大切なもの
お父さまは倉庫にしまい込まれた書物やメモを探し、お師匠様の記録をみつけた。
お父様はお師匠様が亡くなったとき、うまくいくはずがないと思っていた。けれどもひよりさんが亡くなった時、お父さまにはひよりさんしかいなかった。うまくいかなくてもいい、失敗して一緒に死ぬならそれでもよい。そう思ってまじないを発動させた。
結果として、ひよりの死体から私は生まれた。
体はひよりそのものだったけど、中身はひよりさんではない、のだと思う。少なくとも私にはひよりさんの記憶はないし、お父さまのことも何も覚えていない。
お父さまは、ひよりさんではない私を見て、一瞬やはり一緒に死のうか、と思ったそうだ。
でも、一見健康そうな、喘鳴で苦しむこともない私を見て、ひよりが元気だったらこんなふうだっただろうかと考えると、もう少しだけ健康なひよりを見ていたくなったそうだ。
ひよりさんとの思い出のあるこの家で、姿だけとは言えどひよりさんと暮らしたい、お父さまはそう願った。
それからも私とお父さまは、一定の距離を保ってそのような生活を長く続けていった。
時にはお父さまと庭のベンチでお弁当を食べることもあった。父さまは嬉しそうに私を通してひよりさんを見て微笑んでいた。お父さまの目は私を見ていなかった。
私はひよりの形をした飾りだ。
そんな生活が10年も続いただろうか。その中でお父さまは少しずつ老いていった。
時間というものは生命に付着するものなのだろう。ひよりさんは死んで、その体は時間を止めた。私は何も変わらなかったけれども人は変化する。お父さまはだんだんと弱り、いつしかベッドから出ることはなくなった。長くないのは命を持たない私でも、よくわかった。
お父さまはひよりさんではなく私に言った。
「私が死んだら、この屋敷ごと燃やすように」
誰にもここに足を踏み入れてほしくない、そうだ。
お父さまにはひよりさんしかいない。この屋敷にはひよりさんと過ごした記憶が残っている。お父さまはそれを誰にも踏みにじってほしくなかったのだろう。
お父さまはひよりさんが亡くなった日に考えたように、館も自分も私というひよりの体もすべてを燃やして一緒に灰になろうと考えている。
私はお父さまにつくられた。それならお父さまの言うことには従わなければならない。それに私を通してひよりさんを見ていたのだとしても、お父さまは私を大切にしてくれた。お父さまの希望は叶えたいと思う。
お父さまに新しいお茶をいれながら、うなずいた。
間もなくお父さまが亡くなった。
春のはじめのことだった。
お父さまには身寄りもなく、親しい者もいなかった。
お父さまの身を簡単に清めた。お父さまの望みをかなえる前に、最後に屋敷を見回ろうと思った。
庭に出て、屋敷を眺める。
ふわりとした春のあたたかな風を感じる。
この庭は緑の木々ばかりだが、目を少し上げた新谷坂山、療養所のあたりには少しばかりの桜が咲いている。
そこから風に紛れて淡い桃色の桜の花びらがそよそよと流れ着き、私の肩におちた。
私はまた、庭を見渡す。たくさんの思い出とともに。
春はお父さまと新谷坂山の桜を眺めた。
夏は青々と茂る木陰で休んで、池の端から新谷坂山を眺めた。
秋は赤や黄色に色づく紅葉や銀杏を眺め、
冬はしんしんと木々に雪が降り積もるのを館の窓から眺めた。
お父さまは屋敷や新谷坂山の風景、私を通じて、ひよりさんの思い出だけにすがっていた。そして私も気づいた。私の世界にもお父さましかいなかったことに。
お父さまにとって私がひよりさんの思い出のかけらに過ぎなかったとしても、私にもお父さま一人しかいなかった。お父さまにとってこの屋敷や庭がひよりさんと過ごした大切な思い出だったのと同じように、私にとってはお父さまと過ごした大切な場所だった。お父様との思い出がたくさん詰まっている。
ひとりぼっちになった私は、広い屋敷と庭になんとも言えない懐かしみを覚えていた。
その夜、私は台所の薪を屋敷の玄関に移して火をつけた。
けれどもそこまでだった。私にはできなかった。ぱちぱちと火を上げ始める薪を見つめていると、私の全てが失われてしまうような、悲しい気持ちがしずしずと湧き上がり、無意識に台所から水を運び、消し止めてしまった。
もう少しだけ、あと伸ばしにしてはだめだろうか。せめて。
だから私は屋敷の絵を描き始めた。この屋敷を燃やしてしまうとしても、せめて何かの形で残したいと思った。
描き終えたらすべてを燃やしてしまおう。
そう思って筆を構え、池のほとりのベンチに座って絵を描き始める。
ふと、新谷坂山のほうから視線を感じた。
なんだか、ゆるゆると引き寄せられる感じがした。ふっと意識が途切れるような感覚がある。こんな感覚ははじめてだ。
私はその日、早々にキャンバスを片付け、屋敷に戻った。
翌日も絵を描き始める。
しばらくたつと、意識がだんだんと朦朧としはじめる。
なんだかうまく頭が働かない。目をこする。意識が液体だったなら、ストローでゆっくり吸い取られるかのような気持ち。嫌な感じではなかったけど、なにもかもどうでもいいような心地になった。私は屋敷に隠された秘密の部屋にこもって目と閉じた。
それから随分長い間、目覚めることはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます