紅林治一郎の回想

 紅林治一郎は、ザァザァと降る雨の中、自宅2階の書斎から新谷坂山を眺めていた。

 治一郎の娘は体が弱く、肺炎を患っていた。不治の病。

 新谷坂山の中腹には療養所があり、娘がそこに入所していた。


 ……わしが16年ほど前に東京に住んでいた時、家の前に赤ん坊が捨てられていた。わしが建築家だと聞き、金があると思って置いて行ったのだろう。無関係な親せきどもはこぞって反対していたが、わしは引き取ることに決めた。

 誰も身寄りのないこの子のことが、自分と重なってみえたのだ。


 わしは田舎の豪農の3男として生まれた。安政3西暦1856年のことだ。

 わしの生まれる少し前に日米和親条約が締結され、日本は開国の道を歩み始めた。年号もくるくると変わり、やれ開国だ、鎖国だと日本国中が大騒ぎをしていた時代である。


 とはいえ、わしが生まれたのは田舎だ。不穏な風のうわさは流れてくれど、そのような世情は田舎者にはさほど関係ないように思えた。

 わしは小さい頃から本が好きだった。家の農業の手伝いの傍ら土蔵の本を読んで育った。しかし跡取りでもない3男であるわしは家を継げるわけでもない。わしは12の時に親戚の伝手をたよって東京で大工の棟梁に弟子入りすることになった。


 そのころはちょうど祐宮さちのみや殿下が天皇に即位あそばされ、江戸の名称が東京に改められたころである。日本の首都たる東京は、その頃のわしには随分きらきらしく見えた。

 とはいえ、なれぬ大工仕事は身にこたえる。体に鞭打ちながら、それでも田舎に逃げ帰らなかったのは理由がある。わしはその仕事と師匠の技をひどく気に入り尊敬していたのだ。


 わしが弟子入りした師匠は当世風にいえば、欧風建築の大家であった。

 師匠は気難しい人ではあった。だがわしは字が読めたおかげか、かわいがられたのだと思う。

 師匠はとても誇り高い人で、自分の技術に強い自信を持っていた。もともと師匠は江戸の神社仏閣をはじめとした木造建築の棟梁であったと聞くが、西欧から入ってきた石造りの建物を研究し、また異人の技師に頼み込み、研鑽を重ねたそうだ。

 師匠は日本の木の技術と西欧の石の技術をこねあわせ、これまでにない堂々としつつもまるで夢か幻のような優美さを兼ね備えた建物を作り出していった。それはまさに新しいものを生み出す力強さにあふれていたが、一方ひどく非現実的な光景のようにも思えた。


 師匠の名は世間に響き渡った。だがその頃からわしの人生は少しずつ傾いていった。

 実家の両親と兄弟の訃報がとどいた。大雨が降り、川が決壊して全て流されたそうだ。

 決壊の話を聞いた時にはすでに、両親と兄弟の葬儀も終わった後であった。名もよく知らぬ親戚から、両親の田畑をよこせという手紙が何通も舞い込んだ。わしもいまさら農作業などわからぬ。面倒だからくれてやれと何やら送られてきた書面に判子を押して送り返したら、音沙汰はなくなった。

 不幸は重なる。まだ40ほどの若さで師匠は亡くなった。流行り病である。あっという間のことだった。

 流行り病にかかる前から師匠には予感はあったようで神社やなにやらのまじないに傾倒していた。が、結局間に合わなかった。


 わしは学がないぽっと出の田舎者である。わしの建築は田舎臭いだの師匠に贔屓されただの、あることないこといろいろ言われるのだ。下手に出て機嫌をとることもできたのかもしれぬが元来偏屈なわしには困難であった。

 わしは東京で一人、頼るものもなく働かざるをえなくなった。

 だがわしには師匠の残した技術がある。それを頼りにわしはなにくそと思い、仕事を続けた。わしは師匠にあやかり、名を紅林に変えた。そのおかげか、いつしかいっぱしの建築家としてそこそこに名が売れるようになっていった。


 くだんの女児がわしのもとに現れたのはちょうどその頃である。

 頼るものもなく必死に働き、ようやく一息つけるようになったわしは、急に人寂しくなったのだ。女児はわんわんと泣き喚くばかりだったが、その頼りなさがわしにはたまらなく愛おしく思えた。

 わしはその子に太陽によりそわれるように幸福に生きてほしいと『ひより』という名をつけた。


 子供のことはわからん。わしは家政婦を雇い世話はまかせた。たまに様子を見ても、どのように扱えば良いのかわからぬ。恐る恐るその小さな手に指をのばすと、意外なほど強い力で握り返され、驚いて部屋に逃げ帰った。

 とーたま、と呼ばれるようになる頃には目に入れても痛くないとはこのことか、と思えた。

 だが幸せは長くは続かなかった。


 ひよりは8歳の時に結核を発症したのである。死病だ。治療方法はなく、空気の良いところで療養するしかなかった。

 ゼェゼェと苦しそうに息を吐くひよりを見てすぐに東京の自宅を引き払い、評判の良い療養所があるという新谷坂に引っ越した。

 口さがないものは、やれ逃げただの負け犬だの色々言っていたが、かまうものか。そなろにはわしにとっては、ひよりが何より大切だったのだ。

 わしはひよりをその療養所にいれた。


 山の綺麗な空気がよかったのか、ひよりはなんとか持ち直した。

 わしは療養所の麓の土地を買い、家を建てた。

 南向きの療養所からよく目立つよう、屋敷は漆喰で白く塗り固め、気分が明るくなるようにと屋根は青く塗った。まわりの住民には妙な家だといわれたが、なにかまうものか。ひよりが少しでも慰められるよう庭師と相談して庭も整えた。


 ひよりは体調が良い時には家まで降りてくることができた。そんな時には庭のベンチでぽかぽかとした日差しを楽しんだ。

 痩せてはいたがだんだんと大きくなる娘の成長は喜ばしかった。とても。


 しかし、そんな時間ももう終わった。

 昨夜、ひよりが亡くなった。最後には哀れに痩せ細り、ホゥ、と小さなため息をつくとともに、すべての息を吐き尽くしたというかのように静かに息を引き取った。まるで明るい太陽がすっかり夜に絡め取られてしまったように。


 今はひよりを引き取る準備のために家に戻ってきたところだ。

 わしの手から幸せは全てこぼれ落ちてしまった。もうなにも残っていない。

 こうなってしまったからには、もう何も未練はない。ひよりのために建てたこの家と一緒に全て燃やしてしまおうか。ひよりと一緒に灰になれば、一緒に天国に行けるやもしれぬ。あるいは来世でも巡り合えるかも知れぬ。

 もう何もないのだ。わしにはもう、ひよりしか。


 もう一度、療養所のある新谷坂山を眺めた。

 暗く冷たい雨に遮られ今は何も見えない。全ての温かさを吸い取って、なにもないぽっかりした闇がわしを見つめているように感じられた。

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