第9話

──結局、その日は翌日の礼拝について予習する事に時間を費やし、夢で見たような事は起こらないまま夜を迎えた。


予知夢は、夜会では当たったけれど──偶然だったのだろうか? それにしては、あまりにも正確に夢の通りとなっていたが、それも特別なワインが引き起こしただけなのか。


どこか釈然としない気持ちを抱えながら聖典を読んでいると、メリナが控えめな声で「リヴィアお嬢様、そろそろお休みなさいませ。明日に障りますわ」と言葉をかけてきた。確かに夜更かししては翌朝の礼拝に良くないだろう。礼拝では化粧を施す事も許されていないので、目の下に隈が出来てしまっても白粉で隠す訳にはいかないのだ。それに、何しろ初めての礼拝だから、祈りに集中出来るように睡眠はしっかりとった方が良い。


「そうね、もう休む事にするわ。──メリナ、あなた右の頬が赤いわ。何があったの?」


聖典を閉じて向き直ると、右頬を赤く腫らしたメリナの姿に驚く。夕食の前には、なかった傷だ。メリナは私に仕えて長いし、粗相をして叱責されるような鈍い子ではない。そもそも、この家には折檻する者など──。


「……あなた、まさか……」


「申し訳ございません、お見苦しい姿をお見せしてしまい……先ほど、ちょっと……」


「──マリアライトね?」


言葉を濁すメリナに問いかける。私が、事実を話さなければ引き下がらないと観念したのか、メリナは言いにくそうに白状した。


「先ほど、マリアライトお嬢様から、新しい専属メイドになるようにとお声をかけられて……私にはリヴィアお嬢様がおりますので、丁重にお断りさせて頂きましたが……その時にマリアライトお嬢様がお怒りになられて」


「だからと言って暴力をふるって良い訳がないわ。マリアライトには、明日の礼拝を終えたら私から注意しておくわね。メリナは私の許しを得たと話して、氷を貰って良く冷やしてちょうだい。痛かったでしょうに……でも、マリアライトにも専属メイドはいるはずでしょう?」


メリナに歩み寄り、手を伸ばす。触れては痛むだろうと、触れないようにしながら頬に手のひらを添えた。メリナは畏まりながら、「マリアライトお嬢様の専属メイドは、顔に大きな火傷が出来て見苦しいからと解雇されたそうなのです」と教えてくれた。


「まあ、顔に火傷なんて……可哀想に」


だけど、メリナは私の専属メイドだ。これはもう長い間続いている関係で、今になってマリアライトが奪えるものではない。


「メリナ、マリアライトが何と言おうともメリナは私の専属よ。──良い薬があるから、あげるわ。良く冷やしてから頬に塗ってね」


「そんな……私ごときに、ありがとうございます。お嬢様」


目の前のメリナが痛々しくて、自分の見た夢が予知夢かどうかといった疑問は吹き飛んでしまう。引き出しから軟膏を取り出してメリナに手渡し、私が休む為の手伝いをすると言って聞かないメリナを説得して下がらせ、氷を貰いに行かせた。


一人になり、寝間着には既に着替えていたので、ベッドに入る。理不尽なマリアライトへの憤りはあるものの、眠らなくては明日に響く。下手に寝返りを打たずに横たわり、じっと目を閉じて自分の呼吸に意識を澄ませた。もし寝つけずに明日の礼拝で失態を犯せば、マリアライトが喜ぶだけだろう。そうはさせない事が仕返しだと考えながら。


──果たして、そう言い聞かせたのが良かったのか、寝つくには普段よりやや時間を要したものの、それでも十分な睡眠はとれた。夢も見ない眠りだった。カーテン越しに淡い朝日が届いて部屋をうっすらと照らす。時計は、早くも遅くもない時間を指していた。


身を起こしてベッドから抜け出し、窓際に向かう。カーテンを開けると雲ひとつない空に美しい朝日が見えた。じきにメリナが来るだろうと思っていると、呼応するように部屋のドアをノックする音が聞こえた。


「メリナ?」


「はい、リヴィアお嬢様。洗顔のお湯をお持ち致しました」


「起きているわ、入って」


「はい、──失礼致します。おはようございます、リヴィアお嬢様。昨夜はありがとうございました、頂戴しましたお薬のお蔭様で頬はもう大丈夫です」


頭を下げてから、お湯を運ぶ為に室内に入ってきたメリナの顔は昨夜のように腫れてはいない。わずかに痣が見えるが、痕は残らないだろう。とりあえず安堵して、「きちんと自分で手当て出来たのね、良かったわ」と優しく声をかけた。


「本当にありがとうございます、リヴィアお嬢様」


「良いのよ。またマリアライトが何か言ってきても、あなたは毅然としていなさい。──さ、洗顔を済ませたら着替えるわ。手伝ってちょうだいね」


「はい、リヴィアお嬢様。喜んで」


日曜日の礼拝は、朝食をとらずに赴き、祈りを捧げて、帰宅して着替えてから軽いものをティーフードとしてお茶と一緒に頂く事になる。お祈り自体は一時間程度だ。司祭様のお話を聞いて、心を落ち着けてから祈る。


