紅林治一郎の幽霊

 昼休み、学校の屋上から眺める紅林邸の木々は青く艶めいていた。

 ツナパンをかじりながら放課後を待つ。

 珍しく隣にナナオさんが座っていた。今朝の様子を心配してくれたんだと思う。

「ナナオさん、死体のある秘密の部屋ってどこにあると思う?」

 屋上から見える紅林邸を指差して問いかける。手に乗るようにヒュウと涼しい風が吹く。ナナオさんは不思議なことが大好きだから、こういう話にはすぐ食いついてくれる。

「むむむ。ボッチーだから言っちゃうか。紅林邸って結構特殊な建物だから、隠し通路とかあるかもって一時期探検したことがあるんだ、小学生の時だけど」

 さすがナナオさん、予想以上の返答だ。

「そういやボッチーは紅林邸に入ったことあんの?」

「まだないよ」

 なにせ引っ越してきてからまだ2カ月もたってない。

 ナナオさんは地元民だから僕より圧倒的に詳しい。

「ちょっとわかんないかもしんないけどさ。こっから見て右側、西側なのかな? 今ぼわぼわっとした木で隠れてるところ、あそこスペースがおかしいんだわ」

「スペースがおかしい?」

「そう。畳半分くらいかな。中から見る広さと建物の広さが違ってる気がする。それにあの壁の辺りは窓が全然ない、だから怪しいと思って壁をガリガリやってたら怒られちった」

 なんだかナナオさんは怒られてばかりだな。なんだか少しおかしくなった。

「おっ、元気出たっぽいじゃない?」

 ナナオさんの笑顔はなんだか向日葵が咲くみたいに明るい。


 放課後、急ぎ足で紅林邸に向かう。

 まだ係員が残っているようで、誰もいなくなるのを待つ。そのうち邸内の明かりが消えてから更に十分ほど待って、いつもの垣根から公園内に忍び込む。初めて入る夕方の紅林公園。朝とは反対に西陽を背負った紅林邸は、僕を威圧するようにその影を大きくのばしていた。

 ナナオさんから聞いた西側の壁。広さがおかしいといっていたけど、ぱっと見には全然わからない。

 でも、僕にはニヤがいる。ニヤは怪異の匂いはすぐわかる。

「ニヤ、ここに雨谷さんがいるのかな」

「いる」

 ニヤは断言する。これ以上なく明確だ。

 壁の中に空洞があれば音が変わるというのが推理小説の定番だけど。

 漆喰で塗られた白い壁をトントンと叩く。その途中、壁の下の方にはナナオさんがやったと思しき小さな傷を見つけた。何カ所か場所を変えてトントンしてみたけれど、空洞があるのかどうかとか壁の厚さとかはよくわからない。秘密の部屋があるとしても入口は屋敷の中だよなと考え込んでいると、ふいに視線を感じて振り返る。

「雨谷さん……」

 少し困った顔をした雨谷さんと目があった。

「来ないでって言ったのに……」

「どうしても話がしたくって。雨谷さんは昔からここに住んでるんだね?」

 雨谷さんはうっすらと頷き、困ったように笑った。。

「ここじゃなんだし中に入る? おもてなしも何もできないけど」


 雨谷さんについて勝手口から中に入る。初めて入る紅林邸はどこかよそよそしくて、時間が止まっているように感じる。紅林邸にはいくつかの家具が展示されていたけれど生活感は全くなかった。しっとりと黒く光る床を僕と雨谷さんが歩くとぺたぺたと音がする。

 おそるおそる座ったのは年代物のソファ。時間を量るみたいに僕を乗せてギシリと沈み込む。

「雨谷さんは、明治時代、100年以上も前からここに住んでいて、2週間くらい前に意識が戻った。これであってるのかな」

「そうだけど……どうして東矢くんがそんなことを?」

 雨谷さんは再び、今度は不思議そうに少し首をかしげる。

 僕は僕が知ってることを雨谷さんに話した。

 新谷坂山には昔から怪異を封印している存在がいること。明治時代に雨谷さんが封印されたこと。僕が1カ月くらい前に封印を解いてしまって、その結果雨谷さんの意識が戻ったのだと思う。

「そうなのかもしれない」

 雨谷さんは少し考えながら頷く。雨谷さんが暮らしていたのは確かに明治という時代で、いつのまにか気を失って、最近急に意識を取り戻したのだそうだ。

 それから最近の幽霊のうわさ、昔の動く死体の話の話をした。

「昨日僕はお父さんが見守ってるかもって言ったけど、僕の勘違いなんだ。今も昔もこの紅林邸で雨谷さんが動いているのを誰かが見て噂になったんだと思う。だから本当はお父さんの幽霊はいない、んだと思う」

