第12話


 伝承に曰く、狼男を倒すには銀の武器が必要なんだとか。


 昔から銀とは悪いモノを祓う力があるとされているが、中世以前の貴族社会での暗殺で主に使われていたヒ素、これに含まれる硫黄の化合物と反応して黒く変色する性質を持つことから、毒殺に対する警戒として銀食器が広く使用されていた背景がある。身を守る力があるとして信仰が集まったか、化学反応について無知だった時代だからこその夢想が生み出した考えなのか。


 暗殺なんて現代ではそう起きることでもないし、一般的に銀食器を使うのは趣味の範疇だろう。


「いいぜェ……ッ、幾らでも掛かって来やがれ!!」


 巨大な妖狐の次は魔女と見紛う少女に狼男。

 幾らこの世に超常の能力者が居るとはいえ、こうも伝承に準えた存在が出てくることにどんな意味があるのだろうか。


 やる気満々の狼男はもっさもさの体毛を逆立てて身構えてくるが、俺はまず手の平を示してこう言った。


「悪いが俺は巻き込まれた一般人だ。君にも、君の仲間にも敵対する意思はない。ただ目の前に負傷者が居るので容態を確認したいがいいだろうか」


「あァ?」


 納得しようがしまいが関係無しに俺は早々と膝を付いて少女を確認した。

 小柄だ。比べるまでも無く俺より一回りは小さい、が、顔付きはどこか大人びていて年下という感じはしなかった。

 傷を見ようと肩へ触れた際、瞼が辛そうに揺れて息が漏れる。俺は持ってきていた消毒液をハンカチに染み込ませて瞼へ軽く押し当てる。すり傷が出来ていた。他にも首元の出血、左足首はおそらく捻挫、意識を失いながらも抑えて庇っている腹部は下手をしたら骨に異常があるか、最悪の場合は内臓の損傷が考えられるか……?

 医学など聞きかじった程度にしか知らない。

 素人判断などではなく、すぐに医者へ診せるべきだ。


「おいテメエ……ッ」

「君がやったのか」

「だったらどうしたってんだ」


 負傷による意識の喪失なんてそう簡単に起きることじゃない。

 猛烈な痛みによる脳機能の麻痺や失神は、そのまま重大な後遺症を引き起こす危険がある。

 ましてやブロック塀を粉砕するほどの衝撃を受けているのだ。


「これはれっきとした傷害事件だ。君は刑法により罰せられる可能性がある。過剰なまでの暴行から、裁判の内容によっては殺人の意図があったと証明されることも考慮すべきだろう。そうなれば未遂であったとしても五年前後、重ければ無期の懲役刑を課せられるかも知れんぞ」


「何の話をしてやがる」


 とりあえずの分かり易い致命傷はない。

 内部はともかく、応急処置が可能なのは精々が消毒程度。


 後は、姿勢を楽にしてやることか。


「君は刑法を知らないのか。それでなくとも小学校の時に誰かを殴れば、終わりの会で先生に怒られたり、両親から叱られたりはしなかったのか。仮にこの子の方から仕掛けたのだとしても、過剰防衛と判断されれば罪に問われることになる」

