこれ以上欲しいモノがあるのか?

 神を超えることもできた。


「なあリッパーの望みはなんだ?」

『…………さあな。貴様が考えているようにこれ以上ヤツが何を望むかなんて神でも女神でもわからない。残念ながらそれを知っているであろうヤツを元の世界に送ったヤツはとっくに死んでいる。お手上げだ』

「もしリッパーがあの木を利用したら……?」

『ヤツは自分の気に入った者にのみ、己を使用する者としての基準をクリアした者にのみその真の力を与えると言われている。もし、その使用者が悪しき心を持った者なら貴様の見たあの崩壊した世界……あれ以上の被害が出てもおかしくない』


 人間の肉片でできたバケモノ、子供のうめきや誰かのすすり泣く声が聞こえたあの世界……アレよりも酷い世界なんて存在するのか?存在していいのか?

 そんなのダメだ……。

 いったいそんな男に力を与えて野放しにしたのは誰だ!?墓の中に居ようが掘り起こして一発ぶん殴ってやる!

 決めた、決めたぞ……!巨大樹に願いを叶えさせる……どんな小さなことでも僕の願いはただ一つだ。男よりも先に巨大樹に辿り着く!


『貴様……願いが決まったのか?』

「頭の中を覗けるんだろ……僕の口から言わせるのか?」

『ハハッ……いい願いじゃないか。私は貴様があの男リッパーと同じ末路を辿らないことを願うよ……じゃなきゃ私も裏切者としてお前たちの世界に追放されてしまうからな。じゃあ、手を出せ力を与える』


 僕はやっと願いを見つけた。

 女神アスタに言われる通り僕は手を出す。

 契約のときと同じく彼女は目を閉じて僕には解読できない言語を呟き始める、すると握られた手を中心に光の輪が広がり螺旋状に巻き付いた鎖が僕とアスタの心臓を貫いた。痛みはない、血も出ていない……アスタも痛がる様子を見せない。

 そして呪文のようなそれを唱え終わると光の輪は強い光を放ち刹那、光を遮る瞼を開いたときには既に消滅していた。

 目の前ではホッとした様子で額を流れた汗を拭きとる少女アスタが立っているだけだった。


「終わったのか……?」

『ああ、終わったよ。さて、早速で悪いが仕事だ』


 さっきまでアスタが握っていた釣り竿が激しく何かに引っ張られている。魚影のようなモノは影としても川の水面には現れていないが、何に反応しているんだ?

 神経の末端から脳にまでざわついた何かが通り過ぎたのはそれからすぐだった。そしてどこからともなく背後に現れた壊れかけの古いラジオが音を鳴らす。


〈こちら〇〇2。こちら〇〇2。例の集団発見現在ハルベイド地区〇町に逃走中。繰り返す例の集団発見現在ハルベイド地区〇町に逃走中どぞー〉

〈了解。付近のPCとPBは〇〇地区〇町に急行せよ〉

「これは……」

『貴様もよくやっているだろ警察無線の傍受だ。そのラジオは初めて見たが全ての電波を拾っている……今、下はどうやら忙しいようだな』


 女神は川の下を覗き込むと釣り糸を揺らし始める。

 無線からは濁流のように情報が流れてくる……事件が起こったであろう場所はハルベイド地区、東大陸の北東部分約88.02㎢の広さを持つ大陸一の無法地帯だ。

 東大陸で流行する薬物の出どころの大半をこの一つの地区で占めている、これだけで治安の悪さは表現できただろう。

 人口は四万弱、しかし年間死者数はその数倍は存在した……最近になって大陸政府が主導する30年計画で『人が人らしく生きる場所にする』として開発が始まったが、そこに住む者は教育を受けているわけもなく幼いころから僕とは違い盗みを親に強要され薬物に溺れた者たちが巣食う場所だ。彼らに正しいこととは何か、悪いことをしたら人はどう思うかなどの道徳を教えたところで彼らの腹はたまらない……政府は頭を抱えていた。

 開発の為、あの世界に誕生した簡易的な地獄に入った業者は住民に襲われ機材を奪われたり作業員が人質にされるなんてことが起きるくらいだ無理はない。それで現在政府は開発の為だけに戦争をするのかと思うほどの国軍戦力を一つの地区に派遣していた。

