本当におばけが出るって思わなかったんだって!
ゴォウゴォウという背中から吹き寄せる風とは異なる音が、確かに背後を追いかけてきていた。
私は結構足が速い。クラスで女子では一番、男子も含めても多分三番目に入るくらいには。だから必死でソレから逃げる。けれどもソレは私より更に足が早そうだ。時折妙にもたもたと転げてスピードが落ちるからこそ、なんとか均衡を保っている。私が転べばあっという間に距離は詰められ、捕まってしまうだろう。そうすると多分、あの大きな頭に飲み込まれてしまって。
そう思うとゾクリと冷たい汗が背中に伝って足がもつれそうになる。無意識に握り込んだ手のひらの中に、伸ばした爪が刺さる。
何でもっと走りやすい靴を剥いてこなかった。
踏みしめるたびにタッタと鳴る足音が恨めしい。でも大きく踏み込まないと、この速度は維持できない。そしてこの大きな音でこちらの当たりをつけてソレは追いかけてくる。
ああ、本当にもう駄目かもしれない。ふくらはぎがピクピクと痙攣を始めた。目の前が暗くなる。思わず見上げた前方に、小さな星が瞬いた。
空? そうか、木立が切れた。そうすると神社はもうすぐ先だ。神社まで戻ればトッチーがいる。野犬は二人いれば襲ってこないという噂だった。
野犬? あれが野犬のはずがない。
だってあの、ずらりとならんだ歯と暗黒のように広がるその喉の奥。
化け物。
それ以外に言いようがないその姿。けれどもとりあえず神社まで辿り着ければ。
そう思って大きく踏み込んだ足は、ガツという音とともに木の根かなにかが引っかかり、ずでという派手な音とともに地面に放り出された。
もうダメだ。そう思って振り返って目を閉じる。それはもう、すぐ背後を走っていた。だからすぐにでも追いつかれて襲いかかられて。
怖い!
助けて!
ヤバイ!
……。
…………。
…………?
何も、ない?
恐る恐る、目を上げるとさっき飛び越えてきた木立がガサと揺れた。
全身が引きつる。全身から血の気が引く。
ヒッという高い声が自分の喉から漏れた。
……けれども。
けれどもその揺れは1メートルほど先の葉っぱの表面でとどまり、ぐるぐるという唸り声はするものの、こちらには、こない、のか?
慌てて何とか体を起こせば、倒れた衝撃で打ち付けた膝としたたかに地面に擦り付けた右腕がひりひり痛む。それでもなんとか少しでもと後ずさる。目は茂みから離せない。目を離して追いかけられたらどうしよう。その根拠のない恐怖が私を襲う。
そうすると、急に私を呼ぶ声が聞こえた。心の底からホッとした。けれどもその声は私の隣をかけてその茂みに突っ込みそうだったから、思わず腕を捕まえた。
「ナナオさん、何か」
「黙って」
思わず悲鳴のような声を上げる。その自分の声にすら恐怖は伝染し、トッチーを自分が隠れる陰に引きずり込む。
状態を変化させたくない。この危うい均衡を崩したくない。
ざわざわという風とざらざらという目の前の葉擦れ。
果てしなく続きそうなその時間。
けれどもそれは唐突に終わりを告げた。
その何かは小さくうめき声を上げ、山の奥に戻っていった。
それでもしばらく私は動けなくて。そんな私の恐怖の中で、隣りにいるトッチーの僅かな体温だけが拠り所で。そして突然、その強い恐怖の気配はサラリと溶けて消え去った。まるでお湯に砂糖を溶かし込んだように。
その変化に呆然とする。
今のは何だったんだ? まさか幻?
そう少しだけ安心した瞬間、私は力を失ってへたり込んだ。
体が物凄く重い。一呼吸すると、急に手足のこわばりと痛みが体中に伝わる。
っ痛ぁ。
ハァハァと息を吐きながら見回せば、倒れたここは本当に神社のすぐ側らしくて、すぐ後ろには神社の石壁が並んでいた。その先にはちろりと星が見えた。
あれは、一体、何?
それに、なんで、こんなことに。なった、んだ。
そう、それは私がトッチーを誘ったからで。私がこの新谷坂神社に絵馬を奉納しようとしたからで。
トッチーに話した野犬の話。あれはどこで聞いたんだっけ。
そうだ。兄ちゃんの友達だ。
win-winの関係?
