第6話


 目覚めていつも最初に感じるのは、俺の布団へ入り込んでくるコハルの体温だ。

 子どもは体温が高いというけど、実際にとても温かくて、冬場は湯たんぽになるが春先では結構暑くて汗を掻く。


 腕の中の少女を柔らかく、けれど強く、抱き締めて、寝汗で少しだけ湿った肌を感じながら頭を撫でる。


 人間でしかない自分を感じていたのは少しだけ。


 慎重に慎重にコハルから身を離し、最後に腕を引き抜いた頭の下に枕を滑り込ませてから、まだ眠っていることを確認する。


 時刻は六時半。

 いつも通り。

 習慣化してしまえば目覚ましなど補助手段に過ぎないものだ。

 音が鳴り始める前に携帯を操作して、そこで遅ればせながら気付いた。


 今日は休日だった。


 昨日コハルと一緒にスーパーへ行った時、休日分の食料を買い込んだというのに、寝て起きれば忘れているとはなんたる堕落。

 しかし休日とは一般に堕落の許された日である。


 もう一度俺はコハルを見て、おへその出た寝姿に薄手の毛布を掛けてから立ち上がる。


「まずはコメでも炊くか」


 六畳一間の安アパートはちょっと首を捻ればキッチンが目の前だ。

 キッチン前は板の間になっており、居間は畳張り。ベランダはあるが樹脂系の踏み場を申し訳程度に追加している場所なので、優雅にティータイムを過ごせるようにはなっていない。引越しに使ったダンボールのプランターで紫蘇しそとプチトマトを栽培しているくらいか。

 頭の中で手順を考えながら冷蔵庫へ近寄って、それから、出来るだけ物音を立てないよう静かに準備を進めた。


    ※   ※   ※


 『はじめまして。やらい、こはる……です』


 小奇麗なワンピースに身を包み、栗色の髪を複雑に編みこんだ少女が定規で測ったようなお辞儀をした。

 当時は未だ幼稚園にも入っていなかったことを考えれば、あまりにも出来た振る舞いだったことだろう。


『はじめまして。一之瀬 仁です』


 こちらの反応を探るみたいに上目遣いをする様が印象的だった。

 どうしてこんなにも脅えているんだろう?

 疑問に思って、目の合った彼女が身を引いたのを見ると、義母はそっと背を抑えて笑った。


『こんな恰好良いお兄ちゃんが出来て、照れちゃったのかなぁ?』

『ははは、ゆっくり慣れていけばいいよ。仁、仲良くしなさい』


 父の言葉に頷いてから俺は腰を落として目線を合わせた。

 幼い子にはそうするのだと、どこかで聞いたことを頼りに真似をして、頭上で交わされる父と義母の会話を余所に幾つかの言葉を贈ったのだと思う。

 俺も緊張していて、選んだ言葉の一つ一つをはっきり覚えてはいない。ただ唐突に出来た歳の離れた妹という存在にどう接すればいいのか分からず、男の子にするような話をした記憶がある。サッカーだとか、夏場に昆虫の獲れる場所だとか、ちょっと危ないけど大人の目から逃れられる隠れ家だとか。


