第5話 あさひのバトン
ピンポーンと暗い運転室の空間にATCの信号音が響く。同時に
「信号、275」
と運転士がメーターを指差して確認してから、右手のマスコンを手前にガラガラっと引く。少し遅れて、体が後ろ向きに引っ張られる。暗い空間で響き渡る音が徐々に大きくなっていく。
ここは大清水トンネル。上越新幹線の上毛高原と越後湯沢の間に存在する、谷川岳を貫く新幹線専用の長いトンネルだ。ATCの信号を受けたあたりから新潟方面にかけて、長い下り勾配が存在する。この下り勾配を利用して時速275㎞まで加速する。この列車が走り始めた当時は、日本の新幹線で最も速い速度で走る列車であった。だが、運転されるのは一日2本のみ。この2本の高速列車のために改造された200系を使用する。まさに特別な列車だ。
この列車名は「あさひ」。
新幹線「あさひ」号は、上越新幹線の速達列車を担っている。その中で最速の時速275㎞で走るのは「あさひ1号」と「あさひ3号」。朝と夜にそれぞれ運転されている。今日もあさひ1号は大清水トンネルで時速275km運転を行う。
「今日も居るんだろうな~。」
そう運転台で呟くのは、黄色髪の少女、あさひだ。運転室の右側の助手席の座面に立ち、前の操作パネルの机の部分に片手をつき、片手を額に当てて遠くを見る格好をしている。勿論、靴は脱いでいる。
「どうせいるろ。そろそろトンネル出るぞ。」
あさひの呟きに反応するのは、左側の運転席に座る運転士だ。ATCの信号に引っかからないように、メーターの速度を273km/hになるように右手のマスコンを調整している。
あさひと運転士の目の前には、トンネルの暗闇の奥に点の光が見えている。その光は徐々に大きくなっていく。そして光から越後湯沢の景色に変わる。トンネルを抜けると、シュオンシュオンと分岐を通過する音が足元から聞こえ、屋根に覆われた越後湯沢駅に突入する。屋根を支える無数の柱の輪郭がボヤける程の速度だ。ホームの中間の手前あたりで、
「あ、いた!」
あさひは、ホームの中間を目で追うも、あっという間に運転席の窓から見えなくなった。
「越後湯沢、定通」
そして越後湯沢駅を抜ける。そして夏の緑で覆われた山のトンネルに入り、再び暗闇に包まれる。
「やっぱいつもの位置にいたな。」
運転士も見つけたらしい。
「私が275キロで走るようになってから、ずっとあそこに居るんだもん。他の運転士さんも知ってるし。」
「そりゃ、新幹線を経験してれば、2人の関係はすぐに覚えるもんだよ。」
運転士はマスコンを一番手前に引く。
「ですよねー。」
あさひは分かっていたかのように返す。
「よし!今日も頑張るぞ!」
あさひは座席の上で体を伸ばしてから、席から降りて靴を履く。
運転士はマスコンを一番奥にしてノッチをオフにする。速度計の数値が小さくなっていく。暫くして、ピンポーンとATCの音が鳴る。
「信号、245」
こうして、今日の朝もあさひが誇る日本最高速度運転を終える。浦佐駅を通過し、長岡駅を停車し、終点の新潟駅に到着する。200系の側面の方向幕が回転し「あさひ 新潟」から「回送」になる。そしてあさひ1号で使用された列車は、新潟新幹線第一運転所に回送する。
車庫で停車し、あさひと運転士が運転席から降りる。乗務員扉を開け、2人は車両から出る。
「今日もお疲れさまでした!」
先に出たあさひは、振り向き運転士に挨拶する。
「おう、ご苦労様。」
運転士は休憩室へ向かった。あさひも暫くは休憩だが、乗っていた列車の傍を歩く。そして下に通じる階段を下りる。そこは新幹線の床下を点検するピットになっている。列車の傍には、これから検査を行おうとしている車両の整備士が立っている。その人たちに挨拶しながら、あさひはずっと歩いていく。
「さっき、ちょっと違和感を感じたんだよな~。」
あさひは編成の中間あたりの車両の台車を見て呟いた。それは後ろで検査をしようと、手袋を嵌めていた若い整備士にも聞こえていた。