いや、違う。この絵馬の話は私の友達から聞いたんだった。
友達っていっても隣のクラスの子のお姉さんの友達っていう実際あったことはない人だけど、新谷坂神社に絵馬を奉納したら彼氏ができるって。
「なんか最近おもしろい噂ない?」
「んー、そういや新谷坂神社に絵馬を奉納すると彼氏ができるって聞きましたっ」
「へぇ」
「でも定期的に流行るんだよね、この噂」
「そうなの?」
「そうそう界隈で。あーうーん、ナナは止めても行っちゃうんだろうなぁ。でも一人で行っちゃ駄目だよ」
「何で?」
「何でって夜に山行くのは駄目でしょ、っていう以前にあそこは野犬が出るんだ」
「野犬?」
野犬が、出る。
そんな噂はたまに聞く。でも実際に野犬に襲われたって話は聞いたことがない。蛇が出るから近づくな。熊が出るは流石に最近聞かないけれど、何やかやと危ないところに近づかせないための常套句、だと思ってた。
こっからが三枝さんに聞いた話だ。確かうちに遊びに来てた時。
「いや、本当なんだよ。実際何人か死んでる」
「まじで?」
「そう、あーうーん、食い散らされた死体が何年かに一回出る。だから、本当はもっと犠牲者は多い、と思う」
「だから?」
「そう。骨は噛み砕かれているそうだ。だから夏なんかは、あーうーん、えーと、夏というのは死体が骨になるのが速いんだよ」
「腐るんっすね」
「まぁ有り体に言うと。だから多分、夏に襲われたらまるごと、えーと、うん、バリバリと」
三枝さんは一応私を配慮してヤバイ部分はぼかすけど、聞けば教えてくれるんだ。私が記者になりたいのを知っている。そんで何でも知っとくのはいいことだろうって説得したから。
「でも二人で行けば大丈夫、だと思う」
「ん? 何で?」
「そういえば野犬の報告自体はないんだよな」
「報告が?」
「そう、誰も野犬は目撃していない。二人いればどちらかは逃げられる。けど、目撃情報がない以上、二人で襲われたパターンはない。そして二人分のDNAが一度に見つかったこともない」
「じゃあなんで野犬だってわかるんすか?」
「一応野犬らしき唸り声を聞いた人はいる。えーとうーん、死体の骨やその他から見て、食い散らかされたとしか思えない、から。えっとそれで恐らくそれは死体を隠している。大量のフルセットの死体が出ていれば、流石にニュースになる」
死体を隠す? そういえば熊やなんかは死体を隠すと聞いた。それで冬を過ごすとか。
じゃあそれは熊? ではなく野犬? 野犬は死体を隠すのか?
テレビで見たハイエナを見れば死体は平地で食べていた気がするけど。
「実際のところはよくわからない。ええと、聞きたい?」
「当たり前じゃないすか」
「秘密だよ。見つかるのは腕とか足とかのさらに一部なんだ。その破片を検死した医者が言うには、たくさんの唾液と歯型が付着していた。けれどもそれはいずれも犬のものじゃなかった。そして熊のものでも。そしてこの世のどんな生き物ともDNA型が一致しなかった」
「じゃあ何なんです?」
「わからないんだ。でも世の中にはわからないものというのはままある。この世界では特にそれを実感する。けれどもそれを暴いちゃ駄目だよ。たいてい碌な目にあわない。でもナナちゃんは多分行っちゃうんだろうね。行くなら必ず二人以上で行くように。二人以上での目撃例は存在しないから」
野犬。
けれどもあれは確かに野犬ではなく、熊でもなく、この世の何者でもなかった。
冷静な頭で考えてもそう。
ふと、トッチーと目があった。心配そ。ごめん、思ったより危険だった。連れてきちゃって。でも三枝さんの話だと二人なら大丈夫のはず。それに、最初に見たあれは……。恐怖が過ぎ去ってしまった後に改めて思い返すと、恐ろしいものと断定するには少し、迷う。
「なにがあったの? 野犬が出た?」
「いや、あれは野犬じゃない、何ていうか……口だけ女?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます