大きな口の、小さな口だけ女

「口だけ女?」

 その単語に、ちょっと変な声が出た。なんとなく、妖怪キャッチにそんなのがいた気がする。目鼻がなくて口だけで微笑んでるかわいいキャラ。とりあえず僕は震えるナナオさんに僕の上着をかける。

 ナナオさんの白いカーディガンは破れて血が滲んでいた。ライトで照らすと大きな擦り傷。

「痛い痛い染みる」

「ちゃんと傷口を洗わないと」

「だって痛いんだもんよ」

 特に腕の擦り傷は広範囲で、痛そうだ。絆創膏じゃカバーできないから水筒の水で表面を洗って消毒しただけ。本当は被覆材か何かで覆ったほうがいいんだろうけど、さすがにそこまでは持ってきていない。

「それで何があったのさ」

「えっとな。山にいけば木があると思って」

 ナナオさんは絵馬の代わりを探して、裏山に分け入ったらしい。

「山って真っ暗でしょう? 明かりはどうしたのさ」

「登り道だから後ろを振り向けば夜景が見えて神社には帰れると思ってさ」

「見えるわけないでしょ、山なんだから」

 さすがに迂闊だ。この山の木はわりと高い。だから少し上れば夜景どころか星すら見えなくなるだろう。夜だから方向もわからないだろうし。チャレンジャーというよりは無謀だ。

 そしてやっぱり見えなくて、方向を見失ったらしい。

 それでともかくナナオさんは闇雲に彷徨っていたけれど、しばらくしたらどこからか子どもの声が聞こえた。樹々がざわめく真っ暗な中で泣き声がしくしくという湿った音が響きわたり、その声が木々の間に拡散していたそうだ。

「なに考えてるのさ。こんな時間に山に子どもがいるとしたら、幽霊とか妖怪しかありえないでしょ」

「だろ? そう思ったから声のする方に行ってみたんだ」

 一安心して少し復活したのか、ナナオさんはなぜか腰に手を当てて得意そうに宣言した。発想が普通と逆じゃないかな。

「そんでさ、探してみるとボロっちい着物きた八歳くらいの女の子がいてさぁ……それがすっごい悲しそうな声で泣いててさ」

 なんだかものすごくテンプレートな展開で、それはもはや妖怪としか思えない。

 ナナオさんは思い出すように頭を掻いて、僕から目を逸らす。なんとなくこの後の展開が読めてきた。少し頭が痛くなる。これまでの短い付き合いでも、ナナオさんは困ってる人を放っとけない人だって知っている。

「まさか声かけたの?」

「うん。どうしたのって声かけちゃった」

 それは一番やっちゃ駄目でしょう。誘い受けってやつじゃないの。

「そしたら振り返って目があって、結構かわいい子だなって思ったら急にさぁ……」

 ナナオさんは思い出して目元が少し泳ぎ、両手で肩を抱いて再び顔色が青くなる。

「あのさ、信じてくれるかわかんないんだけど」

「うん」

「なんか急に女の子の口がメリって口裂け女みたいに耳まで裂けたんだよ」

「うわ」

「そんで耳まで裂けたら今度は口が上下に大きく開いていって、ええと、なんていうかな、下唇があごのほうに、上唇が頭の方にゴリゴリと開いてってさ、メリメリいいながら最後にはべろんって、頭の皮が全部めくれて頭全体がひっくり返した口の中みたいになった」

「え、ちょ、ちょっと待って」

「それからゴム手袋をひっくり返したときみたいにどんどん口の中の部分が外側に広がっていってさ。腰くらいまでめくれて垂れ下がって。最後には、なんていうんだろ、筒? 直径1メートルくらいのてらてらした口の中が頭の上? にあって、そっから太い舌がでてた」

「……」

「ええと、それでその腰まで垂れ下がった口のふちの外周にぐるっと歯が並んでてさ。その下にある身体から手とか足とかが生えてる化け物になった」

 背筋を悪寒が駆け上がる。ナナオさんの語尾も少し震えている。その表現と描写におののく。ナナオさんが記者になりたいのは知ってるけど、そんなに具体的に聞きたくなんてなかった。

 口だけ女、恐ろしすぎる。そんなもの直視したら耐えられない気がする。そんな者が間近にいたと思ってしまえば、ざざりと風で揺れる茂みすら恐ろしくて仕方がない。


「よくそれで逃げられたね」

「うん、一目散に逃げ出したよ。ほんと。口だけ女はいろいろゴツゴツぶつかりながら追いかけてきてさ、たまに転んでたから何とかここまで逃げてこられた。口だけだと目がないから走りづらいのかも」

「う、うん」

「でもそこでこけちゃってさ。もう駄目かと思ったらそこの5メートルくらい先の茂みのところで口だけ女が止まったんだ。そんでこっち側には入ってこなかった。トッチーが突っ込んで行きそうだったから慌てて止めた」

 その発言にどっと冷や汗が出る。

 危なかった。危機一髪だ。

 なんだか頭がひどく混乱している。

 本当にそんな化け物が、いるの? このすぐ目の前に。

「よくわかんないけどでもここはもう神社のすぐそばだから、神社の封印が守ってくれたのかもね」

「神社の封印?」

「……」

「……」

「なんでキョトンとしてるんだよ⁉ 封印されてるから神社登ろうって言ったのはナナオさんじゃないか⁉」

「お、おう、そうだった。」

 誘った理由を忘れてるとか論外だ。

 でもなんていうか、そんな恐ろしいものに追いかけられたら全部吹っ飛んでも仕方がない、のかな。いや、目的が絵馬だから素で忘れてる可能性はある。

 とりあえず、一息つこう、と残った水筒の水をナナオさんにすすめる。

「ありがとな。そんでどうしよっか」

「うーん。もしここが安全なら、少なくとも朝までは神社にいた方がいいのかも。真っ暗な帰り道で襲われたらどうしようもなさそう。それに第一、夜は迷いそうだもの」

 山で迷う一番の原因は、闇雲に下ることだ。

 登り道は最終的には頂上に向かっているけど、降りる時はどの方位にも降りられる。だから道があっても道に迷う。その複雑な陰影で道を見分けるのは困難で、夜ではそれすら見えないから。いつのまにか獣道に入っていて、そのうちそれも途絶えててどこにいるかわからなくなることも多いらしい。

 月は頭の上で明るく照っているけれど、少し下れば町までの間に林がある。登るときですら迷いかけ、あまり見えなかった。急いで降りるなら尚更迷うかもしれない。

 でも朝になって明るくなって下りれば、新谷坂にやさか山はハイキングコースだから、人にも会えるし、遠足でも来たから大丈夫だと思う。

 そんな算段をしていたけれど、想像の斜め上を行くナナオさんの発言に驚愕する。

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