5

「ありがとうございましたー」

「あ、ありがとうございました」

 降車して、ちーちゃんの声に慌てて礼を口にした。いつも感謝を忘れないのが遥。そう教わったのに危うく忘れるところだった。

「ここの三階ね。あたしが荷物持つよ」

 大荷物を両手に抱え、意気揚々と進むちーちゃん。背中を追う途中で、薄汚れた階段そばのポストに目がいった。その三段目に『高山&白沢』と記されている。疑っていたわけではないけれど、本当にここに住んでいたんだ。

 挑発的な日差しに抵抗するように階段を上ると、三階でちーちゃんが立ち止まった。

「ここから見える夕日がすごくきれいなの。覚えておいて」

 視線が示した向こう側。車窓から見た景色とは違って、比較的ビルや高層マンションが少ない。どこまでも広がる空と豆粒のような人工物との間で、緩やかに地平線が伸びていた。

「覚えておいてって、記憶喪失の人に言うのね」

「もう忘れることはないでしょ。忘れたらアイスおごりね」

 いたずらな笑みに「はいはい」と返した。

 ちーちゃんが階段前から三歩だけ進み、またも足を止めた。今度は何だろう。期待して見守っていると、ちーちゃんがバッグから鍵を取り出した。

「ここだよ」

 三〇一号室、ドア横のプランターに咲く花、鍵に付いている牛のキーホルダー。そのどれにも引っ掛からない。

 何とはなしに、膝を曲げてプランターに顔を寄せた。まるで赤い折り紙で作った風船のような花。その燃えるような赤色は夕日にも負けていない。

 何かヒントやきっかけがあれば、名前を思い出せそう。片目を閉じて頭の中でもがいていると、ちーちゃんも膝を曲げた。

「それ、ホオズキっていうの。はる姉が植えたんだよ」

 ちーちゃんが人さし指でホオズキをつついた。

「ああ、お花が好きなのよね」

「初夏にきれいに咲くからってお世話してたんだ。部屋にもサボテンとかいろいろ置いてあるよ」

 そう言い残してちーちゃんが中に入った。日常的に見ているせいなのか、ホオズキを見てもあまり表情は変わっていなかった。むしろ表情が強張ったようにも見えた。

 ちーちゃんはあまり花が好きではない。心のメモにそう書き足し、こげ茶色のドアを抜けた。

「ここがあたしたちの家。2Kでちょっと狭いけど」

 三和土を抜けた先で、ちーちゃんがくるりと回った。

 靴を脱いで上がればすぐに台所。右側にシンク、左側にはドアが二つと引き戸が一つ並んでいる。奥ののれんが掛けられた部屋も気になるけれど、一つずつ見ていこう。

 とりあえずシンク周りに目を向けた。水切りかごには二人分のコップやお皿、窓際には調味料が並んでいる。

 ちーちゃんはしばらく一人で暮らしていたから、ある程度料理はできるのだろう。だけどシンクの水垢やコンロの汚れからして、掃除はあまり得意ではないみたい。

 シンクに背を向ければ、先ほども目に入ったドアが二つ。両方曇りガラスだからトイレとお風呂だろう。その横にある引き戸の先は……少し考えても思い出せなかった。

「何も思い出せない?」

 ちーちゃんに床に落とした視線を見られた。

「ごめんなさい」

「ゆっくり思い出せばいいよ。ほら、こっちがはる姉の部屋」

 ちーちゃんが引き戸を開けて中へ入った。しばらく台所を眺め、申し訳なさを連れて部屋を覗き込む。するとちーちゃんが畳の上で横になっていた。

「ここだけ和室なのね」

「ううん」

 ちーちゃんが寝返りを打った。

「はる姉が置き畳を買ってきて無理やり和室にしたの。こうやって横になると気持ちいいよ」

 狭い部屋でごろごろ転がる姿に笑みが漏れた。

 その子どもっぽさと明るさに、今日まで何度も救われてきた。何も見えない暗闇の中で、ずっとそばにいたちーちゃん。本当にこの人を選んで良かった。記憶を失う前の私を褒めてあげたい。

「私もいい?」

「はる姉の部屋だもん。どうぞどうぞ」

 ちーちゃんが空けたスペースに体をねじ込んだ。

 軽い弾力と鼻孔をくすぐるイグサの匂い。空っぽの手で表面をなぞれば、凹凸に指先が掛かって音がした。目を閉じると火照った体の熱が畳を通して消えていく。このまま夢へと落ちてしまいそう。

「このまま眠っちゃう?」ちーちゃんの声が畳に転がった。

「その前にちーちゃんの部屋も見てみたいわ」

「ほんと? ちょっと待ってて。昨日片付けたんだけど、もう一回見てくるね」

 慌ただしくちーちゃんが去り、隣室から聞こえてきた騒がしさ。静かになるまで部屋でも眺めておこう。体を起こして部屋を見渡し、なぜか首をかしげてしまった。

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