「だッからよォ……、そんなのに何の意味があるってんだオイ!!」


 足元の瓦礫をサッカーボールみたいに蹴り飛ばし、再び獣の如き唸り声。


 咄嗟に左腕を出して少女を庇うが、当然のように腕を吹っ飛ばされて仰け反った。

 突っ張るようには構えていない。

 腕は構造的に外へ開きやすいから、瓦礫そのものは上へ逸らされて後ろへ飛んだ。


 が、痛い。


 そりゃあそうだ。

 相手からすれば小石を蹴ったようなものだろうと、一抱えもある瓦礫なら十キロは下らない。

 皮膚は削られ、衝撃を受けた肘も肩も、腕の筋さえも強く痛む。

 拳を握るのが辛い。


「警ェ察に俺が捕まえられるってのかァ? 俺ァ最強だぜ! どんな奴にも負けやしねえ……!」


「ほう。ならば野を駆け山を住処として文明を捨てるという意味だな」


「ッどくせェな、何の話してやがる」


 上着を丸めて枕にし、頭の下へ入れてやる。

 移動させようかとさっきは思ったが、内部をやられているのなら危険かも知れない。

 早めに救急車を呼びたいが。


「社会はそれを乱す逸脱者を排斥する。集団、群れというのは常にそういう性質を持つ。暴力や殺人を是とする個人であるなら尚更だ。警察の存在を知り、その武力の程を理解するならば、君は普段ごく普通の生活を送っているのだろう。殺人未遂の容疑者として指名手配を受けることになるかも知れない、という意味だよ。仮に一人一人、一部署としての警察を撃退出来たとしても組織として厚みある彼らは延々と君を追い続けるだろう。昨今では軍隊並の訓練を受けた特殊部隊も存在するらしい。それでなくとも、手に余るならば自衛隊が出動してくる可能性がある。君に数十万キロ向こうから延々と発射されるミサイルをどうこうする力はあるのか? この国に核兵器は存在しないが、部分的な破壊力だけならばそれ以上の兵器など幾らでもあるぞ。いや、流行に乗っていくのならばドローンの存在を忘れてはいけないな。戦車すら粉砕する火力を有し、遠隔操作されて高空より攻撃を仕掛ける兵器に君は対抗可能なのか。暴力の化身となって社会から逸脱するとはそういうことだ。君は眠る暇も無く、現代的な食事にあり付けることも無くなり、川や池の水を啜って、そこらの虫や野草を食んで生き、その生涯に渡って無数の敵からあらゆる兵器で命を狙われ続ける。当然気になっているマンガの続きなど読めないし、クーラーや暖房のある家で安らぐことなど出来なくなる。その覚悟があるのかと聞いているんだよ」


 狼男というのは存外に表情が動くらしい。

 笑顔を見せる犬の動画なんてのをコハルと見たことがあったな。


 男、でおそらくは合っているだろうが、彼は見るからに不機嫌そうな顔付きを見せている。


 まるで口喧嘩で二の句が告げない子どもだ。


「さっきも言ったが俺はこの子とも無関係な一般人だ。君達との戦いに巻き込まれたのも偶然であるし、率先してどちらかに与する気も無い。ただ、明らかな犯罪を前に制止を訴える程度のことはするし、怪我人を見て見ぬフリするのも目覚めが悪い。せめて救急車を呼んで彼女を引き渡したい」