 だから、雨谷さんは気にしないでいいってこと。

 雨谷さんは僕の話を肯定も否定もせずに、じっと聞いてくれた。

「それで……僕は今、封印から逃げ出したものを元に戻そうと思ってる。けどそれは危険なものだけで、危険じゃないものまで無理に封印するつもりはないんだ。その、雨谷さんも」

「このまま……でも私はこのままではいられないの」

「いられない?」

 雨谷さんはなんともつかない、けれどもその決意は決して覆らない、そんな表情で僕を見た。

「もし雨谷さんが望むなら、前と同じように眠り続けることもできる、と思う。何か望みがあるならそれを叶えてからでも」

 雨谷さんは窓の外を見つめた。

 じっと言葉を待つうちに、外はすっかり暗くなっていた。

「……封印っていうのはいつかまた、起きちゃうかもしれないんでしょう?」

「うん、絶対ないとは言い切れない」

 封印である以上、解ける可能性はある。僕が解いてしまったように。

「それは、もう嫌かな。でも、私のやらないといけないことは悪いことだから。だから封印されても仕方がないと思う」

 予想外の言葉に思わず目を瞬いた。やらないといけないこと。

「……やらないといけないことって何? 雨谷さんのお父さん? 紅林治一郎さんのお願いごとなんでしょう?」

「そう、なんだけど」


 雨谷さんは少し考え、ぽつりと口を開いた。

「お父さまには娘がいたの。それで私はその娘、ひよりさんの体を使って魔法で作られたの」

「体、を……?」

 確かにあのぐねりとした感触は、人ではなかった。

「ええ。信じられないかもしれないけれど。それでお父さまが死ぬときに、一緒にこの館を燃やすように言われたわ。時間は経ってしまったけれどもその願いをかなえようと思っている」

「そんな!? 治一郎さんが亡くなってもう随分経ってる。今更?」

 雨谷さんはふるふると首を振る。

「私もそう思う……。でもこれは私とお父さまと、ひよりさんのお葬式。私はきっとこのためにお父さまに作られた。私にはお父さま以外、なにもないの」

「雨谷さんは絵が好きなんでしょう?」

 雨谷さんの視線につられて外を見る。そこにはいつしか、しずしずと闇が降り積もり、この屋敷を囲む公園の、その外側に灯る僅かな該当だけがうっすらと蛍のように灯っていた。

「絵はもう描いちゃった。ここを出て生きていけると思えない」

「そんな」

「この屋敷の外は全てが何もかもが変わってしまった。お父さまと過ごした時と同じものなんて、ほとんどない。だから私ももう、過ぎ去らないと」

「でも、新しい生活だって、やってみれば」

 けれどもそれが現実的ではないこともなんとなくわかっていた。

 ここから雨谷さんが新しく生活を始める。けれども雨谷さんは人間じゃない。雨谷さんに触れてみれば、それはわかる。人ではない体温と感触。だからこの紅林邸の外で人間らしい生活ができる体じゃないのかもしれない。かといってずっと秘密の部屋で過ごすのも幸せとは思えない。

 けれども屋敷と一緒にその身を焼いてしまう、そんな悲しい終わり方がいいとはとても思えなかった。

 雨谷さんは寂しそうに微笑んだ。

「……東矢くん。私の体、もうあんまり持たないんだ」

 雨谷さんはそう言って、カーディガンの長い袖をめくった。雨谷さんの皮膚は乾いてポロポロと剥がれ落ちた。その体の内側の方から、土が乾いたときにできるような亀裂が走っていた。

「私の体はお父さまのひよりさんに対する願いで動いてる。お父さまが亡くなってから、動くたびにちょっとずつ減ってって、もうすぐ全部なくなって、完全に崩れてしまう。ずっと寝てたときは動かなかったせいか、ほとんど減らなかったみたいだけど」

 雨谷さんの命の終わり。それはもう、物理というどうしようもない形で目の前に迫っていた。

「だからね、私、ここを私とお父さまのお墓にしようと思って」

「そんなの駄目だ!」

 けれども理屈を持たない僕の叫びは何かに遮られて、雨谷さんに届かなかった。

 雨谷さんは目を伏せる。それはきっと強い拒絶。

 けれども寂しそうに見えた。本当に寂しそうに。

「本当にそれでいいの?」

 まるで、無理やりそう思い込もうとしているように見えた。

 だから僕はわかったんだ。きっと本心じゃないってこと。

 お墓にして喜ぶのは誰?

 それは治一郎さんの望みで、雨谷さんの望みじゃない。最後のだって後付けだ。

 じゃあ、雨谷さんは?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る