第10話
春の日差しがじわじわと肌を焼いていた。
こめかみから流れた汗が耳元を掠めて顎へ落ちていく。
そう暑い気温ではない。
なのにこうも汗が滲んでくるのは何故なのか。
涼しい筈の春風が妙に冷たく感じられて、知らず口の中に溜まっていた唾を飲み込んだ。
昼休み半ばを過ぎた学校の屋上、影ながら俺の平穏を守ってくれていたアキト先輩へ協力を申し出たその場へ掛かってきた、彼の暗闘の相手と思しき者からの電話。
まさかこれほど早く反応するとは思ってもいなかった。
直近の交戦場所となれば確率的に高いものとは考えていたが、それでも後二十か三十はばら撒いて、真贋の判断なども必要になるものと。
いや違う。
何を余計なことを考えている。
今、この電話の相手は何と言った?
――――『貴方は、アーヴェン、なの?』
全く想定していなかった方向からの一撃に、いや違う……俺は、きっと余計な想像を膨らませている。
若い女の声。ウィルと、エリクと、あと一人。そんな益体も無い夢想などこの場には不要の筈だ。
咄嗟に、と言うにはやや遅れて、携帯のマイクを親指で抑えた。
そんなことをして意味があるのかも分からなかったが、動揺したこの呼吸を伝えてはならないと、父を、兄を追いやった
『…………ふふっ』
これまでの無言が嘘のように、柔らかな笑みが電話口からこぼれ落ちた。
まるで春先のテラスでお茶を嗜む淑女のような繊細さで、
『久しぶりね、アーヴェン=リラ=スィヴェール』
「っ、君は……!」
思わず問い掛ければ、再び笑みがほころぶ。
桜の花びらがはらりと落ちるような、この日本の一般的な高校生ではまず出せないような、魅せる為の笑顔の産物。
さほど良好な関係とは言えなかったものの、兄の母親などが見せていた、貴族教育の賜物とも呼ぶべき計算された技術だ。
武人であるウィルとも、政治家であるエリクとも違う。
まるで。
まるで、どこかの国の姫君のような。
『
告げるだけ告げて、通話は切れてしまった。
「っ、しま!? く……ッ!! っっっ~~~~……」
吐息を呑み込み、表情を整える。
未だ強張っている感は否めなかったが、改めて画面を見て通話状態が終了していることを確認した。
平時の呼吸を取り戻すのにどれほどの時間を要したか。
やがて俺は制服の内ポケットへ携帯を滑り込ませてから、事態を不思議そうに眺めていたアキト先輩へ向き直り、素直に告げた。
「……申し訳ありません。相手の揺さぶりに乗って、交渉への足掛かりを作るのに失敗してしまいました」
彼は少し考えたようだが、今流しても同じことと思ったのか、
「知り合いか?」
「不明です」
自分すら騙せない嘘で応じ、けれど思考を回し続けた。
「
俺が他者へ前世の名を告げたことはない。
アキト先輩にすら、スィヴェールという単語一つに留めている。
ウィルとエリク、二人が傅いてきたあの場でも、直接的にアーヴェンの名は口にしていなかった筈だ。
あちらの記憶を記したノートは手元には無く、両親による誓約書と一緒に弁護士が貸し金庫で管理している。
だから、
だから、
「現状、勝手な思い込みで判断を歪めるべきでは無いでしょう。少なくとも、相手は一年に渡ってアキト先輩らと交戦し、直近ではハルナ先輩を病院送りにするほどの負傷をさせているのです。問題は今回、相手から殆ど情報を引き出すことが出来ていないことです。せめて再度交渉を行う約束を取り付けるべきでした。いえ……今から先の番号に掛けなおして」
ぎこちない手付きで携帯を取り出し、その番号が非通知で無かった事を確認しつつ、やや躊躇い、押す。
聞こえてきたのは、お客様の都合で、だとか、電源が入っていないか、だとかいうお決まりの録音データ。
切られたか。
日常使いしているものなら切りっぱなしには出来ないだろうが、複数所持していたり、一時的に契約しただけのものなら次があると安心はしていられない。
