第8話

──夢の中、私は屋敷にいた。


マリアライトが人と会っている。その相手がベリアル様で、何とはなしに近寄りがたさを感じて、階段を昇りきった所の壁に隠れていた。


二人が話す声は相当ひそめられているようで聞こえない。


ベリアル様が、紫色の何かが詰まった瓶を取り出し、マリアライトに人目を忍びながら手渡す。


──駄目。それだけは駄目。


そう思うのに声が出ない。動けない。


ややあって、ベリアル様がマリアライトの部屋に招かれてゆく。二人の姿が室内に消える。


その時に、私は確かにマリアライトの哄笑を聞いた気がした。


そして、静けさが戻り、私は不吉な予感を胸に抱いて、そっと自室に戻った──。


「……ん……」


眠りの夢が途切れて目を覚ます。私はうなされていたのだろうか? 額からデコルテから、汗みずくになっていた。汗の感触が気持ち悪い。身体は熱が籠もり、今すぐ冷たい水が飲みたいと思う。


私は呼び鈴を手にして迷わず鳴らした。窓の外の明るさからするに、まだ早朝と知っていながらメリナを呼ばずにいられなかった。


「リヴィアお嬢様、どうしたましたか? こんなに朝も早いですのに……まあ、お嬢様、そんなに汗をかいて!」


使用人の朝は早いらしい。メリナが来るのに時間はかからなかった。メリナはベッドに座り項垂れる私を見て、驚きに声をあげた。


「メリナ……悪いけれど、入浴の支度をしてくれるかしら。あと、すぐに冷たい水を」


「かしこまりました。──あら、お嬢様、昨夜の装いのままではありませんか! なぜこのメリナをお呼びにならずに……」


装い。そのドレスの暑さもあったのだろうか。しかし、それにしても夢の内容が恐ろしかった。ベリアル様がマリアライトに瓶を手渡し部屋に招かれる、それだけのはずなのに。


「悪かったわ、メリナ。昨夜はお客様にお会いした後、誰とも顔を合わせたくなかったの」


「ムオニナル皇太子殿下様の事ですか?」


あっさりと飛び出した言葉に心臓が跳ね上がる。──まさか。


「殿下がいらした事は、屋敷の者皆が知っているの……?」


恐る恐る訊ねると、メリナはあっさりと答えた。


「それはもう、お嬢様が皇太子様に求婚されるだなんて、この上ない栄誉ですもの。屋敷の下々の使用人は定かではありませんけれど、主だった使用人なら知っていますわ。お嬢様の素晴らしい儀式の結果には皆興奮しておりましたし、そこに御使いが駆けつけて……屋敷の中は、お嬢様がご帰宅なされる前から大騒ぎでしたのよ」


「……そう……」


朝から気が重い。プロポーズを受けて、本来ならば弾んでいるはずの胸には靄がかかっていた。これは、あの夢のせいなのか?


眠りで見る夢──夜会の時も実際に同じ事が起きた。メリナが冷たい水を持ってくるまでの間、私は胸騒ぎに心を乱した。あの紫色の物は何だろうか。マリアライトに渡してはいけない物だと本能が叫ぶようだった。ましてやベリアル様はマリアライトの自室に招かれて──あの、儀式の後に冥い眼差しを私に向けていたベリアル様がだ。


また、正夢になるのだろうか?


思い悩んでいると、水差しを運んでメリナがやって来た。


「お嬢様、よく冷えたお水でございます。ご入浴の支度は今しばらくお待ちくださいませ。お嬢様のご気分がすっきりするように、ハーブを浮かべたものをご用意しておりますので」


「ありがとう、メリナ」


早朝から呼ばれたにもかかわらず、メリナは甲斐甲斐しく世話をしてくれる。その心遣いに、胸の靄が少しだけ晴れた。


時計を見ると、まだ夜が明けるかどうかという時間だ。ゆっくり入浴して、それから身支度を整えても朝食の時間には十分間に合う。


それにしても──皇太子様との事が、既に屋敷の者たちに知られている。恐らく、マリアライトならば確実に知らされているだろう。それを思うと、昨夜向けられた眼差しが脳裡をよぎった。


朝食で顔を合わせるのが怖い。


いや、マリアライトはまだ13歳の子供だ。その幼さで何が出来るか。でも、──。


悩みながら冷たい水をグラスにそそぎ、一息に飲み干す。渇いていたらしい喉がすっきりする。メリナが心遣いをしてくれたのか、微かにミントの香りが口腔を満たした。


「ありがとう、メリナ。美味しいお水ね」


「ご気分が良くなるようにミントとカモミールを使いましたの。こんなに汗をおかきになって……ご不快かと思いましたし。ご入浴の準備は、もうすぐ出来ますわ。さっぱりして朝食に向かわれませ」