丁寧に洗顔して、用意されているドレスに着替える。皇太子様が下さったドレスは、夜会で共にダンスをした時に測ったのかと思うほど身体にぴったりだった。髪を質素に結い上げて貰うと、鏡には可憐な趣きの自分が映っている。心もち緊張しているが、顔色は悪くない。


「完璧ですわ、リヴィアお嬢様」


むしろメリナの方が頬を紅潮させている。外では馬車の用意をしているところか、微かに人の声が聞こえてくる。メリナが私の仕上がりを褒めるのを「褒めすぎよ」とたしなめていると、訪れたのはショーンだろうか、ドアがノックされた。


「──はい」


「リヴィアお嬢様、ショーンでございます。お支度は整いましたでございましょうか?」


「ええ、大丈夫よ。──入って」


入室を許すと、音もなくドアが開いてショーンが頭を垂れる。丁寧なお辞儀の後、顔を上げたショーンは私を見て笑顔になった。


「まあ、リヴィアお嬢様。ご立派になられました。どこに出しても恥ずかしくない淑女ですわ」


「もう……メリナといいショーンといい、褒めてくれるばかりね」


私が、さすがに照れて苦笑すると、ショーンは「いいえ、言葉では足りないくらいですわ。私めはリヴィアお嬢様がお屋敷に迎えられてから拝見してまいりましたけれども、こんなにもお美しく成長あそばされるとは感無量です」と更に言い、それから少し──珍しく口ごもった。


「ショーン?」


「いえ……マリアライトお嬢様が、リヴィアお嬢様の礼拝が終えられました後のお茶のお時間を共になさりたいと仰せでございますが、いかが致しましょうか?」


お断りしても構わないと言外に言っている。おそらく、メリナが昨日マリアライトから暴力をふるわれた事も知っての上だろう。


「いいわ、ちょうどマリアライトには話したい事もあるし。共にしましょうと伝えてくれるかしら」


「かしこまりました。──では、馬車の支度が出来ておりますので、どうぞお外へ。慣例ですので、ご家族のお見送りはございませんが、どうぞお心を穏やかにお祈りをしてきてくださいませ」


「ええ、ありがとう」


自室のドアを抜けて室外に出る。そこでメリナとショーンに見送られ、廊下を進んで階段を降り、フロアを通って屋敷のドアを開けていてくれたウィルドに一礼して馬車へと向かった。用意された馬車は、装飾こそ控えめだが毛艶の特別良い馬を繋いだ立派なものだった。


ウィルドの助けを借りて馬車に乗り込む。ゆったりと走り出す馬は穏やかな気性なのだろう、心地よい揺れが伝わってきた。教会までは、屋敷からそう遠くない。心の準備は出来ているので、何も焦る事もなかった。


長くはない道中で、新聞を売る少年の口上が耳をくすぐる。すぐに通りすぎてしまったが、「孤高の皇太子殿下がアインバーグ伯爵令嬢と運命の出逢い!」と聞こえて、思わず頬が熱くなった。本当に話が出回るのは早いのだと実感する。


程なくして馬車は無事に教会へ着いた。既に馬車から降りて集まっている令嬢や子息も見受けられる。これから更に人は増えるだろう。


「皆様、おはようございます」


「リヴィア様、おはようございます」


輪に加わり、挨拶を交わす。初めての礼拝だという方もいれば、もう通い慣れている風情の方もいた。面持ちは人それぞれだ。


「リヴィア様は初めての礼拝ですわね」


「ええ、ですから少し緊張しておりますの。見知った方がおられるのは心強いですわね。……あら、ベリアル様は?」


辺りを見渡しても、ベリアル様のお姿がない。儀式で思うほどの結果が残せなかったのなら、尚さら努めて早くに来ていそうなものだが、私が加わった輪の令嬢達は気まずそうに顔を見合わせている。何かあったのだろうか。


「ベリアル様は、今朝の礼拝にはお越しになりませんわ」


「……お越しにならない?」


首を傾げると、輪の中の一人が声をひそめた。


「我が家のメイドの身内が、ベリアル様のお屋敷で下働きしているのですけれど……ベリアル様は昨夜遅くなっても次から次へと部屋にお酒を運ばせていたのだとか。それで、今朝は起きる事さえ出来なかったらしいですわ」


「そんな……」


ベリアル様は私と同い年だ。なのに痛飲するほどお酒に溺れるだなんて、儀式の時に拝見した初々しいお姿からは想像もつかなかった。


しかし、事実はどうあれベリアル様はお見えにならないらしい。やがて教会の扉が開いて皆が入ってゆく時になっても、着席が済んで司祭様が壇上にのぼられても、ベリアル様のお姿はないままだった。


「皆さん、おはようございます。まずは、今朝初めての礼拝をお迎えになられた方々の為のお話しから始めましょう」


温厚そうな初老の司祭様が、皆を見渡して口を開いた。礼拝の始まりだ。私はとりあえずベリアル様の事を頭の隅に片づけて、司祭様のお話しに集中する事にした。

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