第11話
駅前では未だに事故の騒動が続いていた。
興奮した様子で同じ言葉を繰り返しているキャスター、携帯のカメラを向ける野次馬、それらを邪魔そうにしつつも事故現場を横目に駅へ向かう者、出てくる者。なにより、警察が見たことも無い点滅を見せる信号機の下で車の誘導を行っており、その背後では派手に散らばった事故車の破片と思しきものが見て取れた。事故車は、探せばすぐ見付かった。報道では車四台の玉突き事故とあったが、一台は近くの建物一階へ突き刺さっており、破損部分はブルーシートで覆われていた。残る三台も異様なほど変形し、休日の駅前を終末世界よろしくな有り様に染めていた。
俺は携帯画面で時間を確認し、周囲を探る。
助けを求めて来た女は、けれど異様な唸り声の後に通話を切ってしまった。
切れたのか、破損によるものかは不明。大きな物音はしていたが。
「……どうしろと」
顔も知らない、居場所も、聞こえた内容が本当かどうかも分からない。
最悪の場合、俺を呼び出す為の狂言という可能性もあった。
元々話し合いによる解決を望んでいた俺を相手にやることなのかは別として。
ため息を飲み込んで、他に異変はないかと視線を巡らせる。
せめて何か、残滓のようなものが。
いや。
勝手に結び付けて考えているが、関連しているかどうかは分からない。
そもそもあの妖狐が暴れた結果の出来事であったなら、玉突き事故ではなく謎の怪獣現るとしてもっと騒ぎになっている筈だ。
報道規制? あるいは、洗脳や認識阻害などというものも、創作物にはあったが。
何にせよ一般人として得られる情報ではあまりにも不足。
途切れたまま繋がらない電話に焦る自分を抑え付け、やはり戻ってコハルの傍に居るべきなんじゃないかと思い返す。
仮の可能性として考えているだけの女。もし彼女がそうであったとして、過去は過去どころか、前世の話でしかない。かつての忠臣にすら背を向けておきながら、今更危険のど真ん中へ飛び込もうとしている自分はなんなのか。守るべきは、優先すべきは、コハルの筈だ。第一あんな女、名前以外に碌な事を知らない。手紙でのやりとりは何度か行ったが、王位簒奪とその後に向けての処理に忙殺されていた最中だ、文官に草案を出させた後は直筆で清書をして送り出していた程度。相手も似たようなものだろう。当初は内容も見ていなかったし、会うとなって慌てて全てを掘り返し、暗記したくらい。
確か、
第一なんだ紫陽花って、こっちの花だぞ。
あちらの記憶はあくまでこの肉体が持つ常識によって認識可能な状態へ落とし込まれたもの。
星が違えば異なる生体が育まれるように、異世界ともなれば当然人間としての形態を取っているとは思い難い。
可能な限り書き留めてはいたが、この手の些細な情報には取りこぼしもあるだろうし、また少し変質したと考えるべきか。
余計な思考だ。
いつしか俯けていた視線を前へ正し、それでも周囲の異変を読み取ろうとする己を自嘲した時だ。
「お、王子……」
すぐ近くに、藤堂 薫子が立っていた。
※ ※ ※
胴着を身に纏った藤堂が竹刀を手にこちらを見ている。
幾分遠慮と緊張と期待が読み取れる、彼……彼女にしては迂闊な顔付きで。
ふらりとよろめきかけたのを脚を開いて堪え、表情が引き締まる。
俺は被っていたキャップのツバを摘んで目元を隠しつつ、彼女の背後に二十名ほどの同じ恰好をした男達が居るのを確認した。
藤堂の家はこの地域に根差した良家の類、元地方豪族か何かだと思っていたが。
「おはようございます、
俺の物言いに彼女は少し傷付いたような様子を見せたが、
「おはようございます。一之瀬さ、様」
「敬称はよしてくださいよ、先輩」
「しかし、ッ」
姿勢を正し、それからポニーテールにしてまとめていた髪へ触れ、横を向いて前髪を弄る。何故か頬が朱に染まっていくのだが、それよりも妙に目立つ集団を話しているせいか俺まで注目されているのが気になった。