 攻め過ぎたか。

 追い詰めすぎれば暴走するのは自明の理。

 適度に負けるのが寛容とはいえ、半端なことをすれば調子に乗りそうなタイプにも思える。


「っはは!」


 汗が背中を垂れ落ちた。


「テメエのご大層な意見にはちょぉーっと納得出来る所もあったぜ。あァ、俺だって来週号の続きが読みてえからな」


 短絡的に物事を見過ぎていたのはどちらだったか。

 見た目や言動の印象とは異なり、思っていた以上に柔軟で、知恵が回るのかも知れない。


 煙に巻いていられる時間はそう長くない。


「だからこう考えたんだ――――目撃者が居なくなれば、誰も俺を追えやしねェってなア!!」


 今度こそ、戯れではなく。


「本物の化け物ってなァ人の噂に宿るもんだッ。誰も本物を知らねえ! 見たモノ全てが生き残れねェ……! それこそ伝説の魔獣に相応しいってもんだろうがよオ!!」


 瓦礫を吹き飛ばし、大地を揺らして狼男が迫る。

 俺に対抗手段はない。

 護身用にと持ってきたプラスチックの果物ナイフなんて役立たず。


 助けを求められた。


 ならばこうなることは分かっていた。

 だから、こうなることは分かっていたんだ。


「……間に合わないかと思いましたよ」

「いや悪い。電車遅延してたし、のろのろ走りでいつまでも駅に着かなかったんだよ」


 倭刀を手にしたアキト先輩が背後より躍り出て、砲弾みたいに飛来した狼男を難なく叩き返した。


    ※   ※   ※


 少女は背負い上げようと足元へ膝をつくと、黒猫が寄ってきてか細く鳴いた。

 大丈夫。意識は無いが見て分かる致命傷は無い。腕を掴んだだけで痛そうに呻いたのは気掛かりだが、こうなった以上は救急車を呼ぶのは難しい。


 瓦礫を受けた左腕の痛みは我慢出来そうだ。

 怪我当初はアドレナリンで平気に感じてしまうというから、後で辛くなるかもしれないが。


 せめて家事に支障の無い程度に収まって欲しいものだ。


「大狐じゃないんだな」

「アキト先輩も初見ですか」

「あぁ。狼頭なんて初めて見たな」


 その狼頭の男は両腕を地面へ叩き付けて跳ね上がることで勢いを殺し、空中で体勢を作って着地する。

 落着の勢いを吸収する屈み込みは、そのまま駆け出す姿勢となった。


 来る。


 圧を感じて一歩下がったのと同時、すぐ目の前で空気が弾け、ガラスが割れ砕ける音が連鎖した。

 受け止めたのはアキト先輩だ。

 先程とは違い、叩き返すことが出来ないでいる。

 おそらくは相手側で警戒し、振り抜きを受け止めに来たからだろう。

 飛びついてきておきながら器用な奴だ。掴み掛かりは膂力で勝る側にとって圧倒的な有利を得る方法、ということか。


 対しアキト先輩は半歩を引いて掴みから身を逸らすと、着地直後の不安定な狼男の足元へ軽く一振りして姿勢を崩させての当身。引きが早い。驚いたのだろう狼男ががむしゃらに手を伸ばすのを回避して再び元の位置へ。


 再びの交叉は一息の間があった。


 迎え撃つアキト先輩。刀剣と素手。だというのに両者の間には凄まじい火花が散って鍔迫り合う。火花、とは感じたが、よくよく見ると赤熱した破片なんかには見えない。何か、普段は感じることも無く、見えもしない何かが削れ、軋んだ結果のような――――


「行け!」

「っ、はい!」


 言われ、俺達が彼の自由な立ち回りを制限していることに気付いた。

 痛がる様子に一々動きが鈍ってしまうものの、しっかりと身体を支えなければ逃走の際に脚が鈍る。


「誰が行って良いって行ったよ……!!」


 獣の唸り声と共に狼男が倭刀を地面へ向けて叩き付ける。

 腕を一振りしただけで空気が弾け、咄嗟に脚を踏ん張るほどの衝撃、単純な膂力だけなら相手に軍配が上がるらしい。


 だがアキト先輩は押し切られると同時に一歩を引いた。

 先程当て身で押し込んで出来たたった一歩半の余裕。

 その後退によって支点が遠退き、作用点のベクトルが変わる。

 地面へ向かう筈だった力は空転し、円を描いた。

 彼はその大きな力に逆らわず、巧みに手の中で倭刀を回して更に半歩後退し、重量のある武器の位置をそのままに突き姿勢へ移行し静止した。


「俺が言ったな。アンタの意見はどうでもいい」


「邪魔するならテメエごと食い散らかすだけだぜェ!!」


 踏み込んでくる。その膝元へ正確に突き出した倭刀を見て狼男の上体が強張る。先程距離を取ったばかりだ、アキト先輩は軽く踏み込んだだけだから切っ先すら届かない。なのに、固くなった相手の動きを見てふわりと身を寄せつつ倭刀を切り上げれば、再びあの火花が散って狼男が仰け反った。

