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「はる姉っていうのは?」
「あだ名みたいなものかな。はる姉は一つ上のお姉ちゃんだからはる姉。いいでしょ?」
千夏さんが口元を緩ませた。
「一つ上?」
「うん。はる姉が二十一歳で、あたしが二十歳。よく中学生と間違われちゃうんだよね。そんなにあたしって小さいかな」
千夏さんが二十歳? 記憶を失ったことより衝撃的で、つい苦笑いを浮かべた。
「はる姉は早生まれで、つい先月――って今が何月かわからないか」
小さく頷くと千夏さんが微笑んだ。
「今日は二月八日。それではる姉の誕生日が一月一八日なの。それとはる姉は抹茶が好きで、辛い物が嫌いでさ」
「ちょっと待って」
思わず止めてしまった。指を折りながら教えてくれるのはありがたいけれど、突然過ぎて頭が追い付かない。そのせいか自分の名前にもいまだにピンときていない。
「ああ、ごめんね」
千夏さんが頭を下げた。
「いきなりたくさん言っても難しいよね。お腹も減っただろうし、後で話すよ。ちょっとごめんね」
千夏さんを目で追うと窓を開けてくれた。眩い夕日に包まれ、どこまでも広がる凸凹とした街並み。そして肌を刺すような冷たい風が頬を撫でていく。検査をしている時も肌寒かったけれど、季節的には冬なのだろうか。
「今夜には降るらしいから、温かくしないとね」
千夏さんが窓から空を見上げながら呟いた。
「降るって、雪が?」
「うん。大雪になるんだって」
千夏さんが窓を閉め、再度パイプ椅子に腰を下ろした。
「着替えは持ってきているけどさ、寒かったら温かい下着でも買ってこようか? あれだけでも随分変わると思うし」
「えっと……千夏さん。お願いします」
上目遣いで頼むと、優しく肩を叩かれた。
「そんな他人行儀にしないでよ。それにあたしのことはちーちゃんって呼んで。昔からそうだったから」
「そうなの?」
「うん」
千夏さんが大きく頷く。
「あたしもはる姉って呼んでいるから、それでおあいこってことで」
「それじゃあ……ちーちゃん」
「はーい。それじゃあご飯食べようか。私が食べさせてあげるね」
千夏さんが重湯をスプーンで掬い、こちらに向けた。
「え?」
「一人で食べられるの?」
「……お願いしてもいい?」
「もっちろん」
千夏さん――じゃなくてちーちゃんの、まるでおもちゃを買ってもらったような笑み。真っ白な歯が特徴的な幼い笑みを見ていると、こちらの心まで洗われるようだった。
食事をとり終え、ちーちゃんが食器を片付けて戻ってきた頃にようやくこちらから話し掛けた。
「ねえ、いろいろと教えてほしいの」
「いいよ。まずは何からがいい?」
ちーちゃんが背筋を伸ばしたのを見て、私も姿勢を正した。聞きたいことはあり過ぎるけれど、とりあえず一番大事なことから。
「女性、よね?」
ぎこちなく尋ねると、ちーちゃんが大げさに吹きだした。
「ふふっ、何それ。女の子に決まってるじゃん。事故で性別が変わったと思ったの?」
「そうじゃないけれど、きちんと確かめたかったというか」
「心配しなくてもはる姉は、生まれた時から女の子だよ。自分のことを私って呼んでいて、話し方はお姉さんっぽかったし」
「お姉さん?」
「うん。おっとり系みたいな」
おっとり系お姉さんが今はまだ飲み込めないけれど、とりあえず病院にいる理由も聞いておきたい。恐らく右足の骨折と節々の痛みが原因だろうけれど。
「私、どうして病院にいるの?」
「どうしてって、先生から何も聞いてないの?」
「一応、症状は聞いた。骨折にむちうち、打撲に捻挫にいろいろと……そうなった原因を知りたいの」
「トラックにはねられたんだよ」
「トラック?」
声が上ずった。トラックにはねられて生きているなんて、なんて運が良いのだろう。体中はボロボロだけど、本当に良かった。
「もしも死んでたら、あたし……」
弾む声は次第に弱々しくなり、最後には消えた。代わりに現れたのは小さな嗚咽。