 大人しそうな、なんだかお嬢様みたいな恰好をしたコハルにそんな場所が似合う筈もないだろうだなんて、当時の俺は考えもしなかった。


『今度、一緒に行こっか』


 だけど俺がそう言って誘った時、今までじっと身を固めていたコハルが少しだけ目を輝かせて、


『……うんっ』


 弾んだ声を、スーパーボールみたいに床へ投じたのだった。


『なにぃ? お兄ちゃんと何か約束したの、コハル?』

 話に区切りがついたのか、しゃがみ込んで義母が頭を撫でる。

 快活な父の笑い声が続いて、皆の目線が集まるとコハルはじっと俺の足元を見詰めたまま固まった。

『コハルちゃんは大人しい女の子だからな。あんまり危ないことさせるんじゃないぞ、仁』


『分かってるよ』


 受け取ったソレをきゅっと胸に握って、


『今度勉強教えてあげるって言ったんだ。……まだ早いとは思うけど、勉強なら得意だし』


 小学生にもなっていない子に勉強教えるはないだろうに、下手くそな言い訳を俺が言うと、義母は嬉しそうに手を合わせて話に乗った。


『そうよっ。仁君、とっても勉強が出来るのよね! 近所でも有名な進学校に通ってるのよ! 今からでも教えてもらいなさい、コハル』


 誤魔化しから出た面倒。

 だけどコハルは初めて俺をじっと正面から見詰め、ほんの少しだけ頬を緩めて頷いた。


『うん。おねがいします』


 それからおよそ一年間、俺達四人は家族として生きて、やがて父と義母は俺とコハルを捨てて逃げ出した。


    ※   ※   ※


 子どもは風の子というけれど、一度興味を持って駆け出したコハルはむしろ風を生み出しているのかと思うほどに物凄い勢いがある。


「兄ちゃんコレ!」


 ぴゅー、と駆け戻ってきた彼女が手にしていたのはバッタだ。


「おー、もう居る所には居るもんだな。でもびっくりしてるから離してやるんだぞ?」

「うんっ」


 ちゃんと潰さないよう気を付けていたのか、コハルが近くの葉っぱにバッタを乗せると、やや慌てた様子で跳んでいってすぐ見えなくなった。


「あっ」


 次は何を見付けたのか、俺は残り風を感じながらその小さな背中を追いかける。


 俺達は今、家から徒歩十五分ほどの所にある河川敷へ来ている。

 土手から石階段へ降りると、フットサルくらいは出来そうな広さの草地が広がっていて、その向こうは整備されていない雑木林とむき出しのコンクリートに分かれている。雑木林はともかく、一段上がったコンクリートの上には数人の釣り人が居て、よくよく見れば近くの橋の上からも糸を垂らしている者がちらほら。


 何が釣れるんだろうか、と釣り道具一式の値段と今月の食費を計算し始める辺り、すっかり今の生活にも馴染んできたものだ。


 最初は料理どころか洗濯や掃除もままならなかった。


 気付けば汚れ切っている部屋の片隅を見付けると、最終的に逃げ出したあの二人もちゃんと面倒を見てくれていたのだと分かってくる。たかが四人とはいえ、何も出来ず好き嫌いもする子ども含めた全員分の食事を毎日三食作るだけでも相当な負担だ。俺もコハルも文句は言わなかったし、たまの手伝いもしていたけど、二人分の食事を考えるのは今でもそこそこ苦労する。


 自分だけなら袋麺でも食べていればいいが、コハルの事を思えば栄養について考えずには居られない。


 魚は良いと言うし、安定して確保出来れば中々優れた食料源になるのではないか。

 前世では父や兄と共に山野で過ごし、自作の釣り竿で魚を釣った経験もある。見よう見まねだが捌けなくも無い。安全性についてや調理方法などはネットで調べれば出てくる時代だ。ふむ。


「兄ちゃんコレっ」


 戻ってきたコハルが掲げるものを覗き込む。

 葉っぱだ。

 少々刺々しい印象で、確かに見た覚えがあるものの、名称等は浮かんでこない。


「よもぎ! いっぱい生えてたっ」

「ほお」

「はいっ」


 良く分からないが一掴み分を手渡されたので持っておく。

 またぞろ駆け出したコハルが雑木林へ近付くのを見て、俺も少々慌てて追いかけた。


「そこ、急に足場無くなってるから気を付けるんだぞ?」

「うんっ」


 コハルは熱心に水場を見詰めており、俺はいつでも引っ張り上げられるよう手の届く場所へ移動した。

 何か居るんだろうか。思って覗き込んだのと、水草の間を何かが通っていくのが見えたのは同時だった。


「あっ!」

「何か居たな。分かったか?」

「うん! おたまじゃくし!」

「おたまじゃくし?」


 その生体については寡聞にして把握していないが、やがて何者になるかは知っていた。

 四月の頭におたまじゃくしとは、まあ、居る所には居るのだろう。歌では五月の梅雨とされていたんだったか? この辺りは現役幼稚園児のコハルの方が詳しいことだろう。あの若い先生のピアノに合わせて歌う姿を想像して、少しだけほっこりとする。


「おっきくなるとね、カエルになるの」

「うんうん」

「それでね」

「うん?」


「カエルって、食べられるんだって!」


 世紀の大発見! みたいな興奮ぶりで言ったコハルに俺は首を傾げていた。


 うん。

 まあ。

 今まで持ってきたもので多少想像しないでも無かったんだが。


「コハル」


 バッタは佃煮に出来る。よもぎは、まあ団子以外にも鍋とかあるよな?