 脚を下げれば踏み込んで、打ち込まれたらいなして、そこで振るわれている暴力の大きさを忘れてしまいそうなほどに小さく、静かなやり取りが続く。

 俺には相手の狼男が水面でもがいているようにすら見えた。


 強い。


 おそらく相手の膂力が発揮できない動きをしているのだろうが、ほんの数秒の間にどれだけの読み合いがあって、どんな技が使われているのか俺では検討も付かない。

 ただ、これなら任せてしまっても良さそうだ。


「お前、あの大狐の仲間なのか? それとも別口か?」

「ぁあ? 大狐? 俺ァ狼だぜッ、狐なんぞと仲良く出来るかよ!! っつーかウゼェ! 男なら真っ向勝負しやがれってんだよ!!」

「自分の得意で気持ちの良い土俵に立たなきゃ卑怯者に見える口か?」


 背負い上げた少女を安定させるべく、彼女のものだろう杖をお尻の下へ通して支えにする。

 せめて腕を回して捕まってくれれば楽なんだろうに、意識がない状態では望むべくも無い。

 従ってやや前傾気味の姿勢で踏み出し、加減を確認する。


 行ける。

 多少走りにくいが、今は離れることが優先。


「合流は同じ方法で!」

「分かった! 行けッ」


 俺が駆け出すのと同時、狼男が大きく距離を取ったのが分かった。


 靴底が地面を蹴る。

 大地が揺れていた。

 背後で何かが行われる。

 唐突にやってきた凪のような不自然さに再び振り向きたくなる誘惑を押し殺し、全てをアキト先輩へ託して走った。


 戦いが起きる可能性は十分考慮してきた。

 協力関係とはいえ、危険がある事へ彼を巻き込み、頼んだのであれば。


 来てくれたという、たった一つの恩義を胸に信頼する。


 そうして背後で弾けた何か巨大な衝撃はあの曲者感漂う頼れる先輩がなんとかして、俺の行く先を付けてくれた。


    ※   ※   ※


 まずはと無言で走り続けた。

 斥候みたいに周囲の様子を見ては戻ってきて先導してくれる黒猫も、途中で何かに気付きつつも役目を全うしてくれた。


 団地街を抜け、ゴーストタウンと見紛うほど人通りが無い通り沿いの公園へ辿り着いた所で、ようやく遠退いてきた戦いの喧騒を意識の端で感じつつ少女をベンチへ降ろす。やはり目が覚めていたようだ。


「…………あり、がと、っ痛」

「捻挫か、骨折か、足首が腫れているから無理をするな」

「ぁ……」


 無理に離れて立とうとするから、腕を掴んで座る補助をしてやる。


 ゆっくり動き、手から重みが消えたところで初めて手を離し、一歩下がって改めて向き直る。

 ジャリ、と靴底が砂を噛んだ。

 支える為に下向いていた視線が昇っていき、やがて、不安そうに俺を見詰める瞳に意識を縫い止められる。


 吐息が落ちた。


 瞼を閉じて、やや視線をズラして開けると、相手も気まずそうに逸らしている所だった。

 推し量るように、彼女を観察する。


 自分で巻いているのか、天然なのか、腰元まで伸びる栗色の髪は毛先が波打っており、背負っている時には首元をその艶やかな感触が触れていたのを思い返す。小柄故に掛かる負担は小さく、今も支えることに支障は殆ど無かった。小柄、加えて実に細身だ。年齢も考えれば当然だが、コハルはもっと小さいながらもまだ肉がある。骨ばっているほどではないものの、例えば渡井や、相原のように運動が出来る身体には思えない。

 そんな身で戦い、負傷したという事実が妙に重く感じられた。


 少女はベンチにちょこんと腰掛けて、手櫛で髪を整えるが、痛みに身体を僅かに震わせた。


 最初の印象通り、仕草や表情に緊張が見えるものの、目元はやはり大人びて見える。

 息を入れ替え、


「あの、助けてくれて、ありがとう――――アーヴェン」


「状況を確認したい」


 意図的に呼び掛けを無視した。

 問うべきこと、定めるべき方針の選択肢は家を出る時から考えてきた。


「君は何らかの組織に属しているか? いるのなら構成人数と、代表者の名前と連絡先が欲しい。個人であるのなら何が目的で行動を起こしているのか……これは組織としての目的であっても答えてほしい。既にこちらは相当の危険を犯して君を救助している、恩着せがましかろうと答える義務があると思うがどうか」


