武蔵野八幡宮の蕨手刀の謎
坂崎文明
吉祥寺の地名の由来と武蔵野八幡宮
御由緒によると、桓武天皇の御代の789年(延暦8年)に
元々、江戸小石川水道橋付近にあったが、四代将軍家綱の頃、明暦の大火〔西暦1657年3月2日 から4日(明暦3年1月18日から20日)〕で焼失したため、周辺町民共に現在地に移転した。
1658年(明暦4年)1月に再度の大火(吉祥寺大火)で「吉祥寺」も焼失し、現在地(駒込、現在の東京都文京区本駒込)へ移転する。
1661年(寛文初年)の吉祥寺村開村により村民の氏神様として尊崇されているという。
1659年(万治2年)11月 に 佐藤定右衛門、宮崎甚右衛門、松井十郎左衛門が武蔵野原野の開拓を開始していく。
東京武蔵野市の吉祥寺の歴史を色々と調べてみた所、「吉祥寺」というお寺の門前町の住民が野原の広がる武蔵野の牟札野(現吉祥寺)に移住してきて、吉祥寺村が開村されている。
つまり、度重なる江戸の大火により、「吉祥寺」というお寺の門前町の住民が中心となって、原野の広がる武蔵野の新田開発をしていったのだ。
「吉祥寺」に愛着のある住民が「吉祥寺村」という村名をつけたと思われる。
その後、駒込の名手松井氏、浪士佐藤氏、旗本宮崎氏は五日市街道沿いに移住。その西隣りに江戸の西の窪の城下町の井野氏が入植したりしている。
1889年(明治22年)に吉祥寺、西荻、関前、境の4か村が合併し、武蔵野村(人口3,089人)となる。
その後、1947年(昭和22年)11月武蔵野町から武蔵野市(人口6万3,000人)になっている。
武蔵野八幡宮の由緒を調べていたら、意外な歴史が明らかになった。
度重なる江戸の大火による住民移住が、原野の広がる武蔵野の新田開発を加速した要因だった。
その後、歴史を下ると、東京のベットタウンなどとして人口増加して発展していったようだ。
話を武蔵野八幡宮に戻すと、この神社の旧名は不明である。
「武蔵野」という名前から見て、「武蔵野」の地名にちなんだものであり、以前の名前があったと推測される。
祭神は弓矢の神様として名高い応神天皇(
国家守護の八幡様総本宮「宇左八幡大社」(全国に4万社あまりある八幡様の総本宮)から分霊されたので、蝦夷討伐で活躍した征夷大将軍の坂上田村麻呂が戦勝祈願、国家守護を祈願して建立されたのは間違いない。
そして、この武蔵野八幡宮には
現存長63cm、最大身幅4.3cm、厚さ0.5cmで、外装を失い鍔は錆びている。製作年代は7世紀末から8世紀頃と考えられている。
現在、非公開になってるが、
名前の由来は共鉄造り(刀身と柄が一体の刀)の
全体のシルエットは刀身と柄が「逆九の字型」に若干、外に反っている山刀を想像してもらえれば良い。
東日本の蝦夷は騎馬と弓術、蕨手刀とを組み合わた騎馬戦術を得意としていた。
また、威力向上と使い勝手を追及して改良した結果、
西日本でも出土例があるのだが、蝦夷の物とは型式が異なるようである。蝦夷の
その後、柄に透かしをつけて指をかけることによって
この刀を長刀化したものが「
馬上戦闘で使いやすいように、古墳時代の大和の直刀から刀身が反っていてる湾刀へと進化している。
そして、この武蔵野八幡宮から何故、
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