雨谷飾の回想

 私が再び目覚めたのは、2週間ほど前の夜だった。

 急に誰かに声をかけられたかのように、妙にはっきりと目が覚めた。

 目覚めた後も真っ暗だったけど、きしむ首を左右に動かし周囲を見渡す。そして私が眠った秘密の部屋だと気が付いた。でも私の上も含めてほこりが高くつもっていて、長い時間が経過したように思えた。

「お父さまっ」

 思わず叫んだ声はひび割れていた。

 急に私は思い出す。慌てて部屋の外に出て思わず足を止める。

 予想もしていなかった光景にとても驚いたのだ。

 私の部屋と違って屋敷内はきれいに磨き上げられ、塵一つ落ちていなかった。床や壁は記憶と同じ木の板が張られていたけど、その色は記憶より黒々と艶があって手入れの良さが感じられた。

 まるで初めて見る屋敷のようにも思われたけど窓の桟は私の記憶と同じもので、硝子の向こうからは最後に見たのと同じ月の光が優しく差し込んでいた。

 私とお父さまが使っていた家具はほとんどなくて、お父さまの遺体もなかった。

 混乱してそろそろと見回していると屋敷の玄関には受付のようなものが設置され、お父さまの大きな肖像が掲げられていた。


『紅林治一郎 安政3年~明治40年没 擬洋風建築最後の大家として知られる』


 肖像画の下のみたこともないような白いつるつるした板に、そのように記載されていた。

 もう一度、窓から外を見た。庭の様子はだいたい同じようにも見えたけれど、記憶とは木々の位置や大きさが随分違っていた。

 私はそっと屋敷を抜け出す。蛍の光を強くしたような、どこか冷たい白い外灯が庭の周りを点々と囲んでいるのを見ながら散策する。よく知っているのに全く知らない、そんな不思議な光景だった。おそるおそる垣根の向こうを覗くと、私が知っているのとは全く違う乗り物が走っていて驚いた。

 なんだか、私だけが違う世界にタイムスリップでもしたような、少し怖いけどワクワクする不思議な感覚。


 その後、私は秘密の部屋から屋敷の様子を観察し続けた。日中は何人もの人が屋敷の中を歩き回っていた。どうやら屋敷はお父さまの博物館のように使われているらしい。

 私は『誰にも足を踏み入れて欲しくない』というお父さまの願いを叶えることができなかったんだいうことを理解して、何故お父さまが亡くなったその日のうちに火をつけなかったんだろうと深く後悔した。

 けれども一方、お父さまが世間に評価されているということはとても誇らしくも思えた。そしてかつては私とお父さまの2人っきりの寂しい屋敷だったのに、窓も何もかも開放されて明るい光が差し込んでいて、お父さまを知らない人が歩き、お父さまの事業と屋敷をほめそやしている風景は、とても不思議に、そして暖かく思えた。


 どうやら私が眠りについてから、もう100年以上経っているようだ。愕然として、これからどうしたらいいのか考えた。

 お父さまはもういない。さすがに100年以上前のことだ。朽ちたにしろ埋葬されてたにしろ、残っていても骨くらいだろう。今さら屋敷だけ燃やしても、ひよりと一緒に朽ちるというお父さまの望みはかなわないように思えた。

 お父さまの望みに応えられないのはとても申し訳ない。けれど、今更この屋敷を燃やしても意味がないように思う。私も思い出の残るこの家を燃やしたくない。それに今はこの屋敷は価値があるものと認められている。お父さまが誇らしい。いろいろな人に褒めてもらいたい。

 私は再び考えることを保留にして、人がいない朝に絵を描くことにした。眠る前に書いていた絵の続きを。

 外からみる屋敷はピカピカしていたけど、お父さまがいないせいか、少し寂しく見えた。


 そんなある日の朝、知らない男の子に声をかけられた。

 どうしよう! 私、初めて男の子、というかお父様以外の人間としゃべったかも。

 今朝絵を描いていると、何を描いてるの? って声をかけてくれた男の子がいた。

 驚いたけど、優しそうな人だなと思った。ちょっと話すと更にびっくりすることが起きた。夕方にまた会いたいっていうの。

 初めてのことで固まってると、いつのまにか5時に待ち合わせることになった。

 どこに行こうか? って聞かれて、何も思いつかないし、外のことはわからなかったから、とりあえず『画材店』って答えた。


 画材店に2人でデート。デート!?

 おそるおそる屋敷の外に出て、東矢くんの後ろをついていく。眠りにつく前にはお父様のお使いで外に出ることはあったけれど、その街並みは私が知っているものとは全く違っていたから、ほんとうに恐る恐る。異世界みたい。でも画材店には、とてもたくさんの絵の具や紙があって、私が知っているものもあった。よかった。

 東矢くんは絵のことはあんまりわからないみたいだったけど、絵の具や紙の種類や用途をわかる範囲で教えてあげた。

「いろんなのがあるんだね」

 東矢くんは優しくそう言ってくれた。知らない人と話すこと。最初はちょっとドキドキしたけれどなんだか楽しい。東矢くんもいろいろ学校のこととか教えてくれた。学校か。いいな、いってみたいな。

 私はその夜、秘密の部屋で絵を描き進めながら、今日初めて会った東矢くんのことを思い出していた。

 東矢くんはひよりさんじゃなくて私を見てくれていた。

 すごく楽しかった!

 こんなことは初めてで、驚いた。

 私を私として見てくれる。それをとても幸福に感じた。


 でも、私はお父さまにひよりさんの代わりとして作られた。私の役目はひよりさんの姿をしたかざりになること。今もお父さまの意思を棚上げにしているのに、こんな楽しい気持ちになるのはいけないことのように思える。

 東矢くんのことを考えると楽しい、けれども、それ以上に苦しい。

 東矢くんはたまたま猫ちゃんを探しに庭に入ってきたと言ってた。

 それならきっと、もう会うこともない、よね。

 それなら忘れてしまったほうがいい、かな。

 そう思って、私は東矢くんのことは忘れることにした。ちょっと寂しいけれど。


 忘れることは得意だ。

 お父さまはひよりさんにいろいろ教えることが好きだった。でも、家には私とお父さましかいないし、外から新しいことが入ってくることはない。話題はいつかつきてしまう。

 だから、いつのころからか、私は1日の終わりに、必要なこと以外、その日に覚えたことはすっぱり忘れることにしていた。

 今の私が覚えておかないといけないことは、お父さまとひよりさんのこと。それから私のなり立ち、それからお父さまとの約束と描いている絵だけ。

 私にはお父さましかいない、お父さまを忘れると、何も残らない空っぽの死体しか残らないから。


 お父さまとの約束だけ忘れてしまうという方法もあるのだろうけど、それはとても心がとがめた。それは、創造主を否定することだ。せっかく私を作ってくれたお父さまを。

 それに私にはやることがない。ひよりさんの代わりという役目を失い、お父さまの願いをかなえる以外、やることもないんだ。やっぱり、最終的にはこの屋敷と一緒に燃えてしまおうと思う。

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