「あの、私は……」


「質問に答えてくれ。まず今後の動きについて方針を立てたい」


 やや強めに言うと彼女は身を固くして俯いてしまったが、すぐに息を入れ替えて向き直ってきた。


「組織、とは違いますが、連絡を取り合っている人が居ます。三人だけの、小さな集まりで」

「三人全て、あの狼男のような力があるのか。君の力についても聞きたい」

「はい……私の力は、西洋の魔女から抽出したものです。色々出来ます。この子も、使い魔として使役してる、友達、です」


 膝上に乗ってきた黒猫を撫でて、ようやく安堵の表情が浮かぶ。

 指先は滑らかで、猫も素直に受け入れて喉を鳴らしている。


「他の子の力は……私が言っていいか分からないので」

「分かった。重ねて問うが、君の目的は何だ」


 先程からそうだったが、俺の問いに一々強張っているのは何故だ。


 まあ、前世云々を別にすれば赤の他人だし、俺自身声が固くなっている自覚くらいはある。


 名前。

 名前か。


 聞いてしまえば全てが解決する訳でもないが、今のこの、無駄に頑ななやりとりは解消出来るのかも知れない。


「今も戦闘が継続している。悪いが、急いでいることは考慮して貰いたい」


 出来るだけ静かに問いかけたつもりだが、少女は叱られたみたいに強張って顔を俯かせてしまう。

 キャップに手をやるも、ツバを降ろした所でベンチに座る彼女からは丸見えだ。

 見られていないことだけが救いか。


「私、達は、最初、とても怖くて……助け合っていた、だけです」


 取り留めもない出だしだが、辛抱強く待つ事にした。


「いきなり変な力と、記憶が流れ込んできて、ぶつかったりもしたけど、その後は少し、仲良くなれて、こっそりと力の使い方を練習したりして遊んでいただけです。そしたら、ある時から急に外から似たような力の人がやってきて、私達を攻撃しました。苦戦はしましたが、友達が……私達の集まりの、リーダーみたいになってる子が、力の抽出方法を見い出して、撃退してからは、来なく、なりました。それからは、私達以外にも力の持ち主が居るんじゃないかって、あちこち探し回って――――」


 不意に顔をあげて、縋るような弱さと、戦ってきた者特有の強さを混在させた瞳で以って俺を見詰めてきた。

 それでも尚、瞳は揺れて、じんわりと涙が浮かんでくる。


「貴方を、見付けた」


 頬を流れ落ちて初めて、彼女はそれに気付いたらしい。

 はっと頬へ手をやり、気恥ずかしそうに顔を逸らして手の甲で拭う。


 ポケットの中のハンカチを取り出そうかと、そんな下らないことで逡巡している俺を置き去りに、涙を拭った少女は幾分晴れやかな様子で向き直ってきた。


「あんな記憶、自分の妄想なんじゃないかって思ってました。二人は、仲間の子は私のような記憶を持たなかったから、それに、あの記憶は多分、私を…………、いえ、今は嬉しく思ってます。記憶の中で私は、貴方を、アーヴェン=リラ=スィヴェールをとても眩しく思っていましたから」


 こちらが無言である事を意に介さず、少女は喋り続ける。

 夢中になっているのかも知れない。

 興奮し、伝えるべき情報の取捨選択すら忘れてしまう。


 彼女の手の中で、黒猫がか細くにゃあと鳴いた。


 それでも続く言葉は、奇妙や不審を抱かせるに足るものだった。


「あの、紫陽花の話、覚えてますか?」


 手紙でやり取りした、文官任せにして清書だけしていたものを、後になって読み返しただけのものを、彼女は素敵な思い出のように語ってみせる。


「記憶が戻るまで、私は梅雨が苦手でした。じめっとしていて、濡れてしまうし、髪だって……でも、貴方と話した紫陽花がとても綺麗で、好きになっていました。貴方が――――」


