見下ろした先の恐怖

 手早く夜食の後片付けをして、僕とナナオさんは井戸をのぞき込んだ。井戸は神社の中でも手水舎の裏手、森の近く、ようするにこの神社内のどこよりも真っ暗なところにあった。

 井戸は板でふさがれ、その上に網がかけられて、人が落ちないようになっている。でも鎖や鍵で留められているわけではなくて、簡単に取り外せた。

 新谷坂神社は山の上にある。だからわざわざ子どもが悪戯をしに来たりはしないだろうし、水を汲もうとする人も、ましてや入ろうと思う人もいないだろう。警備は案外ゆるそうだ。

 井戸の直径は80センチメートルぐらい、ギリギリ一人なら入れるくらいだろうか。なんていうか、桶の滑車が設置された屋根がなければリソグで貞代が出てくる井戸にそっくり。嫌なことを考えてしまう。

 恐る恐る覗き込んだ井戸の中はさらに暗く、吸い込まれるような闇が広がり、見ているだけでどこまでも落ちていくような気分になる。ふう、と吐いた吐息が空気を揺らしながらその奥底まで落ちていく。

 奈落、という言葉が頭をよぎる。見ているだけで平衡感覚が狂いそう。


 ようするに、ものすごく、怖い。

 これはお化けが怖いとかそういう怖さと全く違って、純粋に命の危険を感じる恐怖。ぽっかり空いた黒い穴を見ているだけで、全身が震えるて心臓がヒュッとする。冷たい石のへりに触れる手が震える。

「ナナオさん、あの、本当にここに入られるんでしょうか?」

 思わず変な敬語が出た。

 なんていうか、ここに入る選択肢はありえないのではないでしょうか。

 けれどもナナオさんは平然とつるべを結ぶロープをギュギュッと確かめながら、何いってんの、って顔で僕を見る。

「大丈夫だって、私が入るからトッチーは上で見張ってて」

「いやいやいや、そういうわけにはいかないでしょ!」

「いや、だって、どっちか上で待ってないと何かあった時こまるじゃん?」

 まあそうだけど。そうだけど!

 僕がここに残ってナナオさんを井戸に特攻させるわけにはいかないじゃないか。さすがに。


「ちょっと冷静に考えようよ、どのくらい深さがあるかわからないし」

 ナナオさんはその辺の石をつかんで、おもむろにポイと井戸に投げ入れる。

 すぐにピチャっという音とカツンという音がした。あれ、あまり深くないのかな。

 でも確か、垂直落下の場合は1秒で5メートル、2秒で20メートルくらいだった気がする。10メートルちょっとくらいはありそう……。ひゅうと井戸の底から冷たい風が吹く。

 ナナオさんが掴むロープも古びているし、丈夫そうでもない。

「そんな深くなさそうだし、大丈夫じゃない?」

 ナナオさんの楽観はどこから来るんだろう?

 考えているうちに、ナナオさんは、よっ、という掛け声とともに気楽に井戸の淵に足をかけたものだから、あわててナナオさんに抱き着き井戸から引きはがして井戸のそばに倒れ込む。

「おおっ!? トッチー積極的だな」

「……ナナオさんさぁ、ほんとは怖いんでしょう?」

 ナナオさんに抱きついた時にわかった。ナナオさんの膝はカクカク震えていた。やっぱり強がってるだけだ。

「……そんなに無理しなくてもいいんじゃないかな。ナナオさんの予想通りなら、この下に封印があってあの子の親がいるとし

たら、それこそ僕らにはどうしようもない。無理だと思う」

「でもさぁ。……やっぱり可哀想だよ。なんとなくさ、できるところまではやってあげたい」

 ナナオさんは眉毛をへの字に曲げて星空を睨んだ。

「なんでそこまでに気にするのさ。そこまでする義理はないでしょう。ここで朝まで待とうよ」


「そうなんだけどさ……。あんね、あたしあのくらいの歳の時に神隠しにあったことあるんだよ」

「神隠し?」

「うん。その時ずっと霧の中みたいなところにいてすっごく心細くてさ」

 なんだか急にふわふわした話になってきた。でも神隠しにあった人の体験談で、そういう話を聞いたことはある。

「それで霧の中で誰かに助けてもらったんだよ」

「誰か?」

「真っ白だったからよくわかんなくてさ。出たいかって聞かれた。でも代わりに何かよこせっていわれて困っちゃってさ」

「何か?」

「うん。でもその時に別の人の声が聞こえてさ。こっちにおいでっていう」

「誰か二人いたの?」

「そうそう。それで声のする方に行ったらいつのまにか新谷川にやがわのとこにいて。助けてくれたのはどんな人だかよくわからないんだけど、もうここには来ちゃダメだよっていわれたの」

 何だかとても不思議な話だ。全てが不確かで、何だかふわふわしていてよくわからない。

「その話は聞いたことない」

「うん、誰にも話したことないかもな。なんつか自分の体験した話ってうさんくさいだろ? それに何が何だかよくわからないしさ。説明しづらくて」

「うん」

「それでその人にありがとうっていったらさ、今度はあたしが困ってる人を見つけたら助けてあげてって言われたんだよ。だから困ってる子はなるべく助けようと思ってるんだ」

「お化けでも?」

「うん。助けてくれた人もお化けな気がするから。多分ね。お化けでもいろんな人がいる。あの子は悪い子じゃないと思うんだ。あたしらを直接みない限り」


 悪い子じゃない。それは僕もそう思う。けれどもその、『直接みない』というのが問題で、僕は『直接みられた』ことを考えて、どうしてもその結果は是認できなかった。

 けれどもナナオさんはそうするって決めていて、カクカク震えて井戸のそばにへたり込みながらもまだ、つるべのロープを握りしめていた。

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