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 毎朝のルーティンもこの入院生活で体に染み込ませた。

 カーテンの隙間から漏れる朝日で目覚め、外の小さな喧噪に耳を傾けながら白いヘアピンで前髪を留める。

 つい二週間ほど前までは松葉杖を使わないと歩けなかった。しかし今ではもう自分の足で洗面台へと向かえるようになった。ほんの少しの歩きづらさに文句は言っていられない。それに、このルーティンも今日で最後になる。

「いただきます」

 すっかり板に付いた食事前の合掌と三角食べ。昨日見た情報番組で、三角食べは間違いだと解説していたけれど、勝手にやめては叱られてしまう。今はまだこのままでいい。

 ちーちゃんには、他にもたくさんの私を教えてもらった。

 いつも前髪をヘアピンで留めていたことや、常に微笑んでいたこと。一番難しかったのは話し方で、お姉さんな話し方を今でも気を抜くとつい忘れてしまう。

 それでも続けるしかない。それが本物の私に戻る近道だと信じて、今日も手を合わせて朝食を済ませた。

「はる姉、思い出した?」

 ちょうど身支度を整えた時だった。ちーちゃんがいつものあいさつを連れ、予定の時間よりも早く訪れた。

 南国を思わせるグラデーションのワンピース。今にもバカンスへ行ってしまいそうな格好に苦笑いを返した。

「残念ながら五カ月たっても駄目ね。」

 首を振るとちーちゃんが笑って返してくれた。

「そっか。ひょっとしたらって思ってたのに」

「どうせ明日からまた毎日聞くのでしょう?」

「そりゃあね」

 小さな胸を張るちーちゃん。苦笑した後で一時間ほど話し込むと予定の時刻を迎えた。時間通りに病室を訪れた先生と話し、ちーちゃんが看護師に囲まれている間に治療費を払い終えて外へと脱出できた。

 襲い掛かるように降り注ぐ初夏の日差し。窓辺から感じていた夏とは一味も二味も違う。ちーちゃんに準備してもらった薄手のブラウスでも暑苦しい。今年は猛暑になると予報していたけれど、どうか今より暑くなりませんように。

「お待たせ」

 ようやくちーちゃんがやって来た。ボブヘアを小さな三つ編みでアレンジし、いつもと違った魅力を纏っている。何とはなしにちーちゃんが来た方向を見れば、別れを惜しむ看護師たちの群れが目に付いた。

「はる姉大丈夫? 暑くない?」

「平気よ。ここで倒れちゃったら逆戻りになるもの」

「この病院ならそれもありだよね」

 ちーちゃんがうんうんと何度も頷いている。

「看護師さんたちと離れたくないからでしょう?」

「違うよ」

「ずっと名残惜しそうにしていたじゃない。看護師さんたちも泣いていたわ」

「あれって、はる姉に会えないから泣いてたんじゃないの?」

「そうだといいけど」

 肩をすくませるとちーちゃんが小首をかしげる。以前もこうやってやり取りしていたのだろうか。

「はる姉、タクシー」

 呼び声に我に返った。病院前の歩道脇で、ちーちゃんが手招きをしている。小さな手を追ってタクシーに乗り込むと、ちーちゃんが告げた目的地へとすぐに動きだした。

 閑静な住宅街を抜け、すぐに大通りの流れの一部へと姿を変えるタクシー。もうすぐ街に出る。ずっと思いを馳せていた都会へと少しずつ近付く。

 我先にと天へと伸びるビルに、さまざまな文化が入り混じる景色。きっと心を奪われるのだろう。

ベッドの上ではそう思っていた。

「東京、なのね」

「うん。東京だよ。それがどうしたの?」

「ちょっと、ね」

 頭の中で描いたままの都会がそこにある。もう少し違っていれば、感動の一つもできたのだろうか。

「そこの角を曲がって……そこですそこ。そこの黄色いアパートの前でお願いします」

 ちーちゃんのびしっと伸びた指。その先でタクシーは止まった。

 車窓越しに佇むクリーム色のアパートに覚えはない。この調子だと、部屋に着いても何かを思い出すことは難しそう。

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