 しかし、本来政府も触れるのを躊躇う地区であってそれ故にマフィアやヤクザ、ギャングの縄張りとなっていた。

 正直悪人も皆近づかないし、僕も一度マフィアの拠点に忍び込んで失敗したときから近づかないようにしていた。

 それだけ危ないところだというのはみんな知っている。

 こんなに必死になって警察があそこを捜査することはいままで無かった……。

 いったい例の集団ってなんだ?僕は危険な集団に該当するであろう大陸で活動するグループを記憶から探すがどれもこんなに無線が混雑する程のモノではない。

 

『残念ながらその無線の方は貴様の仕事ではい。貴様は貴様にしかできない仕事をやってもらう。まあ、やって覚えろ』



 僕の顔の前を彼女の小さな手が通過すると僕の意識は飛んだ。

 そして目覚めるといつもの世界、崩壊のない見慣れた世界だった。


「なんだ帰ってこれたのか?」


 金持ちばかりの住むマンション街に突然戻された僕は今までの自分が住んでいた場所との違いを探すが、道路わきに落ちていた古新聞を見ても違いは無かった。案内人に連れて行かれた日で時間は数時間が経過……完全に夕日が顔を隠して夜の帳が街を覆っている。

 学校から借りている家まで東に真っ直ぐのはずが、ここは学校から西側……全くの真逆、しかも政治家が沢山住んでいるというマンション街、ランドマークタワーとなるビルが見えているから間違いない。

 はやく家へ帰るかそれとも……。


「アンタって人はなんでいつもこうなの!?」


 女の怒鳴り声が聞こえた方角を見ると車が道路標識を根元から折り曲げ煙を上げていた。

 カップルは二人ともこの街に似合う良い恰好、スーツを身に纏いデートの途中か帰るところだったのだろうか?お気の毒に……。

 唯の痴話喧嘩かとその場を離れよとしたとき女は男の頬を引っ叩く、情けない姿だが殴られた男に僕は同情する。

 だが、次の瞬間。男を殴ったはずの女の方が顔色を変え悲鳴をあげながら逃げ出した。防衛本能がそうさせているのだろうハイヒールとは思えない速さで走る女、そして殴られた男はフラリフラリと体調が悪そうに体を揺らし女を追いかける。


「だ、誰か!助けて!」


 ハイヒールのヒール部分が折れた女は歩道で倒れ悲鳴をあげながら助けを呼ぶ。残念ながら僕以外に通行人は居らず、付近のマンションの住人は気が付いても巻き込まれたくないから助けに来ることは無いだろう。

 では僕は助けた方がいいのか?なんで僕が助けなければいけない?

 先に殴ったのは女の方だ。なぜ殴った方が助けを求めている?

 男は倒れて腰を抜かした女に辿り着くと細い腕を片手で掴みそのまま軽々と持ち上げる、男は長身ではあるがヒョロヒョロとしていて片腕で彼女を持ち上げられるようには見えなかった。だが、男は決してたくましいとは言えない腕で女を持ち上げもう片方の空いている手で首を絞め始めている。

 過剰防衛もいいところだ……。


「おいアンタ!確かにその女はアンタを殴ったが、そもまま殺しちまったら悪いのはアンタになるぞ!前科持ちになりたくなかったら早く女を放せ!」


 あーあ、何やってるんだか。

 僕の声が聞こえたようで男は女をまるでゴミ箱にティッシュを捨てるように茂みに捨てた。

 どうしてだか僕の心臓は意思に反して激しく脈打ち戦闘態勢に入っている。


『最初の仕事はアイツを殺すことだ』

「はぁ!?あれは人間だぞ?まさかリッパーの仲間?」

『違う……来るぞ!』


 女神がそう告げた瞬間、僕の体はトラックに跳ね飛ばされたような衝撃を受ける。

 宙を舞ったのは僕の体で世界が二転三転地面と空が何度も視界に入ってくる、そしてさっきまで立っていた位置から数メートル離れた高層マンションのフロントロビー入り口のガラスを突き破りエレベーターの扉に激突する。

 フロントロビーの照明が衝撃によって点滅している、幸運なことに誰もいないロビーで助かった。

 大理石の床が赤く染まる。体中は刺さったガラスの破片で血まみれでエレベーターに激突したときに背中を痛めてしまった。

 痛めてしまった程度で済んだのは幸運とかそういうのではなく植物のおかげだった……。


「なんだこれ?」

『言っただろ……バケモノと戦うために得た貴様の力だ。人を救う力であり人を滅ぼすこともできる危険な力……貴様は自然に愛された』


 さっきまで感じなかった何かを地中から感じる……床に耳を当ててようやく分かった生命の鼓動だ。人間のように生きる自然、植物たちの呼吸……まだ光を浴びることのないモノたちの声。


『生命の音が聞こえるか?それは貴様にしか操れぬ力だ……』

「で、敵ってのは……さっきのか」


 外れた肩の関節を治しながらマンションから出るとさっきの長身男は道路の真ん中で頭を抱えていた。

 口から唾液が飛び散りセットされた髪の毛が乱れ搔きむしられ裂けた肌から血が流れている。間違いなくヤバい雰囲気。


『よく見ていろ……バケモノとはああやって誕生する。増えすぎた負の感情を器から溢した瞬間、古代悪魔に唆され契約をさせられたお前たち人類は皆平等にああなる権利を得てしまった』

「う、うぅあぁぁ……あぁァァ……アァァァァァ!』


 男は雄叫びをあげた。声だけで建物の窓を揺らす……とんでもない肺活量だ。普通の人間ならあり得ないが、すぐに納得せざるを得なくなる。

 女神の言う通り男はもう人間ではなかった。どのタイミングで男は人間をやめてしまった、いややめさせられてしまったのだろうか?

 額を突き破って出てきた鬼の角、悪魔と言うより鬼だ。

 蹲った男の背中が変形を始め膨張した筋肉に耐えきれず着ていたスーツ、そして自らの皮膚までを切り裂いて現れた筋肉の塊。その容姿は崩壊した世界で見たネスと呼ばれていたバケモノそっくりだ。

 180程の身長が2mを超え、ひび割れた肌の奥で揺らめく炎……筋肉以外中身のなくなった体は炎によって維持され上昇した体温で口からは蒸気が漏れ出ている。


「バケモノ……なあ女神様、アイツ倒したらお金とかもらえないかな?僕今月ピンチなんだよ」

『こんなときに馬鹿なこと言うな……初めて戦う奴が気を緩めていたら死ぬぞ。ヤツは貴様を殺すことしか考えない、少しでもヤツから目を離したらさっきより痛いのがくるぞ……それと私のことはアスタと呼べ』


 警察のパトカーは一つも聞こえない。そして力のおかげで張り巡らされた植物が息を潜め必死に気配を消そうとしている付近の人間の数を感知し僕には手に取る様に彼らがどこにいるかわかる。

 戦う場所はここでいい。マンションの三階より上で戦えば被害は増えるだろうが、僕はそれ以上の高さまで到達することができないからそんな考えは排除しよう。

 バケモノは僕がヤツから目を離した隙に恐らく攻撃を仕掛けるつもりだろう……まだ一度も目を離してはいないがヤツから放たれる殺気は僕の口角を緊張で釣り上げさせる。


「う、うぅ……痛いぃ痛いよ……」

『……ッ!?おい気を緩めるな!』


 さっき茂みに投げられ気絶していた女性が目を覚ましてしまった。まさかそれが戦いのゴングになってしまうとは思ってもいなかった。

 僕が彼女に気が付いた一瞬、自分から視線が外れたことを知った0.1秒とない時間でヤツは動いた。

 僕は0.1秒ヤツより遅れて視線を外したことに気が付く。

 だが遅かった。

 目の前にはヤツの丸太のように太くてゴツゴツとした腕が迫っていた。地面のアスファルトを文字通り蹴り上げて接近したバケモノにラリアットをされる、人間相手にもやられたことのない攻撃だ。太すぎた腕は僕の首どころか顔面を巻き込んで地面に叩きつけられる。

 アスファルトに叩きつけられたとき視界の端に黒い靄が見えた。すごく頭が痛かった。

 だがすぐに地面に触れ地中の植物たちへ意識の伝達を行う。


――ヤツを拘束しろ


 植物たちは僕から命令を受けると種だったモノは成長しツタへ変わり、既に街路樹となっている木はその根をアスファルトを砕きながら伸ばしバケモノ目掛け四方八方から攻撃を仕掛ける。

 バケモノはこれに反応することはできなかった。

 成長し鎧のように固くなった筋肉を貫くことはできなかったが植物はバケモノの体を見事拘束し建物に叩きつける。

 距離を取る為の一時的なものだが充分だった。続いて第二第三の植物を使った攻撃命令を行う。

 初めて使うにしては上手くいっている……自分でも手ごたえを感じていた。


『上手くやるじゃないか……』

「お褒めの言葉どうも!」


 第二第三の連続攻撃は成功したがヤツがそれで止まってくれたらこれからの仕事も楽だっただろう……しかし、建物の柱を破壊して目隠し状態であった煙の中から現れたバケモノはケロッとしていた。