「雨に濡れる紫陽花はとても儚げで、霧の向こうに見る月のようだと」


「それですっ。あぁ……本当に、アーヴェンなんだ。世界を超えて、また貴方に会えるなんて」


 運命、なんて言葉を思い浮かべているのだろうか。

 うっとりとした表情で頬を染め、眩しそうにこちらを見る少女に俺は、


「君は」


 いや、それよりも。


「っ!?」


 彼女も気付いた。

 気のせいではない。


 何か、と言い知れない圧迫感を覚えながら周囲を探っていると、公園の木々を揺らすほどの轟風が叩き付けられ、それに乗って木の葉が舞う。

 紛れ込んだ独特な形に切り取られた紙を、木の葉の中に確認した。

 あれは、


「式神使い!?」


 彼女の方が理解が早かった。

 立て掛けていた杖を取り、飛び降りる黒猫へ目をやりつつ立ち上がろうとして、


「痛っ」

「無理をするな」


 支えて腕を掴むと、驚いたようにこちらを見て頬を染め、口を半開きのまま何も言えずに逸らしてしまった。


「集中してくれ。知っているかと思うが、俺は力の抽出などしていないから、何の力も持っていない」

「っ、はい!」


 ある意味正しい使い方として杖を支えにし、俺の補助を受けつつ彼女は何かを呟き始めた。

 言語になっていない。そう感じるのは、とても小さく、囁くよりも不確かなものだったからだ。


「カゲロウ!」


 呼び掛けは、足元の猫に対してだった。


 魔女と、猫。

 童話でも見る組み合わせか。


 彼女が杖の先を黒猫へ向けると、杖と猫の双方が仄かな光を放った。

「っ」

 支えつつベンチへ座らせてやる。


 その後ろで猫が一際強く鳴いたかと思えば、足元の影が揺らめき、全身が真っ黒に染まった。

 影が本体を飲み込んだとでもいうのか、最早黒い塊となった黒猫が駆け出し、変化する前の符を爪で切り裂いた。


 しかし一枚だけじゃない。


 左右で二体、奥に三、そして俺達の背後に一、他にも何体か、公園を内と外から取り囲むようにして妖狐が身を起こす。

 狼男のように分かり易い威嚇はしてこない。

 だが、数と威容、それだけで脅威を感じずにはいられなかった。


 一体だけなら、一人だけなら、逃げる算段程度は浮かびそうなものだが。

 背後に庇い立った少女へ向けて、同時に警戒を続けながら問い掛ける。 


「コレは君とも敵対しているのか」

「こいつが襲撃者です!」


 鳴き声がして空を仰ぐと、数羽の烏がやってきて黒猫と同じような変化を見せた。


「勝てるか?」

「数が多いです……ッ」


 猫が一体へ襲い掛かり、妖狐が身構えた所へ烏二羽が上空から飛びかかって叩き伏せる。猫と烏から飛び出したギロチンの刃みたいなものが振り回されて、瞬く間に一体を撃破。強い。が、一体抑えるのに手駒が三。最初から数で劣る以上、この構図はかなり厳しい。


「っ、あの狼男にかなりやられてしまって」


 現状で勝利は難しいか。

 俺に助力する手段はない。

 精々囮になるくらいだが、目の前で数秒踊ってみせるのが関の山。

 下手をすれば足手纏いになって状況を悪化させかねない。


 蛮勇に奔って余計な手間を増やすくらいなら、然るべき方針を定めるべきだ。


「撤退する。退路を開き、敵の攻勢を抑えるだけなら可能か」

「それなら、っ、でも、敵の増援があったら」


 確かに。

 状況の背景が不鮮明過ぎるな。

 彼女が目覚め、こうして力を行使出来るのであれば、いっそアキト先輩との合流を優先すべきかも知れない。


 俺は最初の合流時と同様、GPS通知が続いていることを確認し、相手側の信号を見て、


「いい。今は耐えろ」


 後数分あれば、などと考えた直後だった。

 公園の向こうにある団地の二階辺りが唐突に弾け、何かの塊が公園脇すら飛び抜けてアルファルトへ叩き付けられた。

 纏わり付いていた粉塵すら置き去りに跳ね跳んだ人型を凝視する。


 狼男だ。


 つまり。


「アキト先輩……呆れる強さだな」


 足枷が無くなって自由に動き回れるようになったからか、それにしても建築物損壊は冗談じみている。

 ゴーストタウン、でいいんだろうか。

 住民が居たら大惨事だろうし、助けを求めておいてなんだが、俺に損害賠償を支払う能力はないぞ。


 あまり壊さないでくれ、胃が痛くなるのを感じながら公園へ目を戻すと、黒猫と烏達が地形を巧みに利用して妖狐の接近を阻んでいた。具体的に言うと公園の樹木やブランコなんかをぶっ壊して投げ付けていた。あの伸びるギロチン、電灯の支柱すらバターみたいに切り裂いているんだが、こんなのを圧倒していたらしい狼男を更に圧倒するアキト先輩はなんなんだ。

 思えば妖狐と一年近く戦い続けていて、おそらくは勝ち続けてるんだよな。


 そのアキト先輩が現れた。

 囲いを作る妖狐を背後から強襲し一刀。

 蛍火となって掻き消える一体を越えて更にもう一体へ飛びついて切り伏せ、寄せてきていた一体を掴むとこちらの崩れつつある右翼へ投げ付け、二体を巻き添えに叩き飛ばした。巻き込まれた樹木がひしゃげ、盛り上がった根がアスファルトを砕く。


