第15話

……どれほど無情に感じられようが、時として奔流のように感じられようが、時間というものは常に流れて進む。


私は皇太子様が見守って下さっていた中で目を覚まし、起き上がれるようになり、自室で祈りを捧げて──マリアライトが生命の樹を呼んでから初めての礼拝を迎えた。夜明け前に起き出して、洗顔を済ませる。


メリナに手伝って貰いながら身支度を整えていると、控えめなノックの音がした。


「どなた?」


「ショーンでございます」


「どうぞ、入って」


「失礼致します。おはようございます、リヴィアお嬢様。礼拝には、こちらをお召しになられますよう」


ショーンが綺麗に包まれた箱を持ち込む。箱を包む紙の模様には確かに見覚えがあった。


「こちらを、皇太子様が私に?」


「はい、その通りでございます」


まだ15歳。成長期が終わっていないのか、初めに頂いたドレスは胸許など少々きつく感じるようになっていた。皇太子様は倒れた私に寄り添って下さっていたし、もしやお気づきになられたのだろうか。


「ありがとう、ではこちらに着替えます。──メリナ、手伝ってくれるかしら」


「はい、もちろんですわ」


包みを解くと、張りのある生地で仕立てられたドレスが出てきた。広げて見ると、詰まった襟は喉の半ばまで立っている新しいデザインだった。灰色の糸を用いて襟からフロントにかけて、ゆったりとした袖口とドレスの裾にも上品な蔓の刺繍が施されている。


「まあ、素敵ですわ。やはり皇太子様はリヴィアお嬢様を大切に思われておいでですのね」


メリナが、ほうと溜め息をつく。ショーンも控えたまま、「私もお支度のお手伝いをさせて頂きます」と申し出てくれた。


「ありがとう、助かるわ」


ドレスを着替えてみると、身体にしっくりと馴染んで丈も全てが丁度良かった。着心地も良くて、さらっとした肌触りの生地が暑さを感じさせない。このドレスでなら、何時間でも祈り続けられそうな程だ。


「リヴィアお嬢様、良くお似合いでございます。御髪はドレスが映えるように、編んで結い上げましょう。メリナ、ピンを用意してちょうだい」


「はい、ショーン様」


メリナもショーンも、声が弾んでいる。私ももちろん皇太子様からのお心遣いが嬉しかった。また気持ちを新たに邁進しようと励まされる。


髪を結って貰い、姿見で確認する。少し大人びた雰囲気のドレスに、慎ましやかな容貌の自分が見えた。


──と、ノックもなしにドアが開かれ、目許を赤くしたマリアライトが入ってきた。頬も焼けたように赤い。またお酒を飲んでいたのだろうか。こんな夜明けまで飲み続けるだなんて、あまりにも生活が乱れている。


マリアライトは無遠慮に私を頭から爪先まで剣呑に眺め、「皇太子様が下さいましたの?」と訊いてきた。


「ええ、届いたばかりのドレスよ」


「ふうん……まあ、皇太子様もお立場を弁えて頂きたいわ。私には何も寄越さないのですもの」


「──不敬にも程があるわ、マリアライト」


父の思惑を知らずにいる私は、自分が皇太子様の婚約者であって、マリアライトはその私の妹という立場でしかないと憤った。そうでなくとも、マリアライトの言い草は皇太子様を軽んじている。幼いからと許されるものではない。


けれど、マリアライトは諌められても悪びれずに「私の立場なら、お姉様も良くお分かりよね。私は生命の樹を呼び出したの。魔術にも目覚めていないお姉様とは違いますのよ。せいぜい、お祈りを頑張ればよろしいわ」と言い切った。


いけない。神聖なお祈りに向かうというのに、怒りを抱いては。心を落ち着けて、敬虔にならなければ。私は心で暴れそうな怒りを抑え、ショーンに「マリアライトが大分お酒に酔っているようだわ、お部屋まで付き添ってあげてくれるかしら」と努めて声を荒らげないようにしながら頼んだ。


「付き添いなど結構よ、──いずれはお姉様も私に偉そうな事など言えなくなるわ」


果たして、私が挑発に乗って怒らない事がつまらないのか、マリアライトは腕を組み面白くなさそうに鼻で息をついて身を翻した。乱暴に部屋を出てドアを閉める。ショーンとメリナは困惑した様子で視線を交わしていた。


気を取り直して時計を見ると、そろそろ家を出る時間になりそうだった。私はメリナに「では、行ってくるわね。出かけている間、少し窓を開けておいてくれるかしら」と、マリアライトが振りまいたお酒の臭気を部屋から出すように頼み、ショーンにも手伝いの礼を言って屋敷を後にする事にした。