「駄目ですね」
言って、堪えきれずため息を落とす。
拾い上げる余裕すら無いことを自覚しつつ、ふと強張っていた己を知る。
「偉そうに演説をぶった上でこの体たらくでは先輩もご不安でしょうが、今後もお力添えを続けるつもりです。今のが本来の相手だとも限らないので、状況を絞らず手紙のばら撒きは行いましょう。お手数ですが、これまでの交戦場所についてお聞きしても――――」
「一之瀬 仁」
呼び掛けられて、顔をあげて、向かい合う。
アキト先輩は、しょうがないなとでも言いたそうな顔をしていて、口端を広げて腕を組む。
「一之瀬 仁」
繰り返し、刻み付けるように呟く。
こちらへ向いた視線は、いつものように深く、底を推し量れない色をしていたけれど、不思議と安心を覚えるものだった。
「俺は今みたいな小難しい腹芸は苦手でな。最初からやろうとも思ってなかったことでちょいと失敗したからって、無かったものがマイナスになることもねえ。だからまあ、今後もお前に任せるよ。ドツキ回す必要が出来たら言ってくれ、得意分野だ」
「……交渉が決裂したことで相手の行動が苛烈になる危険もありますので、十分マイナスになり得ます」
「ははっ、調子が出てきたじゃねえか。相手のやる気なんざ最初から知ったこっちゃねえんだ、分かりゃしねえよ」
前世の記憶と今世の記憶、合わせて三十年少々――――そんな計算に意味は無いと考えながらも、やはり何処かで侮っていたのかもしれない。あるいは玉座を手にしようとしていただとか、そんな経験を振り翳して思い上がっていたのか。
アキト先輩は少しだけ顔を俯けて前髪を掻きあげた俺に、変わらぬ気安さで呼び掛けた。
「でまあ、やる事は決まってるんだろ? お手紙作戦で新しく何かが引っ掛かるか、試してみようじゃないの」
「……貴方は俺に聞きたいことが山ほどある筈だ」
「言いたいことがあるなら言えよ。っつっても、俺だってただの高校生だからな、出来ることと出来ないことがある。特に金とか言われたら参っちまうよ」
まるで、電話が掛かってくる直前の会話など無かったかのように話す彼に俺は少し笑った。
いずれ話す時があるのだろうかと思いつつも、今の整理出来ていない状態ではまともな説明など出来ないだろうと、笑みを少し苦くしながら。
頭に浮かぶ妹の姿を今は押しやって応じる。
「おや、年上の先輩から昼飯の奢りくらいはあるものと期待していましたが、残念ですね」
「悪いがウチは弁当派だ」
同じくウチも、と応じると、肩を竦めた彼が大きな欠伸をして、その後でジュースを奢ってくれた。
※ ※ ※
「のせっちゃん」
教室へ戻ると渡井が仁王立ちしていた。
何故かご立腹な様子で、身長もそこそこ高く、平時から華のある彼女がそうしていると妙な迫力を感じなくもない。
「どうした……いや」
「分かったようだねぇ、のせっちゃん」
「あぁ。いや、あぁ、んー」
ぺちり、と全く痛くも無いチョップを貰い、渡井は息を落とした。
多くの男子、特にカツオ界隈を魅了して止まないだろう大きな胸がはっきりと揺れる様に、健常な高校生男子として視線が向かないでもない。
俺は紳士なのですぐに瞼を落とし、目線を伏せてから改めて彼女へ向き直ったが、どういう訳か不機嫌度が増していた。
「なんだったか」
「連絡!! 私っ、トイレ! ずっと待機! おーけー!?」
何故かカタコトな渡井に俺は今しばらく思考し、思考し、思考してから呟いた。
「………………あー」
忘れてた。
「あーじゃないのよのせっちゃん! 二人だけの時間も必要だろうし、ちょっと遅くなるくらいは覚悟してたけど、まさかこの時間になっても連絡一つ無いとは思わなかったね! 思わなかったね!」
何故二度言う。
「すまない。少々予想外のことがあって、そっちに気を取られ過ぎていた。すまない」