 呆れた光景の更に奥、ぎこちなく立ち上がった狼男が咆哮する。


「ンだテメエら!! 俺の邪魔すんじゃねええええ!!」


 手近に居たからか、妖狐へ襲い掛かって難なく仕留め、黒猫らが投げ付けた倒木を掴むと棒切れみたいに振り回して暴風を巻き起こす。

 まるで暴力の化身だ。土石流だとか、竜巻のような、ただそこに在るだけで破壊を撒き散らす存在。

 だから技で以って力をいなし、的確な攻撃を加えるアキト先輩とは相性が悪いのだろう。


 しかしそれも獣同士のぶつかり合いとなれば話は別。


 アキト先輩を上回る勢いで妖狐を薙ぎ倒し、景気良く遠吠えを発する狼男の周囲へ更に増援が続き、それも次々と打ち払って叫ぶ。


「どこ行きやがったクソ野郎!! 俺ァまだ負けてねえぞ!!」


 あ、アキト先輩がしれっと奴の視界から隠れるように妖狐を誘導した。


 まあ同感だ。

 あのまま暴れてて貰った方が色々と楽だろうし、ちょっとおっかない。


 後退すべき。合流は出来たし、援護を貰える距離を保ちつつ順次後退……被害が拡大するのは悩みどころだが、加害者は相手側ということにして色々押し付けられないものか。


 右翼が崩れた。

 行けるか。

 ベンチの前で膝をついて、再び少女を背負おうとしたが、


「まだくるのか……っ!」


 差し込んだ強烈な光に空を仰ぐ。

 ここまで続けば嫌でも慣れてくる。

 狼男を見た時と同じ、圧倒的な気配。


 いや、それ以上の、超越的な存在が齎す世界の変質。


「なんなんだ」

「知りません、私も、あんなの見たことが」


 雲間を割って、翼の生えた天使が降りてくる。

 降り注ぐ光の眩いことよ。あんなの、どれだけの目に留まると思っている。


 天使は光の翼を広げ、手にしていた杖を地上へ向ける。


 無数の光の槍が雲の向こうから降り注ぎ、けれどそれらは全て――――アキト先輩を狙っている……!?


 この場で最も厄介なのだろう彼、しかし何が目的だ。


「アキ――――」


 撤退を。


 そう叫ぼうとした。


 それよりも遥かに早く、倭刀を腰溜めに構えていた彼が一刀を降り抜く。


 シャンデリアを叩き飛ばしたような音が鳴り響き、降り注いでいた光の槍が一斉に弾かれた。

 何が起きたのかすら分からない。

 物理現象を逸脱しているとはいえ、現象そのものが見えなかった。

 まるで、降り抜いた斬戟そのものが空間を越えて全ての光の槍を同時に叩いたような。


 それでも彼の身体は人間だ。

 降り抜いた腕は天を向き、戻すにはほんの僅かな間が必要となる。



 横合いから襲い来る妖狐と、その奥から狙う狼男、そして――――そして、天空から飛来した雷鳴が歪な軌道を描きながら、今度こそアキト先輩を打ち抜いた。



 光に目が焼かれたのは数秒。

 その向こうにある彼の姿を見て取り、最初、稲妻さえも耐え抜いたのかと誤解した。


 倒れていく。

 負けた。

 いや、生きているのか。

 あんな攻撃、本来なら消し炭になっていてもおかしくない。

 ならば。


 崩れ落ちていく方針の欠片を拾い集め、今やるべきことを思考する。

 思考の間は停滞となった。


 立ち止まる俺より先に、狼男が動いていた。


「クソがッ、邪魔してんじゃねえぞゴラァアア!!」


 追撃を掛けようとした天使へ折れた樹を投げ付け、邪魔な妖狐を纏めて薙ぎ払う。


「俺が相手だ! 降りて来いやぶっ殺してやる!!」


 暴力の化身。

 闘争本能の塊。


 何はともあれ、俺達にとっては都合が良い。


「アキト先輩を!」

「はい! カゲロウ!」


 黒猫が素早く駆けて倒れたアキト先輩を回収する。

 未だに狼男が暴れている脇を抜け、その間に少女を背負い直すと、首に回された腕がしっかりと絡んでくるのを確認して、俺達は逃げ出した。


 紛れも無く、敗走だった。


    ※   ※   ※


 重たいガラスドアを閉じて、外界と自分の居る場所を遮断する。

 白を基調とした床に壁。特徴は薄く、好まれもしないが嫌われもしない、無難さを掲げるような造りの建物。


 逃げた先で身を隠す場所に選んだのは、無人になっていた公民館だった。


 使い魔というのは中々に便利な存在らしい。

 上空から周囲を警戒しつつ、敵から逃れて身を隠す場所を見付け出し、挙句無人で閉じられていた鍵を強引に切り裂いてみせた。


 また器物破損……などと無粋なことは口にすまい。


 だが当たり前に違法行為を行う少女の感覚には異を唱えたかった。

 緊急回避とはいえ、無闇に被害を拡大させて良い理由にはならない。ならないのだが、実際に逃げ込める場所は必要だったので仕方無い。


 俺は押し入った公民館の奥へ進み、非常灯の明かりを頼りにベンチを見付けると、そこに少女を降ろし、黒猫に隣のベンチを示してアキト先輩を横たえさせた。多少、手を貸す必要はあったが。