そして馬車に揺られ、教会に着くと、朝一番に来ていたらしい令嬢達が私に気づいて「おはようございます、リヴィア様」と挨拶してきてくれた。


「おはようございます、皆様」


「リヴィア様、新しいドレスですのね。素敵ですわ」


「本当にお似合いだわ、皇太子様よりの贈り物でございますか?」


「ありがとうございます。そうですのよ、細やかな皇太子様のお気遣いには心より感謝致しておりますわ。ドレスに恥じないように、お祈りに努めようと思いますの」


「それはご立派なお考えですわ。やはりリヴィア様はご長女、しっかりなさっておいでですのね」


マリアライトの件もあり、少し気まずいけれど微笑んで返す。令嬢達は敢えてマリアライトの事には触れないようにしてくれているらしい。腫れ物を扱うようだが、今朝の傲岸不遜なマリアライトを思い出したくはないので、今はありがたかった。


「……あら、ベリアル様よ」


「本当だわ。どのような風の吹き回しかしら」


不思議に思うのも無理はない。ベリアル様は礼拝には進んで参加なさろうとはしないし、参加するにしても早い時間から教会を訪れる事は殆どないのだ。もっとも、王様の御前での儀式後からベリアル様とは関係がぎこちなくなっているので、私個人的には、そのありようについて何かを言おうとは思わなかった。──特に、ベリアル様がマリアライトと密会している姿を見てしまってからは何やら恐ろしいようで言葉も交わそうとはしていない。


「おはようございます、皆様」


「おはようございます、ベリアル様」


そんな私の心情とは裏腹に、ベリアル様から笑顔が振りまかれる。こんなにも明るいベリアル様は、この数か月見られなかったものだ。心境の変化でもあったのだろうか。


ベリアル様は笑顔のまま躊躇いなく私に向き直った。


「リヴィア様、この度はご家門より聖女様のご誕生おめでとうございます」


「……ベリアル様?」


「ベリアル様、まだマリアライト様が聖女とは決まっておりませんわよ」


「そうですわ、まだマリアライト様は幼くておいでですし……」


突然の言葉に呆然とした私を、周りの令嬢達が庇って下さる。


──まさか、ベリアル様が珍しく礼拝に来られたのは、私にこの言葉をぶつける為なのか。


「あら、私の早とちりでしたか?

けれどマリアライト様のお力は素晴らしいと噂ではかねがね聞いておりますのよ。リヴィア様も、優れた妹に恵まれて誇らしいですわよね?」


貼り付けたようなベリアル様の笑顔が異形に見える。


私は気温とは逆さまに凍りつく空気を感じながら、辛うじて「マリアライトをお褒め下さりありがとうございます、妹も喜びますわ」と応えた。声が震えなかったのが我ながら奇跡のようだった。


ベリアル様は私の顔が僅かに強ばっているのを見てとり、満足そうに笑みを深めた。そして、ついと右手を上げて「ギーニャ」と一言だけ口にした。


「──はい、主様」


令嬢達がざわめく。ベリアル様の右手に、精霊が寄り添った姿を見て。


「私、今朝は礼拝に来た訳ではありませんの。力に目覚められました事をお知らせしたくて」


ベリアル様は愛おしそうに精霊を見つめ、周りを見くだすように眺め回した。


──この時、なぜ私はマリアライトとの密会について問い質さなかったのか?


ただ潜む何かが怖くて、触れられなかった。


「……ねえ、あちら。精霊ではなくて?」


「本当だわ、ベリアル様の手に」


続々と教会に到着した令嬢達や子息達が、ベリアル様を見て口々に小声で話し合う。


「儀式の時には水晶のお色がよろしくなかったみたいだけれど……それでも、私達より早くに目覚められるものなのですわね」


「ご覧になって、精霊がベリアル様をお慕いしているわ」


「羨ましいようですわね」


周りの反応を見て満足したのか、ベリアル様は「帰るわよ、ギーニャ」と見せつけるように精霊へ声をかけ、従えて、「では皆様、ごきげんよう。皆様も力に目覚められますよう、頑張ってくださいませね」と勝ち誇った様子で馬車に向かって立ち去っていった。


重苦しい空気が漂う。それは、ややあって教会の扉が開かれて礼拝の時間になっても消えることはなかった。


私は、新しいドレスの感触に自分を必死になって叱咤した。──祈らなければ。無心に祈らなければ。皇太子様は未来の国と民の全てを背負うお立場なのだ。婚約者である私が挫けてはいけない。


何度もそう繰り返し、悪夢のような感覚に抗った。


抗うしか、なかった。

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