ただ、先だって朝礼で見た姿が脳裏を過ぎり、離れる脚を邪魔してくる。
先輩と後輩、それであれば問題ない筈だ。
それに。
「部活、にしては年齢層が高いですね。妙に物々しい様子ですが」
問えば彼女は即座に向き直り、あの竹を割ったような、心地良いハキハキとした声音で応じてきた。
「はい、見回りを行っています。当家では古くより道場を開いておりまして、地元に深く根差した家というのもあって、このような事件事故が発生すると自主的に市内を見回ることになっております」
「では、警察と協力して?」
何らかの武道を習得した人が警官になるという話は聞いたことがある。
歴史ある道場であるなら警察内部にも知り合いが増えそうなものだ。
「いえ。挨拶程度はしますが、あくまで私達は一般人ですので。見回りも言ってしまえば、夜中に火の用心と唱えて練り歩いているのと変わりありません。仮に何かを発見したり、遭遇したりすれば、自分達で解決するのではなく警察へ通報します。この竹刀も古臭い慣習で、格好を付ける為の小道具です」
物語でよくある謎に力を持った地元衆、とかいうのではないのか。
「何か、気になる事でも?」
「気になるといえば、ただの事故にしてはあまりにも派手な状況ですから」
あくまでさりげなく、一般論としての意見を言うと、何故か藤堂は竹刀をぐっと握り込んで表情を変えた。
「了解致しました。今からそこの警官を締め上げて情報を吐かせますのでしばしお待ちを」
「いや待て一般人なんだろう。止めろ。そんなことして大丈夫なのか」
「ここを管轄する警察署の署長は我が家の門下生です。副署長も、監察官も、上層部の概ね三割程度が関係者ですので問題ありません」
「思っていた以上にずぶずぶだな。止めろ。あくまで一般人としての立場を弁えて見回りをしているんだろう。止めろ」
二度どころか三度も言うとようやく藤堂は覇気を収めてくれた。
かなり残念そうにしているが、俺は今権力の横暴を止めた功労者だ。
「お役に立てればと思ったのですが……」
「そう落ち込むな……下さい」
言いつつ、やって貰った方が情報を得られるんじゃないかと考えるが、今の様子を思い出して止めることにした。
「ただの雑談です。休日に偶然出会った先輩と、話題になりそうなことをなんとなく話そうとしているだけですから」
ピクリと藤堂は反応し、また前髪を弄り始めた。
「そ、そうですかっ。私と、雑談を。は、話をして頂けるのですね……っ」
そろそろ後ろで様子を伺っている強面さん達の視線が気になるのだが、言い出した以上の責任は果たさねばならない。
あんまり喜ばれると嘘を吐いて情報を得ようとしている自分を締め上げたくなるので落ち着いてくれないか。
「あ、あの、五分……いえ出来れば二十分ほどお待ち頂けないでしょうかっ。それに立ち話もなんですので、近くの喫茶店にでも入って……いえそうなると一時間……いや二時間くらい後で待ち合わせして……頼み込めば当日でも美容院はなんとかなる筈で……」
「いえ俺も休日の予定があるので使えるのは数分だけですよ」
「すぐに話しましょうっ。何を話しますか? 王子は普段どのような休日を? 日本食でお好きなものはございますか? 得意科目はなんでしょう? 学校で王子に不敬を働くような輩は居ますか? 何でも仰ってください。全てを投げ打ってでもお役に立ってみせますから……っ」
詰め寄ってきた藤堂に一歩引きつつ、
「休日は主に妹と過ごしています。日本食ならば最近は素麺と天ぷらを。得意科目は科学と歴史。この日本に不敬罪というのはありませんし、私刑は犯罪行為と見なされますので仮にそのような場面を目撃しても何もしないようにお願いします。それと今の人生を大切に」
質問と訴えを一気に処理した上で本題へ移る。
