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あの態度から察するに、ちーちゃんはもう来ない。
そんな心配は杞憂で、人懐っこい笑顔で翌日もそのまた翌日も来てくれた。話しながら自分自身の情報を集めたけれど、心に空いた穴はなかなか埋まりそうになかった。
白沢遥。二十歳。一月生まれのやぎ座。好きな物は抹茶とあんこ。嫌いな物は辛い物。植物が好きで、おしとやかな人だったらしい。
片田舎から上京してきたものの二浪中で、アルバイトをしながら受験に向けて勉強中。
ちーちゃんとの雑談や、渡された保険証を見てわかったのはだいたいその程度。踏み込んで交友関係や故郷について聞いたものの、ちーちゃんの顔が曇ったぐらいしか収穫がなかった。
「はる姉、思い出した?」
そして今日も現れてにんまりと笑うちーちゃん。このおかしなあいさつから私たちの時間は始まる。
「何も。昨日と変わらないわ」
「悪くなるよりいいよ。夕ご飯取ってくるね」
ちーちゃんが荷物を置いて廊下へと去っていった。
目覚めてから二カ月間、ちーちゃんはほとんど毎日顔を見せにきた。春休みなのだから、あちこち遊びに行ったら? と提案した時のきょとんとした顔は今でも覚えている。「はる姉がいないと面白くないからいい」という嬉しい言葉も。
それは新学期を迎えても変わらず、今日も大学の帰りに来てくれた。
「お待たせ。病院食ってパイナップルも出るんだね」
ちーちゃんが運んできたお盆の上、カットされたパイナップルに目をやった。
「ちーちゃんも食べる?」
「ううん。遠慮しとく」
「そう……いつもありがとう」
ちーちゃんの手に肩を置いた。
「毎日ごめんね。ちーちゃんにはちーちゃんの生活があるのに、迷惑掛けちゃって」
「来たくて来てるんだけど?」
ちーちゃんが頬を膨らませた。
「恋人が事故に遭ったら毎日でも見舞いに行く。それが無理してると思うの?」
かわいい文句に肩をすくませた。たまに大人びるところも、魅力の一つなのかもしれない。
「いただきます」
手を合わせる。遥としての振る舞いも、この入院生活で自然と身についた。
「そういえば今日からリハビリだよね? 体の痛みとか大丈夫?」
「骨折以外はだいぶ良くなったから平気。今日のリハビリもすぐに終わってしまったし」
「そうなの?」
ちーちゃんがまばたきを繰り返した。
「寝そべったまま、右足を軽く動かして終わったの」
「それ本当にリハビリ?」
ちーちゃんが怪訝そうに首をかしげた。
「この二カ月でくっ付いた骨と硬くなった関節を痛めないように、少しずつ動かしていくらしいわ」
「大変だね。治るまでどれくらいかかるの?」
「リハビリに時間が掛かるみたい。このまま順調にリハビリしても、完治して一人で歩けるようになるまで二カ月……退院は七月くらいかしら」
「長いねえ。まあゆっくりのんびり治ればいいか。そうそう、先生とも話したんでしょ? 尚美さんからちょっと聞いたけど、どうだったの?」
「尚美さん?」
眉をひそめればちーちゃんが「ほら」と振り返った。視線の先にいたのは、正面のベッド脇で検温する看護師だった。
「それでどうだったの? 良くなってるって?」
「頭の方は相変わらずですって。自然に回復を待つしかないみたい」
「相変わらず?」
ちーちゃんの顔が曇り、眉間にしわが寄っている。
「悪い意味ではないの」
ちーちゃんの頭を撫でた。
「先生が言うにはね、機能的な記憶障害なら生活に支障が出るけど、記憶だけなら大丈夫だろうだって」
「えっと、ん?」
ちーちゃんの視線が空に漂う。先生から棒読みのような説明を受けた私も、きっと同じ顔をしていたのだろう。
「生活するのに必要な知識は覚えているから、おうちに帰って過ごしていれば記憶が戻るかもしれないってこと」
「なんだ、そういうことね」
ちーちゃんが大きく頷いた。
「そういうこと、そういうこと」
「あの先生も簡単に言えばいいのに。小児病棟の伊達さんもさ、先生の説明はわかりづらいって言ってたんだよ。そうだ思い出した。ここに来る途中でさ」
おしゃべりが加速するちーちゃん。大学で起きたこと、お昼に食べた物、ここに来る途中で見掛けた猫のかわいさ、看護師と話したゴシップ。日によって話題はまちまちだけど、温かい笑みに変わりはなかった。
