序詞 幸運なあいつの日常
翌朝。日差しはそれなりに暖かいのに冷たく強い風が時折吹く。だから教室に急いでいたら、担任に呼び止められた。
ざわつく朝の職員室。少し言いづらそうにきり出された話は、案の定、昨日の電車の件だ。電車で話を聞いていた誰かが学校に通報したらしい。制服着てたしな。
少年のお姉さんが襲われたのは先月。そもそも俺は入学していないし制服を持ってもいないと主張すれば、担任は首をひねりながらも納得する。
「まあ藤友はそんなことをするタイプでもなさそうだよな。何かの間違いだろう」
いざという時に疑われないよう、素行には注意している。きちんと挨拶もして、ゴミが落ちているのに気づけば拾う。こういう普段の積み重ねは意外と印象に残るものだ。俺はそんなふうには見えないらしいから。
間違えられたのは心外だとアピールしつつ、他に該当しそうな人物がこの学校にいないか聞く。『俺が犯人かもしれない』より『俺ではない奴が犯人』と確定するのが望ましい。けれどもやはり、制服と背格好、額の傷だけでは該当人物は絞り込めそうにない。
職員室を出、教室に向かう。教室にもこの噂が流れているんだろう。けれどもこっちは何とでもなる。教室には
ガラリと教室の扉を開けると、一瞬視線が集まり、そしてヒソヒソとしたざわめきに満ちた。だから早速アンリを見つけ、大きめの声で話しかける。
「アンリ、何故だかわからんが、先月この近所に住んでる中学生の女の子を殴ったって疑われてるんだ」
「ハル君そんなことしないでしょ?」
「しないよ」
「だよねー」
アンリはニコリと笑う。これで大丈夫だ。
次の瞬間、教室内の空気が目に見えて緩和された。
アンリは俺の幼なじみ兼同級生で、俺と同じく今年から新谷坂高校に入学した。小動物のようなかわいさでニコニコと愛想を振りまくものだから、学校に入ってまだ4日目だがすでに教室でも人気者になっていた。つまりアンリの言うことをみんな信じるようになっている。
これでしばらく不要な外出を避けて寮にこもれば大丈夫か。ああでもバイト入れないと金が厳しいな。
ダメ押しをしておこう。真犯人が見つかりますように。
「そういえばさ。その女の子殴った奴、俺に似てるんだってよ」
「どのへんが?」
「この学校の制服着てて俺と同じくらいの背格好らしい。それから額の左に傷があるんだってさ」
「へぇ。ハルくんに似てる人がいるんだ。おもしろーい」
アンリはケラケラと笑う。
「犯人見かけたら教えてほしいって言われてるからさ。わかったら教えてくれないか」
「了解でーす」
アンリは灰茶色の髪をくるくる弄りながら、早速同級生のもとにパタパタと走り去る。情報は本当に乏しい。けれどもこれで放っておいても、アンリのもとに、集めうる限りの情報は集まるだろう。
まもなくチャイムが鳴り、午前の授業が始まった。
教室の窓から見える校庭にはひときわ大きな桜の木が見える。既に鮮やかな黄緑色の葉で覆われていたが、その奥にまだ少しだけ朱色を残している。今週末にはすっかり緑になるだろうか。見上げた空は薄い青色が広がり筋雲がたなびく。ぼんやり見ていると、どこかからフィチフィチというひばりの鳴き声が聞こえる。春だ。
授業中は誰も話しかけてこないし、変なことも滅多に起こらない。平穏を少しばかり感じられる貴重な時間だ。
昼休み。アンリは早速情報を持ってきた。
「みんなにいろいろ聞いてみたけど、おでこに怪我してる人は見つかんなかったよ」
「そうか。ありがとな」
「どういたしまして」
アンリが調べようとしてわからないなら、在校生ではいないのかもしれない。そうすると卒業生か?
「ねぇ、私も見に行っていい?」
何を?
そう思って気がついた。これは案外いいアイデアかもしれない。
アンリは常軌を逸して運がいい。アンリが会いたいと思えば真犯人に会える、気がする。真犯人が早く捕まれば俺は安泰だ。そしてアンリの近くにいれば俺はアンリの幸運のおこぼれに与れる。相対的に危険も減る。
正確に言うとアンリは狂っている。だからアンリのせいでおかしなことに巻き込まれることも多いが、既に不幸の呪いにかかっている俺としては収支は圧倒的にプラスだ。
だから現場に行くことになった。
放課後、少年の家があると聞いた駅で降りる。やはり初めて降りる駅だ。
駅舎から出るとロータリーが広がり、2つのバス停とコンビニがある。その奥は4車線の大きめの通りに面してチェーンの喫茶店やファミレスがあり、それから居酒屋や本屋が入った雑居ビルが少し。その奥には一軒家やアパートが広がっていた。
よくある住宅街だ。平日夕方の早めの時間帯だからか人通りは少ない。
どうするのがいいかと見回すと、さっそく昨日の少年と出会う。
やはりアンリのラックは尋常じゃない。
「あ、お兄さん。……昨日はごめんなさい。どうしてここに?」
「友達が心配してくれたんだよ。俺に似たやつが悪いことをしてるなら見てみた、いや、誤解を解きたいと。こいつも俺と一緒にこの4月から新夜坂に引っ越してきたばかりだ」
「アンリだよ! よろしくねー」
面白がって見に来てただけだが少年は何故か納得したような、申し訳なさそうな顔で俺を見上げた。
「そう……なんだ。よかったら姉さんが襲われたところを見に行く? すぐ近くだから」
本当にトントン拍子だな。狂気的な幸運。
頷いて少年の後に続く。そこは駅からすぐの路地裏。夕方でオレンジ色の煙る少し寂しい住宅街の一角に差し入る。
「ここで姉さんが殴られたんだ。傷はもう治ってて、病院の検査では悪いところはないはずだって言われたんだけど今も目を覚まさない。ずっと辻切中央の病院で寝たまんま」
「それはご愁傷さまだな」
「うん。それで姉さんと一緒にいたのは友達1人だけで、誰も他に目撃した人なんていないんだ。だから警察もあまり調べてくれない」
少年は悔しそうに拳を握り込めている。
昨日もそうだが今日もお姉さんのお見舞いに行くところだったそうだ。
一軒家に挟まれた幅3メートルくらいのありふれた路地。見通しが悪いというほどではないが今も人通りはない。見回しても監視カメラの類も設置されてなさそうだ。
被害届は出したようだが、これで目撃者もなければ探しようはないかもしれないな。すぐ近くの壁にここで女子中学生が殴られたことと目撃者は連絡がほしいという少しだけ色あせたポスターが貼られていた。この子の家族が貼ったものだろう。
そこに中学生くらいの女の子が通りかかる。
「あ、あの人が目撃した友達で」
「あの人が突き飛ばしたんだよ」
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