「ええ、あなたは本当に気遣いの出来る子ね。お父様に話して給金を上げてもらうわ」


「そんな……、それは嬉しいですけど、大した事はしておりませんわ。お仕えするリヴィアお嬢様が素晴らしいお方だからこそですもの」


──メリナと話していると、心が落ち着いてくる。ややあって入浴の準備が整い、メリナの手伝いでドレスを脱いでハーブの香りがするお湯に浸かって入浴の世話を受けた。部屋着のドレスに着替えて、少し休んでいると「朝食のお時間でございます」とショーンに呼ばれて朝食の場に向かう。


朝食の場にマリアライトは居なかった。


「おはようございます、お父様、お母様。マリアライトは?」


「気分が優れないから朝食はいらないそうだ」


やはり、皇太子様と私の事を知ってしまったか。朝から剥き出しの敵意を向けられるよりはましだけれど、後が心配になる。


「マリアライトにも困ったものですわ、気まぐれに使用人へ八つ当たりして、非礼を働くのですもの……将来が心配ですわ」


お母様が溜め息をつく。お父様は、気を取り直すように「だが、リヴィアにめでたい事があったばかりだ。明るい気持ちで朝食を頂こう」と、とりなしてくださった。


「何だか、まだ夢のようで……面映ゆいですけれど……」


「謙遜する事は無い。──リヴィア、日曜日から礼拝が始まるが、礼服を見ておきなさい」


「はい、お父様」


礼拝では絹の使用や、装飾のフリルやレース、リボンの使用が禁じられている。刺繍も茶色か灰色の糸でしか許されない。これは、聖女に倣っての事だという。ドレスの色も白と決まっていた。


普段ならばマリアライトが物音を立てる食事の場が静かだ。私は、この穏やかな時間が続けばと願わずにいられなかった。本当に、姉妹なのに嫌な気持ちを抱いて不仲になるなど、姉として失格だと自分を責めてしまう。


そのせいか朝食はあまり進まなかった。半分ほど残して朝食は終わり、自室に向かう。そこまでの道のりでもマリアライトには会わなかった。


自室に戻ってみると、ショーンが礼拝のドレスを運んできた。シンプルで上品なデザインのドレスには淡い茶色の糸で裾とデコルテに刺繍が施されている。


「素敵なドレスね、お父様とお母様には感謝する事ばかりだわ」


ドレスを褒めると、ショーンはにこりと笑んで「いいえ、こちらはムオニナル皇太子殿下より賜りましたドレスでございます」と教えてくれた。昨日の今日でドレスまで、と驚きを隠せない。


それだけ私を大切に思って下さっているのだろうか。私が聖女候補だからだと知りながらも、ときめかずにはいられない。


「嬉しいわ、お礼の手紙を書かなければね」


素直に喜ぶと、メリナもドレスを前に「皇太子様はお優しいお方なのですね、きっとご成婚なされたらリヴィアお嬢様も今より更にお幸せになれますわ」とはしゃいだ口調で、うっとりとした顔をしてみせた。


「まだまだ先の話よ、メリナ」


「ですけれど、ご婚約なされておいでではありませんか。これでリヴィアお嬢様が力に目覚められましたら、すぐにでもご成婚ですわ」


「もう……」


これ以上控えめな発言をしたら、皇太子様に対して失礼になる。私は日曜日から始まる礼拝の事を考える事にした。今日は土曜日だ。明日に控え、だからこそ皇太子様も急ぎドレスをお贈り下さったのだろう。


私は本当に恵まれている。


そう実感し──不意に目覚める直前に見た夢を思い出した。ベリアル様はなぜ訪れたのか。しかも交流のほとんどないマリアライトのもとに。マリアライトは容姿を気にしているのか、ティーパーティー等にも滅多に出ないのだ。


正夢になるとは限らない。でも前例がある。


──その時の私は、どれほど恐ろしい企みが待ち受けているかを知らなかった。


そうして一日を予習ですごし、日曜日の礼拝に備えていた。


私は力に目覚めて、生命の樹を二年以内に呼ばなければならないと肝に命じて。


心のどこかで、皇太子様が印をご覧になったのだから呼び出せると信じながら。

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