妹君がっ、と興奮した様子の藤堂はとりあえず無視した。
「お聞きしたいことがあります。あくまで、今知る限りのことで」
「はい、なんなりと」
「ただの交通事故にしては壊れ方が派手過ぎます。何かご存知ですか」
問うた瞬間、明らかに藤堂の顔付きが強張った。
予想できていた話だというに過剰な反応。
やはり何かあるのか。
隠されることも考慮しなければならないが。
「私も事故の瞬間を見た訳では無いのですが、警察でも不審な破壊状況だとして現場検証が続けられているようです。駅前は混雑しますし、そう速度を出せるような状況でも無かった筈ですが……死傷者が出たとも聞いています」
死傷者。
その表現になんとも言えない重さを得る。
報道では負傷者とあった。オブラートに伝えようとした結果なのか、状況が進んでそうなったのか。
少なくとも死者が出た。
「事故当初は通信障害などが発生していたようですね。不可思議なことが起こると、妙なことを言い出す人も出るんじゃないですか?」
「妙なこと、ですか?」
「えぇ。化け物が出たとか、これは祟りだ、とか」
問えば藤堂は苦笑した。
それがあまりに歳相応なもので、少しだけ呆気に取られる。
「ウチも神社と関わりがあるので時折妖怪退治の依頼が入ったりしますね。野生動物の仕業だったり、勘違いだったり、狂言であったり、色々ありますが、今まで本物を見たことはありません」
思えばウィリアムはここまで表情豊かな男ではなかった。
年齢もあるし、あくまで主従でしかなかったから、そういった表情を見せなかったのかもしれないが。
肉体が精神に与える影響は大きい。
そもそも各自が主観によって捻じ曲げてきた記憶。
俺が紫陽花と記憶するものを、彼女は別の何かと思っているだろう。
偉人の自叙伝を読んだ所で、偉人そのものに成れる筈もない。
経験を伴った、あまりにも生々しい記憶であったとしても、受け取り手の感性によって得られるものは変質する。
俺が私ではないように。
彼女は藤堂 薫子だ。
その人生を生きている。
「そうですか。あぁ、そろそろ行きます。また学校で」
「はい。また、お会い出来れば幸いです」
別れる。
少々難点はあるものの、ただの先輩と後輩としてなら、今後も付き合っていけるだろうと思えた。
「王子、ッ…………一之瀬、様」
だから敬称は、と言い掛けた。
「何かあったら、いつでも頼ってください。私でなくとも、世間が思っているよりずっと、有事の際の警察は頼りになります。明確な事件でなくとも、最近は相談窓口などもあるようですから」
振り返って見た藤堂の表情は、俺がイーリスとの結婚を決め、クロノハルの属国となることを受け入れた時のものと、良く似ていた。
※ ※ ※
「不思議ですよねぇ。一つ一つを丁寧に見るほど、普通の事故現場には見えません」
藤堂と離れて一分と経たない内に、今度は加賀谷が現れた。
君達はあれか、順番待ちでもしているのか。
「遠巻きに二人で居るのを見て、離れるのを待っていたのは本当ですけどぉ」
キャップのツバを掴んで角度を調整、ジーンズ地のホットパンツに女の子らしいひらひらとしたノースリーブのワンピース、有名スポーツメーカーのロゴが入ったスニーカーを履きこなす加賀谷は俺のキャップを見てにんまり笑み零れる。
「お揃いですねっ」
「メーカーは違うようですが」
「どこのですか? 近くのショップじゃ見たことありませんけど」
「古着屋で買ったものですので」
写真撮っていいですか、と言われたのでキャップを差し出す。
加賀谷は携帯のカメラで何度も撮影しながら、
「一台だけが暴走状態であったなら、事故を起こした最初の衝撃だけが大きい筈です。日本の車は壊れて衝撃を吸収、分散させる設計になっていますし、それでなくとも玉突きになるほど破壊力は衰えていきます。ですが見る限り事故車輌の四台全てが異常なほど変形していて、一台はコンクリートの壁を突き破って店内へめり込んでます」