「あさひさん、なんかあったんですか?」
「あ、この台車で違和感を感じたんだけど……。」
あさひはピットレールの下をくぐり、台車を見上げる。持ち歩いている懐中電灯を上方向に照らす。整備士もピットレールをくぐり、あさひが懐中電灯で照らした方向を見る。
「やっぱり。」
あさひは車輪の横についている、ブレーキ装置を見て言った。
「あー。これは交換ですね。」
200系新幹線のブレーキの要である、”ライニング”という部品が摩耗していた。
「でも、よく分かりましたね。」
整備士はまだ経験が浅く、あさひの能力を全て理解していないようだった。
「えっとー……。」
あさひの言葉が詰まる。
「直感?」
あさひにはこの答えしか思い浮かばなかった。整備士はまさかの答えに唖然とする。
部品交換に関しては整備士に一任し、あさひは場所を変える。あさひは来た方向を戻り、別の線路に移動し、階段を上る。そしてある場所で立ち止まる。線路には車両はいない。
今の時期は夏。暑い車庫の中であさひは待つ。しばらくして、東京方面の車庫の外から、新幹線のライトが現れる。警笛を鳴らして車庫に甲高い200系の機器音を響かせながら、あさひの目の前の線路に入ってくる。そして、あさひの目の前に、先頭車両の乗務員扉が来た位置でピタリと止まった。カチャと乗務員扉が開く。
「今日も良い走りだね。あさひ。」
「毎朝飽きないよね、とき姉。暑かったでしょ?」
乗務員扉からは、上越新幹線の各駅停車「とき号」を担う、ときが出てきた。
ときはあさひより先に東京駅を出発し、越後湯沢駅で降りて「あさひ1号」の高速通過を見ていた。あさひの通過を見た後に後続のとき号で新潟までやってくる。そして次の列車乗務まで他愛もない会話をする。これが新潟新幹線第一運転所での朝の日課だった。
「もう見れる時間も少ないからね。暑さなんてへっちゃらだよ。」
「とき姉……。」
ときはそう話す。今年の秋に新幹線の列車名の再編により、新幹線「とき号」が廃止になり、上越新幹線の東京から新潟を走る列車名は「あさひ号」に統一される。
ときとあさひが一緒に走れる日は残り僅かであった。
新幹線とき号がラストランとなる1997年9月30日の夜には、多くのファンは地元の人々が駅で見送っていた。終点の新潟駅は特に人が多く集まっていた。
「やっぱり人多いね〜。」
あさひも、ときの到着を待つ一人だった。先頭車両の停車位置では、ファンが密集していた。あさひは、迷惑にならないように少し離れた場所で待っていた。
暗闇の新潟駅の外から、とき号の眩いライトが現れる。そして普段と変わらず、滑らかにホームで停車する。
乗客扉が開く前に、乗務員扉が開き、ときが降りる。あさひはときに駆け寄ろうとしたが、すぐに躊躇った。ときは乗務員扉の隣の乗客扉が開くと、降りてくる乗客一人一人に「ありがとうございました」とお礼していた。あさひが邪魔する訳にはいかなかった。
乗客全員が降りた後でも、ファンや地元の人から記念写真を求められたり、あさひが近寄る暇は無かった。
ようやくときに隙ができたとあさひは思うと、すぐさまときに向かって歩く。そしてその足の動きはどんどん速くなり、走り出していた。
あさひはときが廃止になることを分かっていた。分かって覚悟していたつもりだったが、最後の瞬間になると、その覚悟は忘れてしまう。
「とき姉!」
「わっ!」
あさひはときの背中に飛びつき、突然のことにときは驚く。
「ちょ、急に飛び付かないでよ……。」
呆れたときはそう言いながら、あさひに振り返る。
「だって……とき姉が……。」
抱きつくあさひに、ときは呆れながら微笑む。ときからはあさひの表情が直接見えなかったが、普段明るいあさひから聞いたことのない寂しそうな声が耳元聞こえる。
「あさひでも悲しくなる事があるんだね。わたしより経験が長いから、慣れてるものだと思ってたよ。」
