ささやかな握手
9日目の朝。ベッドを出るのに随分時間がかかった。少し頭が重い。
やっぱり雨谷さんと話をしたい、しないといけない。巻き戻しが続いているなら、次はもう少し慎重に聞いてみよう。いつもと同じように雨谷さんに話しかけよう。でもうまくいくかな。
指で頬を横に引っ張り、ぐにぐにと動かす。うまく表情が作れないや。
続いていなかったら、どうしていいかわからない。謝るしかない。
巻き戻しを止めようと思っていたのに巻き戻ってほしいと願うなんて。はぁ、情けないし胃も痛い。
春の終わり、夏に近づく気配が木々の濃い緑から感じられる。さわさわとそよぐ木陰から日の光がきらきらと降り落ちる。季節は雨谷さんをさしおいてもうすぐ夏になる。
そんな中、鬱々とした気分で、なかなか進まない足を無理にけとばし紅林公園の垣根を潜る。
昨日と同じように池の裏を回ったら、雨谷さんの背中がみえた。いつも通りだけど、少しの違和感。そういえば、今日は画材を持っていない。
今日もひゅぅと強めの風が吹いている。
風で帽子がとばされる前に、絵を持った雨谷さんは振り返って僕を見た。
一瞬、時間も何もかもが止まった気がした。
「……東矢くん……昨日はごめん」
「いやっ! 僕の方こそごめん! ほんとに。どう謝っていいかわからないけど、謝らせてほしい」
慌てて、何を謝るべきかもわからないままに、土下座の勢いで頭を下げる。
巻き戻されていなかった。
巻き戻しがなくてよかった、よくなかった、よかった、よくなかった、頭の中はぐちゃぐちゃだ。おそるおそる見上げた雨谷さんは少し眉を寄せ、なんともいえない困った表情で僕を見下ろしていた。
「東矢くん、昨日は誘ってくれて嬉しかった。でも、私、やらないといけないことを思い出したの」
義務感……。それは何?
ニヤが昨日いっていた言葉が思い浮かぶ。
それが何か、知りたい。けど、僕は昨日の失敗を思い出して次の言葉が出なかった。
そうしているうちに、雨谷さんは話しだしてしまう。
「私と東矢くんは、今日までも何回か会ってたのかな……私は覚えてないけど……そんな気がする」
雨谷さんは小さく頷いて、少し申し訳なさそうな、寂しそうな顔をした。そして、大切そうに絵を眺める。
完成間近だった絵は、どうやら完成したらしい。雨谷さんは池の向こうの紅林邸を見つめながら、再び僕に話しかけた。
「昨日の朝、目が覚めて絵をかこうと思ってキャンバスを見たらおかしいなって思ったの。私がいつも見ていたこの庭と家より、この絵のほうがずっと暖かいって感じたから」
一拍の沈黙。僕らの間に麗らかな日差しが優しく降り落ちている。
「不思議だな、と思って絵を描きに出かけたら東矢くんに会った。昨日以外でも私と会ってくれてたんでしょう? ひょっとしたらもっと前からなのかな。多分、私はとても嬉しかったんだと思う。だから絵も暖かくなったんだと思うんだ。忘れちゃっててごめんね」
雨谷さんは寂しそうに笑う。僕は何と答えていいのかわからなかった。
多分、すごく変な顔をしていたと思う。
「でもお父さまが見てるなら、私はやらないといけないことがあるの。だからもう、ここには来れないと思う。東矢くんももうこないで」
「急に言われても! ……せめて理由を教えてほしい」
僕は慌ててそう叫ぶ。僕が聞いてもいいこと、なのかな、という思いでだんだん小さくなっていく言葉じりに抵抗するように、僕は思わず雨谷さんの手を取った。そして気づいた。怪異の気配に。
雨谷さんの手は予想に反する変な感触がした。
まるで、粘土のような。
雨谷さんの手はしっとりと重く、冷たかった。表面は固いけれど中身はぐねぐねとした、固まりかけた粘土のような感触が手の中に残る。想像していた生きている人の暖かさや弾力とは無縁の、何度か感じたことのある強い死の匂いをまとう感触。
思えば雨谷さんはいつも僕と一定の距離を保っていた。おそらく、僕が彼女に触れないようにと。
そして僕は理解した。雨谷さんは新谷坂の封印から逃げ出した怪異の犠牲者だと思っていたけど、雨谷さんこそが怪異そのものだったんだ。
「……私はやらないといけないことがあるの」
驚きで固まっている僕に、雨谷さんは同じ言葉を繰り返す。
僕はニヤが言っていた『役目のある傀儡』という言葉を思い出す。ニヤの発言は何かの比喩ではなく、そのままの意味だったの?
雨谷さんはぎこちなく笑ってそっと僕の手を離す。
「この絵は東矢くんにあげる。大事にしてくれるとうれしい」
雨谷さんは絵を僕に押し付けて駆け出した。追いかけようとしたけれど、押し付けられた絵にバランスをとっているうちに、雨谷さんは走り去った。
でも、これも言い訳だ。大きめの絵だったけど追おうと思えば追えた気がする。僕の頭はまだぐるぐると混乱を続けていた。
雨谷さんの絵の中の紅林邸の2階のベランダには、優しそうな男性が描き入れられていた。
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