◇第一章◇
第1話 課長、異世界ですよ
時刻は朝方――九時を回っていた。
しかし月曜という事で、何とも言えない怠さだ。
これから始まる一週間を思ってうんざりした気分、気怠く終わった日曜が名残惜しい気分。それが入り交じっている。
赤星は出来るだけ真面目な顔を取り繕った。
短くカットしただけの洒落っ気のない髪型、生地に少しテカりが出たグレーの背広。唯一の洒落っ気はストライプのネクタイぐらい。
手狭な会議室に揃った者たち――
しかし休みの日になると途端に億劫になって先延ばしにするのが常なのだが。
「ん、んん。あー、皆さん宜しいですか」
司会役の千賀次長が咳払いをしたので、我に返って気を引き締める。千賀は穏やかな女性だが、時に厳しいことを言うので油断がならない。
「それでは本日の朝会を開始します。まず一萬田所長から、挨拶をお願いします」
「一萬田です、皆さんおはようございます」
見るからに堅物そうな七三分けした髪型の一萬田は、眼鏡を軽く押し上げながら話しだす。先週の皆の仕事に対する感謝と今週の簡単な方針、健康管理の徹底などを告げる。
本社での熾烈なポスト争いに敗れ、この営業所に流されたとは思えない穏やかさだ。そうとは言え、まだ野心は捨てていないのだろうが。
しかし、赤星は殆ど話を聞いていなかった。
緊張して落ち着かない気分でいるのは、一萬田の挨拶の後は各課長が今週の目標や作業内容を発言せねばならないのだ。もちろん赤星も課長なので、そうした発言をせねばならない。
――本当に課長なんてなるもんじゃない。
うんざりとする。
密かに描いていた人生設計では、鳴かず飛ばずのまま過ごして定年少し前に課長補佐になって退職する予定だった。ところがまかり間違って弱小営業課とは言えど課長に抜擢されてしまったのだ。
重責はあり責任はあり同期からのやっかみもあって、喜びよりも理不尽さを感じているばかりだった。どうすれば首にならない程度に失敗し、降格して貰えるか考えてしまう程だ。
「次、営業二課。赤星課長、お願いします」
考え事をしていたせいで反応が遅れた。
慌てて立ち上がるが、もうそれだけで額に汗が浮く。
「あっ、はい。今週は総合食のカナヤマさんからお預かりしていた穀物類と調味料関係を搬出。あとは地元スーパーを何軒か回って新商品の紹介です。それから四ツ田商事さんから営業の話が来てますので、早めに顔を出してきます」
一生懸命説明する。
まともに聞いているのは一萬田ぐらい。居並ぶ課長たちは興味なさげに腕組みして目を閉じていた。
大仕事を終えた気分で額の汗を拭っていると、営業一課の鬼塚課長が挙手した。
どうせ余計な事を言うのだろう。
「所長、よろしいです? 所長は東京からいらしたばかりで御存知ないでしょうが、この辺りで四ツ田は大手ですよ。今後の付き合いを考えれば二課より、一課で対応すべきと俺は思います。二課では相手の格に対して失礼ですからね」
言いながら、鬼塚がちらりと圧のある視線を向けてきた。
一課は瑞志度営業所の主要課で、ここから次に本社に行って出世競争というのがセオリー。つまり鬼塚は九里谷商事の役員に可能性のある男だ。しかも性格的に好き嫌いが激しく、ご機嫌を損ねれば後々まで尾を引く可能性がある。
「赤星課長はそれでいいのかな」
一萬田の声には反論して欲しそうな雰囲気を感じたが、赤星は頷いておいた。
営業二課のオフィスに入る。
オフィスという呼び方が相応しくない、古びて雑然とした仕事部屋といったところだ。机は五席あるが、実際に使っているのは三席。残りは荷物や書類の置き場となっている。壁には予定表やカレンダーや古いポスター、黄ばんだテープの痕など。
部屋の奥の大きなガラス窓には、ロールスクリーンで日避けがしてある。
「すまない、四ツ田商事の件。一課に持って行かれた」
赤星は後ろ手でドアを閉めるなり、部下たちに手をあわせ謝った。
営業二課は、赤星を含めた総勢三名と小所帯。
一人目の青木係長は三十を少し過ぎた男だ。座ったまま軽く顔を向けてきて、『やっぱりですか』などと、さも予想していたような事を言って笑っている。仕事も任せて安心な出来るタイプだが、こうした軽いところがあった。
二人目は担当の黄瀬で、二十代前半の女性。しかし、返事をしようとして囓っていた菓子を喉に詰まらせむせたように、ややおっちょこちょいだ。
課長席に行くには、どちらかの後ろを擦り抜けねばならない。
狭い幅しかないため女性である黄瀬の後ろではなく、いつものように青木の後ろを通った。
「どうせ鬼塚課長が言いだしたってとこでは?」
「その通りだよ」
背広の上を脱ぎ、代わりに壁に吊してあった薄緑色の作業服を着る。そしてノートパソコンの蓋を開き、赤星はパスワードを打ち込みながら頷いた。
「もしかしてだが、そういう噂でもあった?」
「煙草部屋でね、一課の稲田係長からそれとなーく」
「あぁ、彼はそういう噂が大好きだからね。四ツ田さんの話は青木君が持って来たのにね、すまないね」
「いいって事ですよ。と、言いますかね。どうせ面倒そうな話だったんで。それに鬼塚課長が機嫌損ねて、お拗ねの坊やになっても困りますんで。むしろ良かったってもんでっせは?」
「はははっ、それもそうだ」
