一歩ずつのその先

 この様子だと、ナナオさんが無事に井戸の底まで降りられるかすら心配だ。でも、ナナオさんの瞳を見ても、行かないという選択肢はないらしい。

 僕は、ハァ、と小さくため息をつき、ナナオさんの持つロープを奪う。ささくれて、ちょっと湿ったざらざらした感触をきゅっと握りしめる。

「僕がいくよ」

「や、あたしが行くよ、なんとかしたいのはあたしだからさ」

 ナナオさんが焦って両手を伸ばして僕からロープを取り上げようとするけれど、僕はさらに手を伸ばしてロープを遠くに押しやる。

「そんなこと言って本当は怖いんでしょ? それに、女の子を危険なとこにいかせて僕だけ残るのはカッコ悪いじゃん。それから……何かあった時に僕はナナオさんを井戸から引き上げる自信がない」

 僕は肘をまげて力こぶができないところをナナオさんに見せつける。

「ちょっ、そりゃないだろ!」

 ナナオさんはふくれて少し笑う。けれどもまあ、それも事実だ。

 僕は基本的にはインドア派で、力に自信なんて全くない。ナナオさんは僕より身長も高くて健康的だ。引き上げる自信なんてまったくない。

 僕も怖い。怖いんだけど、それでもナナオさんを行かせるわけには、いかないよね。

 それに絶対何も考えてなさそうだし。


 そうして改めて井戸を見下ろすとぽっかり闇が口を開けていた。

 これ、降りるのか。

 喉からヒクッと変な音が出る。

 でも僕は諦めた。諦めて、あんまり考えないようにして準備を進める。桶とロープの結び目をリュックから出した登山ナイフで切り離す。桶は穴が開いていて使ってなさそうだし、水もほとんどないようだからロープをもらってもいいよね。

 ロープを荷物を全部取り出して空にしたリュックに括り付けて井戸の底に落とす。これで井戸の深さと水の深さがわかる。リュックを引き上げると下から2センチくらいの高さでぬれていた。水はほとんどなくて、衝撃の吸収は期待できそうにない。

 井戸の入り口から底についたロープの長さはやっぱり10メートルほど。命綱にするには僕が井戸の底から1メートルくらい浮く高さでロープを調節するのがいいのかな。ベルトの下にロープを解けにくいもやい結びに巻きつけて、井戸の高さを計算して、近くの太めの木までピンと張って命綱を括り付ける。

「おお、なんかすげぇな」

「ナナオさん、闇雲に飛び込んだって底まで落ちるだけなんだからね、本当にもう」

 一応ロープは備えたけど、古いからあんまり信用できない。だから結局は手足で支えながら少しずつ降りるほうがいい。垂直降下なんてやったことないし。


「じゃぁ、ナナオさん。僕は行ってくるけど、何かあっても絶対に井戸の中に入ってこないで。何かあった時は警察を呼んで。でも山を下りるのは日が出てからにして。わかった?」

「お、おう。わかった」

 ダメなことはちゃんと言っとかないといけない。ナナオさんは本能で動くから。

 覚悟を決めて井戸の淵に座る。懐中電灯とか最低限のものだけをポケットにしまう。プラリと浮いた足をささえるものはなにもない。湿度がじわりと体に絡まる。

 東矢一人、覚悟を決めろ。

 僕は自分にそう呼びかける。

 どうせ真っ暗だ。両手両足は塞がる。目をつぶって降りても同じだよな……そうしようかな。このどこかともなく次々と湧き上がってくる恐怖を、少しでも抑えたい。

「それじゃ行ってくるけど本当に無茶はしないでね? 僕が井戸から出られなくなった時にナナオさんに何かあったら、だれも助けにこれないから」

「わかった」

 ナナオさんは神妙な顔で返事する。

 何故降りる僕のほうが注意をしてるんだろ?

「貞代とかでないように祈ってる」

 本当に一言多い……。

 けれども僕の心は少しだけ軽くなる。僕一人じゃない。ここにはナナオさんがいる。

 目をつぶって降り始める。

 井戸の中はひんやり涼しく、手足を支える石壁はとても冷たい。一歩一歩、手足をひとつずつ、交互に20センチほどずつ下げていく。時々背中と足で踏ん張って手を休める。少しずつ遠くなっていくナナオさんの励ましの声だけが頼り。

 たまに変なこと言ってるけど。


 どのくらいの時間がたったのか、石の冷たさと筋肉の緊張で手足の感覚がすっかりなくなったころ。ようやく腰に張られたロープがピンと引っ張られる感覚がした。ポケットに入れていた小さな石ころを取り出して、落とす。すぐ近くでピチャンと水音がする。いつのまにか井戸の底に着いていた。

 腰のロープをほどいて少しの距離を飛び降りてパシャっと着地する。1メートルほど余裕を見ていたつもりなのに、井戸の底まではどうやら30センチほどだった。

 ロープの伸びを計算にいれてなかったかも、やばかったな。


 上を見上げる。

 この井戸は屋根があるから月や星の光も見えない。上も下も真っ暗闇で、どっちが上なのかよくわからなくなってくる。

 ポケットから懐中電灯を取り出してナナオさんを呼びながら上に向けて振った。

 真っ暗な中でチカリとスマホの光が瞬いた。結構小さい。星みたいだ。10メートルくらいって、思ったより遠いものなんだな。なんだか少し、違う世界に来てしまったような、不思議な感じがする。

 足が地面についている安心感からかもしれないけれど、井戸の中は上から見下ろした時の吸い込まれる恐怖は少し薄れていた。むしろ最初に神社を見た時とと同じような、神聖さを感じた。

 けれども僕はここを調べないといけない。床に懐中電灯を向けると、薄く流れる水に光が反射し、ぼんやりと僕の足を浮かび上がらせる。懐中電灯を左右に振ると、僕の背丈寄り少し低いくらいの高さの横穴を見つけた。

「ナナオさん、横穴があった。行ってくるね。万一僕が帰ってこなかったら、さっき言った通り警察を呼ぶか、ちゃんと朝になって明るくなってから下山して!」

「わかった!」

 大きな声で叫ぶと、上から小さな声がした。僕の隣では井戸の上からロープがたれているのだろうけど、真っ暗でよくみえない。なんとなく、蜘蛛の糸のカンダタを思い浮かべた。

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