それが終わり、ちーちゃんが食器を片付けて戻ってきた頃合いを見計らって、いつものように尋ねてみた。
「ちーちゃん。教えてほしいことがあるの」
察知したちーちゃんが、うんざりとした表情でため息をこぼした。
「また故郷のことが知りたいって言うんでしょ」
「駄目?」
「やめといた方がいいよ。世の中にはさ、知らない方がいいことって多いでしょ? そんな感じ」
よくわからない答えも何度目だろう。いくら聞いてもごまかすちーちゃんに、もはやため息も出ない。深く追求すればいいのだろうけれど、献身的に見舞いに来てくれるちーちゃんと険悪にはなりたくなかった。
「じゃあ両親のことを教えて」
「地元にいるよ」
「地元ってどこ」
「日本」
「当たり前じゃないの。もっと詳しく教えて」
「ここから先は課金しないと教えませーん」
冗談交じりにやんわりと断られ、再び世間話に戻る。そのたびにどうしてと胸の中で呟くも、答えは見付からない。
会話や身分証から、私自身の情報はほとんど得た。しかしそれだけで私はできあがらない。思い出や故郷、家族や友だちと出会い触れ合って、ようやく一人の人間ができあがる。
それなのにちーちゃんから聞かされるのは、私以外のどうでもいい情報。無駄に病院の内部情報に詳しい私ができあがらないか、寝る前に考えて怖くなる。
「はる姉は今日、何してたの?」
ちーちゃんの大きな黒目が輝きだした。毎日飽きもせず、私の話なんか聞いて面白いのだろうか。何日か前に尋ねた時は「好きな人の話ならテレビより面白いよ」と楽しそうに語っていたけれど。
「リハビリしたり、本を読んだり、スマホをいじったりしたわ」
「新しいスマホにはもう慣れた?」
「ええ。最初は使いづらかったけど何とかね」
「そっか。事故で壊れたスマホのバックアップがあれば、もっと良かったけどね」
悪意のない呟きから顔をそらす。咳払いを一つして自分の非を吹き飛ばした。
「ちーちゃんこそ、今日はどうだったの?」
「どうって?」
「ここに来る途中に、事故の件で警察署に行ったでしょう? 私の代わりにいろいろとありがとう」
深々と頭を下げると「そんな、やめてよ」とちーちゃんの声色が変わった。どうやら本気で困っている。そういうところもかわいい。
「示談で話を進めてきたよ。後でまたいろいろ書いてほしい書類があるからよろしくね」
「ええ。恋人が頼りがいのある人で本当に良かったわ」
「そんなに褒めても何も出ないって。そうそう、昨日勧めた動画は見た?」
輝きを取り戻した目から思わず逃げた。
「まあ、一応」
「どうだった?」
ぎこちなく答えてもちーちゃんは気付いてくれない。目を爛々とさせてこちらを見ている。残念だけど、その期待には答えられそうにない。
「ちょっと、よくわからなかったわ」
「つまんなかったでしょ?」
予想外の一言に言葉をなくした。
「熱々のカップラーメンを鼻で食べるとか古いよね。編集も雑でさ、効果音とか工夫すればいいのに。ほんとしょうもないよね」
心底楽しそうな姿に口元がぴくぴくと引きつる。しょうもないのに、なぜそこまで楽しそうに語れるのだろう。よくわからないけれど、まあいいか。
「今日は別の動画を見てみて。これなん――あ、終わっちゃった」
雑談を遮るように流れた院内放送。面会の終了を知らせる放送と同時に、ちーちゃんは身支度を始める。といっても、床頭台に並べたスマホや飲み物をバッグに仕舞うだけ。
「それじゃあ帰るね。何か思い出したらすぐに連絡してね」
「はいはい。それじゃあね」
「うん。また明日」
パイプ椅子を片付けて去った姿を、見えなくなった後も目で追い続けた。愛くるしい笑顔で始まり、寂しげな笑顔で終わる。時折、この生活がずっと続けばいいのにと願ってしまうことがある。
記憶を忘れたままにしたいわけじゃない。できるのなら事故の起きる前へと戻りたい。白沢遥の日常へと帰りたい。
けれど病院という安定した環境で穏やかに過ごし、ちーちゃんの話に刺激をもらって眠りに就く。それもまた魅力的で心を奪われてしまいそう。
考えても意味がないのはわかっている。いつかはここを去って戻らないといけない。何もわからない、何も教えてはくれない世界へと。
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