まさしくそれが本音である。鬼塚の坊や扱いに、赤星の気分は少しだけ晴れた。パソコンを操作してメール確認から始めた。
二課の仕事ぶりは他の課と全く違う。
まず営業ノルマは課しておらず、仕事は各自の自由。青木がヘッドホンをつけ音楽を聴こうと、黄瀬が時々スマホを眺めてはニンマリしていようと問題ない。休みの取得も残業するしないも自由。
押しの弱い赤星がまごまごする内に、何故かこうなった。
そして二人はのびのびやって成果が出せる性格だったので、上手い事いっている。赤星の仕事は調整後と、偶に二人がミスをした時に出張って頭を下げるだけだった。
赤星は時計をちらちら見た。
そろそろ正午になる。
正午と言えばお昼、お昼と言えば昼食の時間だ。
いろいろ押しの弱い赤星だが、食事に対する関心だけは強い。こんな時間に電話でもしてくる相手がいれば恨むぐらいで、会議が長引けば露骨に不機嫌になるぐらいだ。
それを知っている青木は苦笑気味に笑っているし、黄瀬は気の早い事に菓子パンを取りだしていた。
赤星は律儀に秒針を見つめ、律儀に正午になるのを待っている。
飾り気のないアナログ丸時計の秒針が一定のリズムで着実に動き、そして、全ての針が頂点で重なった。お昼のチャイムが鳴る――しかし地鳴りのような音が響いた。
実際に揺れている。
窓枠がガタガタ鳴り、机の上のモニターが揺れ、不安定な書類が崩れる。所内から悲鳴が聞こえ、黄瀬も声をあげていた。
赤星の反応は早かった。
「地震だ! 机の下に!」
即座に指示すると、呆然としていた青木と黄瀬が我に返って行動した。ただし、おっちょこちょいな黄瀬は机の下に頭を突っ込むだけで隠れきれていない。
揺れは十秒ほど続いて収まる。
しかし辺りは奇妙な静寂に包まれ、一拍遅れて壁の額縁が落下して大きな音をたてた。そして他の課から女性社員の甲高い悲鳴が聞こえると、それを契機に避難を促す声などが響きだす。
赤星は机の下から出て立ち上がり、室内を見回し愕然とした。酷い有り様で、あらゆるものが散乱している。
「収まったようだ、もう大丈夫だ」
そう声をかけるが、黄瀬は半泣き顔で顔をあげた。
「ど、どうすればいいっす!? 課長ぉ!」
「慌てる必要は無い。お昼ご飯は逃げやしない、まずは会社の外に避難するとしよう。避難訓練通り動けばいい」
半ば自分に言い聞かせながら、赤星は焦る気持ちを抑え込む。
頭の中では最悪ばかり思い浮かんで、一刻も早く外に出たい気持ちでいっぱいだ。なぜなら、この建物は築五十年を超えている。一応は耐震補強はされているが、どれだけ効果があるかは分からない。
それでも自制して、黄瀬は青木に任せて避難を開始した。
廊下に出ると営業一課の鬼塚課長が、部下達の誘導をしていた。気が強くキツイ性格だが、こんな時だからこそ頼りになる相手ではある。
「赤星ちゃんよ、そっちどうだ?」
「怪我人はなしです。被害は書類ぐらいのようですね」
「こっちと同じか。早いとこ外に出ようや、今のが余震だったら洒落にならんぜ」
「そうですね」
しかし直ぐには外に出られなかった。
早くと言った当の鬼塚が、各部屋を覗いて逃げ遅れがいないか確認をしているのだ。本当なら直ぐにでも逃げだしたいが、こうなると付き合うしかない。
顔を強張らせながら一緒に部屋をまわるしかなかった。
そして外に出た。
「えっ……?」
人というものは、あまりに突拍子もない事が起きると頭が理解を拒むらしい。
駐車場で呆然と立ち尽くす同僚たちの姿に、何となくそんな事を考えながら、やはり赤星も呆然としていた。
目の前には見た事もない光景が広がっている。
本来であれば駐車場の向こうは二車線道路を挟んで警察署があるはずが、そこには草原が広がっていた。それも映画でしか見たことのないような、点々と木の生えた緑の平原だ。人工構造物の一つもなく遠くまで見渡せ、何やら巨大そうな動物が――それも象ですらない生き物が――群れを成して歩いていた。
恐る恐る左手側を見る。
そちらには雑居ビルと高架道路があるのだが、どちらも存在しない。生い茂った木々の森があって、密林と呼びたくなるような具合だ。
今度は右手側を見る。
通勤の途中で挨拶を交わす気の良い鈴木さん宅は存在せず、左手側の密林よりも疎らだが、やっぱり木々の生い茂る森がある。
「……え?」
後ろを振り向いて古びた三階建ての営業所があると確認すると、ちょっと安心してしまう。それと駐車場に立ち尽くす同僚達の姿だけが、赤星の正気と冷静さを保っている。
「これは、どういう事なんだ。まさかここは……」
脳裏に浮かびかけた言葉を辛うじて呑み込む。
それを口にする事が、酷く幼稚な事に思えたのだ。代わりに、玄関を出た目の前で立ち尽くしている青木の肩を叩く。
とにかく誰かと喋りたい気分だったのだ。
「青木君、これはどういった事かな」
「これは課長……まさかまさかの……」
「何か心当たりでもあるのか?」
「課長、異世界ですよ!」
それは、はからずも赤星が思っていた通りの言葉だった。
青木の大声で、それまで駐車場で立ち尽くしていた皆も我に返って、口々に騒ぎ出す。そして赤星は――。
「だったら、お昼はどこに食べに行けばいいんだ?」
思わず呟いていた。
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