「…………悪いな」

「起きてたんですか」


 平気だよ、とでも示そうとしたのだろう。

 挙げてみせた腕が痛みに強張り、ごまかすように振られて落ちていく。


「無理をしないで下さい。落雷が直撃したんですよ、なんで生きてるんですか」

「随分な言い草だな、後輩。咄嗟に刃先で逸らしたんだよ」

「普通雷は逸らせません、電導するだけです」


 仮に出来たとして、隕石が余波だけで周囲を薙ぎ倒すように、雷もまた電熱を始めとした多くの余波を放って落ちてくる。

 周囲の高所を完全に無視してアキト先輩を狙い撃った雷に物理現象が当て嵌まるかは別として。


「全く、消し炭になったかと思いましたよ」

「生憎と生きてるなぁ」


 だが、


「……戦えますか」


「無理だな。利き腕が動かん。手首も腫れてる。脚もなんかおかしい」


 ついでに言えば皮膚のあちこちに火傷がある。


 隣で座る少女を見た。

 彼女もまた足首を痛めていて、内部的にはどうなっているか分からない。

 あの狼男は平気で動き回っていたが、コンクリートの壁一枚を突き破るような衝撃を受ければ、人体は損傷して当たり前だろう。

 使い魔の黒猫と烏がまだ居るとはいえ、そもそも彼女は狼男に圧倒されていた。


 少女の救出という目標は達成できたが、まだ完全に逃げ切れたとは言えず、新たな問題は次々と山積していく。


 アキト先輩は戦闘不能、少女も戦力としては片手落ち、相手は未だ健在で底が見えないまま。

 こんな状況で交渉を持ちかけた所で、一体誰が応じるだろうか。


 暴力の存在こそが平和を造り、繋ぎ止める。


 ならば武力を持たない俺には、最早状況を主導していく手段はなくなったのだ。


「……あれ、電話、通じない」


 不意に落ちた呟きに目を向けると、少女が携帯を取り出して画面を睨み付けていた。

 電話、そうか、彼女にはまだ二人の仲間が。


 自分の携帯を取り出して見てみるが、同じく右上には圏外の文字。


 通信障害……?


 ネットはどうかとアプリを起動してみるが、画面にノイズが走った後に表示されたのは、接続できない旨を伝えるシステム画面。


「アキト先輩」

「尻のポケットに入ってる。壊れてなきゃいいがな」


 取り出して確認するも、やはり圏外だ。


「敵の工作、と考えた方がいいですね。彼女の仲間から助力を受けられたらとも思ったのですが」

「あ、ごめんなさい」

「いや」


 可能性としては、あの落雷を放った者によるジャミングだろうか。

 となると駅前での事故にも絡んでいるのか。


 吐息を落としかけて、飲み込んでからそっと肩を落とす。


 顔が俯いていくのはどうしようもなかった。

 この背に圧し掛かる、行動を起こした者として負うべき責任と、結果によって降りかかる負債が頭の中をぐるぐると回っていた。


 連中に法律は通用しない。

 説得の言葉は届かない。

 押さえつけて訴えを聞かせるだけの武力がない。


 後はもう、好き勝手に奪われる。


 行動を起こしても尚届かず、また、失わせてしまうのか。


    ※   ※   ※


 不意に明かりが点いた。

 スイッチは操作していない。

 追撃か、元より中に居た者を見落としていたのか。

 足音は二つ。

 敵は……いや、



「白旗を揚げるにはまだ早いですよ、王子」

「貴方の手駒はまだここにあります。今こそ振るう時。そうではありませんか?」



 しなやかな足取りで姿を現したのは、

「あれ」

 アキト先輩が呟く。

「藤堂先輩……と」

 その背後を回り込むようにして覗き込んできた、加賀谷の二人。


「はいはーい! 前座の出番も終わった所で、そろそろ真打登場と行こうじゃないですかっ」


 得意気に笑ってみせる彼女の前で、竹刀を突き立て仁王立ちする藤堂が静かに口を開いた。


「事情は先程の戦闘と、加賀谷からの情報である程度は把握致しました。王子、今こそ我々を御使い下さい。望む儘に、望む結果を掴む為に」




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