あさひの列車としての経験は、ときより断然長かった。
あさひの誕生は戦前まで遡り、南満州鉄道の急行列車「あさひ」から始まっている。そこでは「のぞみ」や「ひかり」とも会っていて、戦争の激化により、一緒に走っていた仲間と別れてしまった。あさひにとって、とても辛い別れの経験だった。
そして時を経て米坂・仙山線経由の急行「あさひ」を経験し、上越新幹線開業により速達の「あさひ」として走ってきた。
経験年数が長い分、ときより別れを経験しているはず、そうときは思っていた。
「別れなんていつだって寂しいもんなんさ……。」
あさひにとって、いつまで経っても別れは辛いものだった。
「今度こそずっと一緒に居られると思ったのに……。」
あさひはときから離れない。
「大丈夫。また会えるよ。」
「とき姉……。」
あさひの顔が、ときの肩から離れる。やっとお互いの表情が見えた。
「これからの上越をよろしくね。上越の姉としてのお願い。」
「うん。とき姉……」
ときが光に包まれる。
「見守っていてくれてありがとう。」
あさひが最後のお礼を言う。ときは笑顔で頷き、光となって消えていった。
翌日から、上越新幹線の東京から新潟の全ての列車は「あさひ号」が担うことになり、新しく東京から高崎・越後湯沢の列車「たにがわ」が誕生した。
「たにがわ、おはよう!」
「んあ?あぁ……。」
これは毎朝の東京駅での、あさひとたにがわのやりとりだ。
たにがわは、長い銀髪で綺麗な外見に見えるが、性格は粗暴だった。最初はあさひの挨拶を無視していたが、あさひの元気の良さに圧倒されたのか、会ってから3日程で挨拶を返すようになった。
「たにがわ〜今日も追い越しちゃうよ〜!」
「あぁもう分かってるって!いつも見てるから!」
たにがわは越後湯沢駅が終点のため、あさひ1,3号の高速通過を見る事ができる。あさひの猛アピールに負けて、毎日ではないものの、ほとんどの日はあさひの通過を見ていた。
時を経て時代が変わり、あさひに新型車両のE2系が投入された。E2系は200系より加減速性能が優れていた。また、1997年には北越急行ほくほく線が開業したことにより、越後湯沢駅が首都圏と北陸を最短時間で結ぶ特急「はくたか号」の乗り換え駅となり、越後湯沢駅の重要性が増していた。
これらが全ての理由なのかは不明だが、新幹線「あさひ号」の時速275㎞運転は1999年に終了した。
2002年12月に、「あさひ」の名は数奇な運命により、無くなることになる。「あさひ」の次を担うのは「とき」だった。
この理由は1997年に開業した北陸新幹線にあった。東京から長野まで向かう列車名は「あさま号」。
「あの〜……この列車って長野に行かないんですか?」
あさひが客室を歩いている時、乗客が困った顔で聞いてきた。
「え?……あ!私……この列車は“あさひ”なので、新潟行きですよ!」
「あさひ」と「あさま」の列車名称が一文字違いであり、誤乗車が多発した。
「とき」という名称は、上越新幹線開業前の特急から引き継がれた名称であり、また新潟県の観光資源である「佐渡島のトキ」と新潟県にとっては「とき」は関係が深く、列車名称としての復活を望まれていた。
「またお別れか〜。」
ダイヤ改正前の2002年11月30日終電時間帯の東京駅。あさひは、東北・上越新幹線の仲間達と一緒にいた。
「まさかアタイの名前とごっちゃになるからって廃止なんて……。」
あさまは少し責任を感じていたらしい。
「ううん。気にしないで!」
あさひはあさまに明るく話す。
「お客さんの対応大変だったよね。お互い様だよ〜。」
あさひは新幹線の仲間の方を向く。
「みんな今までありがとうね。」
仲間からも「ありがとう」「お疲れ様」と声を掛けられる。
「あさひ……。」
たにがわが口を開けると、駅の発車ベルが鳴り出す。最終あさひ号の発車ベルだ。