私たちがどんな関係だったのかはわからない。けれど彼女のことは、何となくわかった。
「こうして生きているんだから泣かないで。それで、事故の後はどうなったの?」
「その後は、えっと」
ちーちゃんが手の甲で目元をこすった。
「トラックの運転手が救急車を呼んで、ここに運ばれたの。あたしが来た時には、命に別状はないって説明されたけど……」
ちーちゃんが目を伏せた。
「記憶の混濁や、後遺症があるかもしれないって」
「記憶の混濁……記憶を失ったのはそのせいなの?」
「うん」
ちーちゃんが頷いた。
「まさかほんとに記憶喪失になるとは思わなかったよ。漫画やアニメみたいなことってほんとに起きるんだね」
「本当にね。まるでうそみたい」
「……他にも何か聞きたいことってある?」
ちーちゃんがぎこちなく首をかしげる。首筋の傷がはっきりと見えた。それをまじまじと見つめてしまい、首元が左手で隠れるまで目に焼き付けてしまった。
「あの、ごめんなさい。つい気になっちゃって」
「慣れっこだからいいよ。ただの昔の傷だし」
「そう、なんだ」
反応に困って目を伏せると、ちーちゃんが「ねえねえ」と掛け布団を叩いた。
「はる姉は全部忘れちゃったの? 何も覚えてないの?」
「多分、そうね。何も思い出せないから」
「思い出せないにしては、ちゃんとスプーンで食べてたよね。ヨーグルトのことも知ってたし」
「それは」
ちーちゃんから目をそらした。
「物の名前とか仕組みとか、知識的なものは覚えているの。全部知っているかは、わからないけど」
「そういうものなんだ」
ちーちゃんが腕を組んで頷く。
「あたしのこと、何か思い出したりしない?」
ちーちゃんの顔をじっと見た。整った、というよりは童顔なちーちゃん。一体どういう関係だったのだろう。歳が違うし名字も違う。親戚か友だちの類だろうか。
「わからないなら言ってね」
ちーちゃんが穏やかに口元を綻ばせた。
「ごめんなさい。まだ思い出せないの」
「すぐ謝らないでってば。怒ってるわけじゃないよ」
怒っているわけではないが少し寂しい。しょぼくれた顔には大きくそう書かれている。
「あたしたちね、付き合ってたんだよ」
ちーちゃんが笑えばすぐに冗談だと気付けた。しかし頬を赤らめ、指遊びをする姿は本当に恥ずかしがっているように見える。となると本当に付き合っていたらしい。
私と、ちーちゃんが。女性と、女性が。そういう恋は珍しいと頭では理解している。本来なら驚くべきなのだろう。
だけどその事実は、すっと胸の奥に溶けていった。記憶をなくしてもその理解を失わなかったことに、ほんの少し胸が温かくなった。
「夜になってもはる姉が帰ってこなくて心配していたら、事故に遭ったって連絡が来たの」
「一緒に住んでいるの?」
ちーちゃんが頷く。先ほどまで輝いていた瞳は、膝の上に乗った両手に向けられていた。
「同じアパートで二人暮らし。付き合い始めて一カ月で、これからたくさん思い出作ろうねって話したばかりだった」
ちーちゃんが黙り込む。きっと二人の甘い思い出が蘇っているのだろう。出会いも告白も、一つになった日も。
私はちーちゃんのどこに惚れたのだろう。天真爛漫なところか、純粋な優しさか。それとも小さな女の子が好きだったのか。その理由を知りたくて口を開いた。
「ねえ、ちーちゃんのことを教えて」
「あたし?」
「恋人のことを忘れたままっていうのは、ちょっとね。ちーちゃんから話を聞いているうちに思い出すかもしれないし」
なるべく明るく努めて笑顔を作る。しかしちーちゃんはこちらに視線を向けることなく、唐突に立ち上がった。
「ごめんね、この後用事があるの。また来るから」
床頭台から荷物を取ってちーちゃんは部屋を後にした。すぐに見えなくなった背中は、まるで何かから逃げるようだった。
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