とりあえず俺も二度言って応じ、ある意味で予想通り、あっさりと怒り顔を溶かした渡井が、今度は口元をニマニマさせながら身を寄せてくる。
「で、どうだったの?」
「ふむ」
俺は屋上で見た青空を思い出し、
「やはり俺は、炭酸ジュースはジンジャーエールが一番だと思うんだ」
先輩はサイダー派だったから、しばらく双方の利点について熱く語り合っていた。
「…………のせっちゃん、風邪は嘘だって言ってたの、実は本当だったりしない?」
「ん? いや、特に異常は無いし、今も平熱だろうとは思うぞ」
頬をつねられた。
「平熱確認、良し」
「新しい検温方法だふぁ……」
「結局ウサ子とのことはどうなったの? 一緒にジュース飲んだの? 熱い夜を過ごしたの?」
くいくいと頬をひっぱられながら、俺はようやく思考が渡井と同期したのを感じた。
いかんな、未だに冷静さを欠いているのかもしれん。
「熱い夜は訪れていないし、ジュースを飲んだのは別の人間で、ウサ子についてはものの見事に空振りだ」
「そっかー、駄目だったかぁ。元気出してね、のせっちゃん。それで、落ち込んでる所を別の誰かに励まして貰ってたんだね」
それなら私を呼んでよね、などと言う彼女に俺も俺で乗っかった。
「そうだな。次は渡井も入れて、三人でウサ子捕縛作戦を行うとしよう」
「うん、なんとなく想像はしてたけど、私が思ってたのとは随分違うことしてたんだね」
はてさて、いつまでも戯れている訳にはいかない。
何せ次の授業は移動教室。
渡井が戻ってきていたのは俺を待ち構える為だろうが、俺も俺で荷物を置いて現地へ向かわなければならない。
教室に俺達以外誰もいないのを確認しつつ、揃って奥の窓際へ向かう。
逆順で席が決められた男子は
そして
窓硝子の向こうと、廊下側の気配を探りつつ、小声で。
「お前がイーリスか?」
問えば、机の中を覗き込んでいた渡井が動きを止めた。
顔を伏せているので表情が分からない。
タイミングを誤ったかという反省は脇に置いて、今はまず彼女を見る。
「ふふふ」
椅子を引き、投げ出すように腰掛けて脚を組む。
妙に様になる動きだった。
勉強机に肘を置いて頬杖を付いた彼女の表情はどこか怪しげで。
「残念。私の名はアルティシア。深遠の向こうの、ええと、黄昏がー、ええと、混沌の……なんたらかんたらで」
ある意味で予想通りの、予想以上の返しに肩の力を抜いた。
「無理をするなアルティシア。深遠が黄昏で混沌なんだろ?」
「むーっ、じゃあヴェルダンディとかがよかった?」
「いいや、折角だからしばらく深遠のアルティシアと呼ばせて貰おう。黄昏のアルティシア、早く行かないと昼休みが終わるぞ混沌のアルティシア」
「やー! やめてー! 呼ぶならせめてアルティシアだけにしてー!」
彼女はイーリスではない。
念の為の確認に過ぎなかったとはいえ、この分だと生徒会長らの様に前世の記憶がある、みたいなことも無さそうだ。
俺達は下らない会話に興じつつ移動先の教室へ向かい、結局チャイムが鳴って駆け出した。
幾つか言えることがあるとすれば、渡井は結構運動が出来るらしいことと、階段を飛ばし飛ばしで駆け上がる動きはなんというか、胸部の躍動感が凄まじかったことと、
「のせっちゃんのえっち」
男が思っているより、女はその手の視線に敏感だということか。
何故か得意気な顔をしているので、そこまで気にしている風でもないのだが。
「許せアルティシア、男の背負う業というものだ」
「カツオくんとか、そういうのすっごい紳士だよ?」
俺は野球を誘いに来そうな眼鏡のクラスメイトを思い浮かべて、思考を投げ捨てた。
「彼は聖人なんだよ」
言って、五時限目の授業がある教室の扉へ手を掛ける。
「ところでのせっちゃん」
「なんだ」
「のせっちゃんの本当の名前って、なんなの?」