くるりと携帯を返して提示してきたのは、事故現場周辺の写真の数々。
中にはどうやって撮影したんだと思えるようなものもあり、ブルーシートで隠された店内の、異様なほどの破壊ぶりに眉を潜めた。
「早朝とあって人通りは少なく、幸いにも巻き込まれた人数は少なかったようですが、発生直後は電話も繋がらずに通報が遅れたのが未だにああなっている原因でもあるみたいですね」
「早朝? 昼前頃かと思っていた」
「六時前みたいですねぇ。応援が来るまで二時間近く掛かったらしくて、駅前交番のお巡りさんが頑張ってました。あと、同じ時間に車輌トラブルだとかで一時間以上電車が止まってました。今も遅れてるみたいですね。応援が来た後も連携が上手くいってないみたいで、散発的に警察車輌が来て、現場検証の人達が到着したのは更に一時間後。その辺りは通信障害によるものとしても、やっぱり事故の様子が異様ですよね」
キャップを被り直して加賀谷を見れば、彼女は愉しげにこちらを見詰めており、なんとも居心地が悪くなった。
覚えのある感覚だ。
エリク。宰相エリクザラートは時折こうして、俺の思考を先読みして欲しい情報を提示してくれることが多かった。
だとしても、先の藤堂との会話と比べても明らかに前提が異なる。
「そうか……加賀谷先輩は、アキト先輩達の事を気にしてましたね」
「はい。武人であった彼女ならともかく、貴方なら私と同じ思考へ行き着くものと思っていました」
異世界転生は起きたのだ。
既に超常の現象を体験したのだから、それ以外の可能性について考慮しない筈もない。
「色々と当たっているのですが、確たる証拠はまだありません。近隣の監視カメラを確認できたらと思うのですが、日本は末端まで結構真面目でお堅いですから。今はSNSなんかでアップされてる画像や動画を精査している所です」
「先輩は異能とされるような現象を見たことがありますか」
「ありません。怪しい人物や事件には目を付けていますが、彼らも意外と慎重で尻尾を出してくれないので」
言って、彼女は前屈みになって上目遣いにこちらを見た。
近寄った分、甘い香りが漂ってくる。
「近頃彼と急接近している貴方なら、何か見たことがあるのではありませんか?」
「残念ながら、彼が何か不可思議な現象を引き起こしたのを見たことはありません。何かを持っているのは確かだと思いますが」
嘘は言っていない。
見抜かれただろうか。
加賀谷は、表情を読ませない微笑みのままだ。
つい真っ直ぐ見返してしまい、意図的な視線の固定は嘘の兆候だと教えられたのを思い出す。
ところが彼女は薄っすらと頬を染めた。
「かっこいいなぁ……」
「え?」
「も、もっと詳細な情報もありますからっ、どこかに入ってお話しませんか!? ほら、そそ、そこの路地に入っていくとラブホテルがありますので」
「え?」
「ハァ……ハァ……、大丈夫です、ちょっと休んでいくだけです。ちょっと今より近くで話をして、ちょっと気持ち良くなるだけです。いいえ、ちょっとじゃ済ませません。もう滅茶苦茶にします……!」
「変態親父みたいなことを言って迫るんじゃありません」
「あいたぁっ」
思わずチョップをして距離を取る。
藤堂は長身だったが、加賀谷は俺よりも身長が低い。落とすのに丁度良い位置にあるせいだ。
あっちはあっちで分かり易く引き摺っていたようだが、お前はお前で随分と今を謳歌しているようだな。とはいえ、通学中には青褪めている様も見ていたし、先に藤堂と居るのを見て心の準備を整えていたからか。
何にせよ加賀谷とは常に一定距離を保つようにしよう。
コハル、兄ちゃんはまだちゃんと清い身体だからね。
「話を戻しますが」
近寄ろうとする加賀谷を手で制し、