「たにがわも短い間だったけど、見守っててくれてありがとう。」
あさひはそう言いながら、髪を結んでいた赤いリボンを解く。
「これ、たにがわにあげる。」
「え、これは……?」
突然のことで、たにがわは戸惑う。
「上越新幹線を走る仲間のバトンってことで、これ持っててくれたら……うれしいな。」
たにがわは長い髪を束ね、赤いリボンで結ぶ。
「これで……いいか?」
たにがわは頬を赤らめて言う。
「うん!良いよ!たにがわ!」
発車ベルが鳴り終わる。
「じゃ、私は行くね。」
あさひは列車に向かおうとする。
「待て!」
たにがわがあさひを止める。
「短い間、ありがとうな。」
時間が無い中、たにがわが思いを伝える。
「私からもありがとう!ときをよろしくね!」
そう言ってあさひは新幹線に乗り込み、東京駅を後にした。
翌日から上越新幹線の東京と新潟を結ぶ列車名は全て「とき」となった。
ときは自分の復活と引き換えに、あさひが廃止になったことを悲しんでいた。その悲しみが頂点に達した時、
「あさひが居なくなるなら、わたしは居ないままで良かった!」
と、ときは仲間の前、乗客の前で言ってしまった。
「いつまでも引き摺るな!」
たにがわがときに掴みかかって言った。
「確かに、お前の代わりにあさひは居なくなった。俺も含めて皆寂しがってる。だがな、あさひは今は名前が無いだけで、役割はときが継いでるんだ。」
たにがわは一度息を呑む。掴みかかっていた手を離す。
「だからさ、あさひは居なくなったんじゃない。とき、お前の中に入ったんだ。だからお前も居ない方が良いなんて言わないでくれよ。」
たにがわは落ち着いた口調で言う。
「そうそう。私もあおばが居なくなったけど、代わりになすのとはやてとこまち、つばさがいるから、今は寂しくなっても今の仲間がいるからへっちゃらだよ。」
と、やまびこは東北新幹線グループの真ん中で手を広げて言った。
「わたし……居てもいいの……?」
「もちろん」「当然」と皆が言う。
「あと、これは俺には似合わないからやるわ。」
たにがわは、髪を結んでいた赤いリボンを解き、ときに手渡す。
「たにがわ……これは……?」
ときはこの赤いリボンに見覚えがあった。
「これ、あさひが使ってたリボンだ。あさひが居なくなる直前に俺にくれたんだ。」
「え、それじゃ、たにがわにとっても大切のリボンじゃ……」
ときはたにがわに返すように、リボンを持った手をたにがわに差し出す。それをたにがわは、ときの手を取って返す。
「これは役割を継いだお前が使うべきだ。寂しくなっても、これがあればマシにはなるだろ?」
そう言われ、ときは自分の髪を結んでいたリボンを解く。
「なら、わたしからたにがわにあげる。」
たにがわはフッと笑い
「これでおあいこ。俺たちゃ仲間だ。」
お互いに交換したリボンを結ぶ。
「お似合い」
なすのは二人を褒める。ときには、なんとなくあおばの口調となすのがそっくりだと思った。
「とき似合ってるよ、というか、髪の長さと色が違えばあさひなんだよね。」
やまびこに笑いながら言われた。
「これならあさひと一緒な気がする。」
ときは新幹線の窓の僅かな反射を鏡にして、自分を見る。
「たにがわありがとう。」
ときはたにがわの両手を掴む。
「上越新幹線、これから改めてよろしくね。」
「ああ。」
たにがわは頷く。
こうして、“上越新幹線のバトン”は受け継がれた。
今日もときは赤いリボンを揺らしながら、新幹線に乗務している。赤いリボンのおかげで、ときはいつもあさひに見守られているように感じている。
あさひはいつも上越新幹線ときを見守っている。
2005年以降の長岡花火で打ち上げられる「フェニックス」をまた見たいなと思っていた。
あの場所までの軌跡 空風遊祐 @Sora_Kaze_Yu
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