 余裕そうに首のあたりを摩りながら歩いて出てきた。


『あら、随分と余裕そうじゃない……貴様本当に大丈夫か?』


 大丈夫かというのはヤツを「倒せるか」という意味ではなく「生きのびられるか」であろう。

 例え力を貰って人間を超えたところでそれ以上の存在であるバケモノに敵う保証はなかった。最初、力を仕えたときは希望があったが急にその光は消えたような気がする。


「なあ一ついいか?これで死んだら僕はどうなるんだ……?」

『貴様の死んだ魂は天にも地にも行けずに彷徨うことになるだろうな。リッパーを殺すために天使と契約して送り出された奴らはみんな死ぬか、ヤツの下につくかの二択を選ばされている』

「どうにか地獄ぐらいは行かせて欲しいモノだな」

『地獄にも行けないってのは辛いことだからな……それにこの世界で貴様を知る者すべてから記憶も消され貴様の存在そのものがなかったことにされるだろう。まあ、リッパーを倒してくれるなら私が何とかしてやってもいいぞ?』


 僕は乾いた笑いで女神の問いに答える。

 もう自暴自棄になっていたのかもしれない。腕の皮膚を突き破って出てきた棘の蔓を手に巻き付けて近距離戦を選んでいた。

 引けばまだ勝機があったかもしれない……?そんなことを考えることが今の自分には無駄なことだった。

 逃げてもヤツを倒す決定的な方法がなければ勝てない、だから僕は一か八か自分の天運に任せる。

 地面に落ちていた石ころを一つ拾って僕は準備万端だ。ヤツも同じくクラウチングの構えで僕と決着をつけるつもりだった。


『何を考えているかわからんが、これで死んだら私は悲しいよ』


 そんな声はソラには届いていなかった。

 そしてマンションの崩れかけた柱から欠片が落ちたことを皮切りに地面をめくりあげる脚力で近づいてきたのはバケモノの方だった。さっきと同じくヤツの方が速かった。

 ひび割れた顔がもう目の前にあったが、僕もちゃんとヤツの動きに反応できている。

 右腕についた岩石のような拳をすれすれで避けると棘の巻き付けた拳をバケモノの腹に一発、硬い筋肉に細い棘では傷をつけるのがやっとだった……だが、これでよかった。握っていた小石をその傷にねじ込むと同時にヤツの戻ってきた右肘に後頭部を殴られ僕の体は飛んだ。


「植物よその場で成長しろ!」


 傷つけられた筋肉に埋め込まれた小石は僕の命令によって生命を誕生させる。固く傷つけることがやっとな鎧でも内部からの攻撃を防ぐことはできない。

 バケモノの動きは止まった。そしてヤツの体を筋肉を内部から突き破り現れた無数の硬化し鋭く尖った植物の根は何度も何度も繰り返し脆くなった筋肉を外側からも貫き始める。

 体を貫き地面に突き刺さる植物の根、地面から現れた新たな植物の根がヤツの頭を貫いた。遂に呻きをあげることもなく死んだバケモノ。


『正直植物を使ってもヤツが余裕だったから勝てるとは思わなかった。凄いなお前って何してる?危ないからまだ近づくな』


 僕は彼女の制止を無視して植物に貫かれ息絶えたバケモノに近づく。


「彼を栄養にして桜を咲かせろ……」


 すると植物たちはみるみるうちにバケモノを取り込み一本の木に変わる。

 それは見事な桜だった……ビルの合間を縫うビル風に揺られその桜の花びらは遠く、風が届くその先までその花びらを届け行く。

 彼も元は人間であった。バケモノである前に一人の人間、彼の弔いには桜の無常観というのがぴったりだった。

 そして桜は全ての花びらを散らせると役目を終えたように枯れ始める。


『おっと、警察が来たぞ……誰かが呼んだようだ』

「そうだね……今日は疲れたし帰る」

『お疲れさん。何かあったら呼んでくれ……忙しくなかったらいつでも会いに来てやる』


 血まみれになって関節の外れた右腕を抑えながら少年は帰路につく。

 サイレンを鳴らしながら通り過ぎていくパトカーを横目に見て、もう一度事故現場に目を向け人間の死んだ魂の終着点を思い起こす。

 全てはあの巨大樹に繋がっている。ならばあの命、魂もあの木に戻るのか?だが、この世界には崩壊した世界と違ってむき出しの立派な木は存在しなかった。

 ならどこへ?

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