「加賀谷先輩は異能を確認し、どうしようと思っているんですか?」
頭を抑えられて嬉しそうにする彼女はうーうー唸っていたが、やがて力を抜いて向き直る。
瞳の奥を覗こうとしてみるも、やはり見通すことなんて出来なくて。
だからと邪推され、健気な忠心を疑われていたエリクザラードのことを思わずにはいられないまま。
「私のコレは癖のようなものです……。気になってしまえば調べ尽くさずには居られない。良い面を見れば悪い面を疑わずには居られない。対岸の火事と思っていても自ら首を突っ込んで焼かれてしまう、そんなことにはならないよう気を付けてはいますが。王子も……いえ、一之瀬くんも、深入りする前に引き返せるよう十分注意しておいた方が良いですよ」
人の性根は目に宿る。
俺は今、どれだけアーヴェンと同じ目をしているのだろうか。
顔を合わせただけで二人は彼を想起した。おそらくだが、電話の主もどこかで顔を見られたのだろう。だから可能性を感じ、確認に連絡を取り、今また助けを求めてきた。いや、記憶なんかを読み取る異能がある可能性もあったんだったか。
俺に王となる上での教育を施してくれたエリクザラート。
我が師とも呼ぶべき、今や彼女となった加賀谷 芽衣。
信じると言ったアーヴェンの前で初めて安堵を覚えた子どもみたいな顔を見せて跪いたあの日の記憶を抱いて、
「分かっている。全く、揃って心配性な奴らだな」
背を向ける。
掛かる言葉は無く、一歩を踏むほどに壁を分厚くして、違う場所へ向けて歩んでいく。
先程からこちらを伺っていた黒猫が小さく鳴いて、俺を導くようにして路地を進み始めた。
※ ※ ※
家を出る前。
いや、そもそもの電話を受けた直後の事だ。
俺の名を呼ぶ女から助けを求められ、会話半ばで途切れてしまった携帯を睨み付けていた俺は、不意に背後で開いた家の扉に驚いて目を向けた。
開いた隙間から覗くコハルの目は最初不安そうで、けれど俺の姿を見付けてすぐに安堵した。
『電話、終わった?』
携帯をポケットへ滑り込ませながら扉を掴み、開きながらコハルの頭に手をやる。
大丈夫だよ、と言い聞かせるように。
『ごめんな、もしかしたらちょっと……出掛けないといけないかも知れない』
我ながら曖昧過ぎる言い方だった。
落ち着くだけの時間はあったように思えるのに、まだ動揺が続いていたのだろうか。
それとも、遊びに行くと約束していたことを違えるのが申し訳なかったからか。
コハルは聞き訳が良い。
良過ぎるほどに。
父と再婚した義母はとても厳しい人で、我が子に強い理想を持つ人だったから。
反論することも、駄々を捏ねることも許されてこなかったコハルは、相手から何かを求められた時に自分の全てを押し込んで従おうとしてしまう。
だから嫌だったんだ。コハルが嫌がることをするのも、何かを強く指示することも、ましてや約束を破るなんて。
俺が更なる誤魔化しで膝を付いて抱き上げようとすると、不意にコハルが後ずさってしまった。
いつもなら喜んで身を任せてくる。首の後ろへ回ってくる手の感触は今、俯く少女の腰元でぎゅっと握られている。
『やだ』
『コハル?』
『約束したもん。お出かけ用のリュック買ってくれるって。ブランコのある公園探すって言ったもん。兄ちゃんと、約束したもん』
『うん。言った。約束した』
思わぬ我が儘に、その時俺がどんな想いを抱いたのか、自分でもはっきりと分からない。
いろんなことを考えたように思う。
きっと俺は他の全てを捨ててこの子と共に居ようと、そんなことも考えていた筈だ。
ただ、俺から拒絶されて苦しむ藤堂の姿を、加賀谷の姿を見た。
相手の素性も知れぬとはいえ、明らかな危機があり、事の重大性だなんてお利口な理屈を持ち出せば確かに多くを納得させられるんだろう。
右へ左へ、行く先も定まらず錯綜する俺が決断するより早く、コハルは顔を俯けたまま握った手を解いて……諦めた。諦めさせてしまった。
『いつ、帰ってくる?』
『……分からない。今日中には帰ってくるつもりだけど、遅くなるかもしれない』
頭痛がした。
こんなことの為に二人を拒絶したんじゃない。
――――父上を、兄上を、裏切ったんじゃない。
俺だって本当は。
――――やる必要があった。
目を瞑って知らないフリをすればいい。
対岸の火事は事実、己にまで火の粉が届かないのだから。
やがて迂回し身を焼かれるのだとしても、よくよく気を付けて逃げる準備を整えておけばいい筈だ。
――――焼かれて泣き叫ぶ人々を無視出来るのならば。
赤の他人だ。
名前も知らない。
関係だって無いに等しい。
今の俺は、一之瀬
――――それでも声はあがった。
――――『助けて』と。
その結果が忠臣と他国の姫を巻き込んでの爆死だったじゃないか。
俺が望んだのはたった一人の幸福だ。
過度なものじゃない。
あたり前の、この国の者ならば誰もが持っている幸福でしかない。
最早親という存在を得る事が叶わないのだとしても、見せ掛けの苦し紛れなものであったとしても、今出来る力一杯の努力で掴み取ろうとしていただけだ。
――――だから。
あぁ。
『今回だけだ』
どうせ見過ごせば俺は後悔し続ける。
背を向けた結末を想像せずには居られない。
あぁ苛々する。
俺の邪魔をする、名前も知らない輩共。
勝手に暴れて、勝手に問題を起こして、挙句巻き込んでくる。
秩序を知れというのだ。
平穏な社会には法があり、時に己を律してでも耐えねばならない時がある。
異能だなんだと超常の力に当てられて、災害時の暴徒さながらに好き放題を行う馬鹿共が。
『もう約束は破らない。俺もコハルと一緒に居たいんだ。だから、今回だけ、兄ちゃんを許してくれ』
※ ※ ※
黒猫を追いかけ、もう四十分は走っただろうか。
春先とはいえ運動をしていれば汗も出る。ハンカチで額を拭ってキャップを被り直し、襟を開いて胸元から風を送る。
幸いにも猫とはいえ横断歩道で止まる程度の常識は弁えているようで、途中途中で休憩を挟めたのは良かった。一般常識を弁えた猫というのも奇妙だが。
駅前から離れるほどに人通りは消えていって、徐々に人が住んでいるかも怪しげな団地だの、工事現場で見るようなパネルで覆われた敷地が増えてきた。
開発途中で放棄されたような土地は、昔あったとかいう高度経済成長期の名残りだろうか。
湯水のように金が湧いて来たとも言われるが、栄枯盛衰の言葉通り、繁栄は永遠には続かない。
分かっていても、今を生きている者にとってそれは永遠のように感じられてしまうのだろう。
足元から弾け飛んで死ぬなどと考えもしなかった愚かな王子のように。
「近いのか」
低く震えるような音がどこからか聞こえてくる。
靴底が揺れを感じ取り、黒猫の足取りが早くなった。
操作していた携帯を仕舞い込み、起きるだろう何かに備えようと踏み出した直後だった。
ほんの十メートルほど先の壁が積み木みたいに突き崩され、何かの塊が俺のすぐ足元へ投げ出された。
時代錯誤な三角帽子、素材も不明な黒のローブに、身の丈以上の大きな杖。伝承に聞く姿そのものといえばそのもので。だがそれは、
同じ年頃の少女。
派手に吹き飛び受身すら取れなかった様から、咄嗟に死んでいるのかとさえ思った。
だが黒猫が駆け寄ってか細く鳴くと、痛みに呻くような声があがった。
意識はない。だが、無事でもない。
いや、それよりも。
「あァ……? なァんだよ、援軍かよ」
瓦礫を踏んで出てくる姿がある。
「いいぜェ……ッ、幾らでも掛かって来やがれ!!」
狼頭の異形が牙を剥き、雄叫びをあげた。
伝承に語られる狼男が襲い来る。
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