※ ※ ※
日常は巡る。
平たく穏やかに、似たようでいて少し違う、未熟な学生たる己が身を感じつつ、新しい知識と経験とを身に付けながら。
お手紙作戦は実行された。
当初の想像通り反応は微妙で、パスワード制とは別に用意してあったチャットにいたずら書きが数度あったのみ。
電話など一度たりとも鳴りはしなかった。
現状、当たりは最初の一回を除けば無い。
その当たりと思しき人物とも連絡は取れないままだ。
アキト先輩の話を鵜呑みにするのなら、お手紙作戦実行から件の暗闘は一度も行われていないとのこと。
元々が月に一度か二度、無い事もあるというのだから、早々に事態が動くとは考えていない。
ウィルとエリク、藤堂と加賀谷についても大きな変化はない。
俺は変わらず二人の忠誠を受けるつもりはなく、今のこの、アキト先輩の状況へ巻き込むつもりもなかった。
あくまで同じ学校に通う生徒同士、関わりの薄い先輩後輩として適切な距離感を保つだけだ。
変化の無いまま日々は流れ、その中で俺も新たに交渉の窓口を開かせるべく呼び掛ける方法を模索していた中、その事件は起きた。
「兄ちゃん」
学校も幼稚園も無い休日の、梅雨入りもそろそろかという昼下がり。
薄暗い外の景色を背後にコハルが見ていたテレビを指差した。
「ここ、見たことあるよ」
俺はコンロの火を止め、エプロンで手を拭きつつ食卓へ向かい、身を屈めた。
『――――目撃者の証言によると、事故当初に局所的な通信障害や電子機器の動作不良等が発生していたとのことで、信号機や車に搭載されている制御装置の故障が原因ではないかとの話も入っています。繰り返します。休日の駅前で痛ましい事故が発生しました。駅前の交差点にて車四台からなる玉突き事故が発生し、巻き込まれた歩行者十数名が未だに現場にて治療を受けている状態です。目撃者の証言によると』
映し出された交差点も、合間合間に映される駅舎にも、見覚えがあった。
コハルとも訪れたことのある、この家から最も近い場所にある駅だ。
フライパンの上で肉と野菜が焼ける音が続いている。
火を止めた後も、熱はしばらく残る。
あまり放置していては焦がしてしまうかもしれない。
だがこの焦りにも似た感覚は、単に痛々しい事故が身近で起きたからというだけではない。
俺は食卓の上へ置いていた携帯を手に取り、コハルに一言断ってから家を出た。
扉の向こうまで言って、反応が妙に遅いような感覚に襲われながらも連絡先を呼び出して、アキト先輩へ連絡を取ろうとした。
通話ボタンを押す、まさにその時だった。
画面が唐突に切り替わり、着信音が手元から鳴り響く。
「っ……一体何が」
表示されているのは、『仮』という文字一つ。
その言葉を記した上でも、直接的な名前を入力するのは躊躇われた、アキト先輩へ協力を申し出た屋上で最初に俺へ電話を入れてきた者の番号。
取るべきだ、という思考と、先に先輩へ連絡を、という思考がぶつかり合う。
迷う時間は相手からの印象を悪くする、そう分かっているのに躊躇ってしまう。
しかし……おそらくは十秒以上も反応出来なかったというのに、着信音は途切れなかった。
息を抜いて、強張りを抜いていく。
進展の無かった事態を動かすことの出来る好機だ。
己へ言い聞かせ、通話ボタンを押す。
「すまない。出るのが遅れ――――」
轟音が俺のお為ごかしを呑み込み、その直後に息を切らせた声がくる。
『っ、良かった! 出てくれた……! っ、きゃあ!?』
「何だ……どうし」
『
その先を聞くべきではない。
確信しながらも、決して通話を切ることは出来なかった。
明らかに平静ではない声で、
『
電話の背後で、何か巨大な獣の唸り声ような音が聞こえていた。
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