泣いた理由

「……あの子、なんで泣いてたのかな」

 いや、そういう問題じゃないような。今はどうソレから逃げるかを考えるべきじゃないのかな。でも。

「おなか空いてたんじゃないの? ナナオさんを襲ってきたんでしょ」

「うーん、そんな感じじゃなくてさ……最初はすごい悲しそうな声だったんだ。まあ追いかけられて、すげー怖かった。でもさ、それはそれとしてさ。子どもが泣いてるのってほっとけないじゃん?」

 ナナオさんは困ったように眉を下げて僕を見る。けれどもさっきの口だけ女の話からは、そんな想像は難しい。

「でも結局襲われたんでしょう? どうしようもないんじゃないのかな」

「でも今冷静に考えてみるとさ、化け物になって襲ってくるまでは普通の子どもだったんだよ」

「それにしたってそれは人をおびき寄せる罠なんじゃないの? そういう話って一杯あるよね、子泣き爺とか川赤子かわあかごとか。蠱雕こちょうだってそうだし」

「うん、そりゃぁわかるけど。でも最初は本当にそんな感じじゃなかったんだ。凄く悲しくて、胸が締め付けられるような?」

 だからそれはそういう戦略なのでは。

 けれどもナナオさんは腕を組んで暗い森のほうを見つめた。平行線感。

 僕はだんだん、なんだか嫌な予感がしてきた。

「そうだ、トッチー。二人いると襲われないって聞いたんだ。それにここが安全なら、ここから呼びかけちゃだめかな」

「いや、それは、ええと」

「茂みで止まったんだしここまで入ってこれないよな?」

「いや、そんなことわかんないってば」

 本当にわからない。相手が化物だとしたら、その考えなんて読めるわけがないじゃないか。ただ、警戒しただけかもしれないし。

 けれどもナナオさんはいいことを思いついたとでもいうように、ニカッと笑った。ああ、もう駄目だ。なんかもう駄目な予感しかしない。

 結局の所、僕はその何かが泣いているところを見ていない。だからわかんないだろ、って言われたら言い返せない。僕はナナオさんを止められなくて、ギリギリ安全なところから近づかずに呼びかけよう、ということに決定されてしまった。

 おそるおそる、神社とその裏手の森のちょうど境界線みたいに敷かれていた冷たい石畳に陣取る。

 確かにこの石畳の先の森は神社の神聖な雰囲気とは無縁で、何かが潜んでいるようなおどろおどろしい雰囲気を秘めていた。ひゅうと奥から生暖かい風が吹いている。それは暖かくなってきた春の夜の訪れなのか、それともその何かの怪異の息吹なのかはわからないけれど。

 ナナオさんは意を決して、よしっと小さく握り拳を固めて作戦を開始した。

「おおーい、さっきの子、いまちょっとお話できるかな」

 驚くほどの普通の呼びかけ。

「おーい、聞こえてたら返事をしてー」

「もう止めようよ」

 20分くらい何度か大声で呼びかけて、無理じゃないかと思った時だった。

 正面の暗がりからカサカサと小さな音がした。風や木の音とは明確に異なる何か生き物が動いたような音。

 僕らはごくりと唾を飲み込む。ナナオさんは先程と違う、緊張で少し高くなった声でもう一度呼びかけた。

「……えっと、さっきの子、かな?」

 しばらくしてから、闇の向こうから小さな声がする。

「……あの……怒ってない?」

 確かに女の子のような、鈴が転がるような声だった。少し戸惑っているような、警戒しているような。うなり声じゃなくてナナオさんも僕もほっと胸をなでおろす。

 この女の子の声で泣いてたら、確かにナナオさんじゃなくても様子を見にいくかもしれない。けれどもそれを含めて罠なのかもしれない。

 罠だったら?

 本当に2人でいれば大丈夫なの?

 この神社が平気なのは本当?

 やっぱり僕なら行かないと思う。ここは深夜の森だ。女の子がいるはずがない。結局のところ、僕らは確かかどうかもわからない色々な過程の上に乗っかかって、ここではない何かを覗いている。

「あ、うん、ちょっとびっくりしちゃったけど、……大丈夫かな」

 ナナオさんは安心させるように、なるべく優しい声で話しかけているみたいだ。けれども大丈夫というのは嘘なんだ。無意識だろうけど、ナナオさんはさっきから僕の手をすごい力で握りしめている。

 怖い。その手からつたわる押し殺された恐怖。


「よかった……ごめんなさい、あの私、動いているものを見ると何がなんだかわかんなくなっちゃうの。だから、お姉さんもこっちに近づかないでね」

「……オッケーオッケー。この距離なら大丈夫かな」

「うん、見えないと大丈夫だし、私そっちに近づけないから」

「そっかそっか、よかった」

 ナナオさんはほっと息をつく。僕の手を握っていたのに気がついて、慌てて手を離す。

 ナナオさんの予測の通りこの神社には入れない、らしい。多分。本当?

 僕らの間で少しだけ柔らかくなった暗闇を挟んで会話を続けた。


「それで、えっと、なんで泣いてたのかな、よかったら、お姉さんに相談してみない? 解決はできないかもだけどさ、誰かに話せば気持ちは楽になるかもよ」

「気持ち……」

 少しの時間があって闇の向こうでぽつりぽつりと話が始まった。

「……私、お母さんを探してるの。お母さんはここのお山に閉じ込められててでて来れないの、私、お母さんに会いたい……」

 闇はしくしく泣き始めた。それは確かに心を締め付けるような悲しそうな声。ナナオさんか気にかける理由が少しだけわかる。

 ナナオさんは眉を寄せて困った顔をしている。

「お母さん、か……それってここの封印を解けば会えるのかな」

「ちょっとナナオさん!」

 小さな声でナナオさんの肩を引く。

「あの子がかわいそうなのはわかった。わかったけど、あの子のお母さんがあの子みたいな生き物だったとしたら、たくさんの人が犠牲になる。僕らも無事じゃすまないかもしれない。やめたほうがいいよ」

 ナナオさんは、いやでもさ、といって目を泳がせる。

 その目は、だって可哀想じゃないか、と主張する。その可哀想はいつも行ってしまうばかりで、返ってくることを考えていない無償のものだ。

「私はそっちのほうに行けないから、どうしていいかわからないの」

 闇から小さな声がする。

 ナナオさんは、うう、と小さくうめいて、僕の耳元でささやく。

「トッチー、封印をといたら大変なのはわかるんだけどさ、せめて手紙のやり取りとか、様子を知らせるとか、できないのかな、あの子、悪い子じゃなさそうだし」

 悪い子じゃない? さっき襲われたばかりじゃないか。

 けれどもナナオさんの中ではすでに闇の向こうの女の子は『口だけ女』という怪異じゃなくて、近所の子どもとかわらないように感じる。動いているのをみれば『口だけ女』、動いていなければかわいそうな女の子。世界はそんなふうに物事を安易に分断、できるものなのかなぁ。

 でも手紙……か……。


「あの、さ。私らも封印のことはよくわかんないから、とりあえず神社の中調べてみるよ。うまくいくかは全然わからないから、期待せずにちょっと待っててくれるかな?」

「……お姉さん。ありがとう」

 さわさわとした優しい風と一緒に少しだけ嬉しそうな女の子の声が響いた。

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