 しかし幼稚園児に休日遊びに出掛けたいと言われてやってきた河川敷でまさか食料探しが始まっていたなどと、一家の大黒柱としてはズバリ言っておかねばなるまい。


「兄ちゃん?」


 半ズボンを履いたコハルが首を傾げて見上げてくる。

 かつては複雑に編みこんで、綺麗に降ろしていた栗色の髪も、ワンコインショップで買えるヘアゴムで左右に分けて括っているだけだ。


 俺はたった一人の家族の将来を想い、その頭に手をやって撫でつつ言った。


「カエルはから揚げにするのが美味いらしいぞ。だが大きい奴だ。小さいのは食べ難いぞ」

「おー……!」


 妹から注がれる尊敬の眼差しが熱い。


「他にも畑の近くなんかで摂れるつくしは天ぷらに出来るし、たんぽぽもサラダになるらしい。あっちに生えていたノビルという小ネギに似た奴は根元が食える。でもこういう場所のものは汚れてることが多いからしっかり洗わないと駄目だ」


 具体的に言うと忌避してしまうのだが、さっきから犬の散歩も多いしな。

 マーキング用のアレは取り除くのが難しいと言うから、散歩コースになっているような場所は最初から避けるのが吉だ。


「そういえばコハルは釣りってしたことあるか?」

「んーん、ない」


 前の父親については知らないが、義母はアウトドアに積極的では無かったようだしな。


「あっちでやってる人が居るだろう? ちょっと見に行こうか」

「っ、うん!」


 手を出すと目を輝かせて掴んでくる。

 自分の手の半分も無い小さな手が、低い位置から一生懸命に伸ばされてきて、こちらの指をぎゅぅっと握る。


「足元荒れてるから、転ばないようにな」

「へーき」


 そうか、へーきか。


 さっきから駆け回ってたもんな。


 でも子どもは転ぶものだとさすがの俺も学んでいる。

 コハルは滅多に泣かないけれど、怪我をしている様を見たくは無いからな、近くに居る時は気を付けてやる。


「コハルは魚で何が好きだ?」


「んー、からあげ?」


 多分、魚のフライのことだろう。


「川魚はソレ向きだって聞くし、毎日は駄目だけど、たまには作れるといいな」

「兄ちゃん釣り出来るの?」

「昔やったことがある。道具は無いけどな」

「おー」


 問題はその道具だ。


 いっそ針さえあれば、裁縫用の糸とそこらの棒、適当な虫でも探して出来なくは無い。

 しかし初期投資を惜しんで惨敗するようでは時間の浪費にしかならない。釣りは時間を要するものだとも言うし、安定供給とは言い難いのが実状だ。ただ、一度揃えてしまえば以降それほど高額の出費は無いまま使用し続けられるのではないかとも思うのだ。

 趣味人のように高級品を揃える必要はない。

 実用的な、最低限の質ならば、あるいは。


「帰りにちょっと見にいくか」


 釣り場があるならば近くに道具屋が店を構えるのは必然の流れだ。

 その道のプロから助言を受けつつ、商売人の手管に乗せられ過ぎないよう情報を聞き出していく……多少の話術ならば心得はある。仕込んでくれた者への感謝を思い浮かべつつも、今の俺の手はとても大切な家族によって繋がれていて、手放したくは無いと、縋る気持ちが確かにあるのだ。


「コハル」

「うん」

「転ぶなよ」

「ふふっ」


 人差し指と中指を、小さな手がしっかりと握り込んで来る。


「うんっ」


 土手から伸びる石階段の半ば、人が横を通ってもまるで逃げる様子の無い猫が、じっと俺達の姿を見詰めていた。


    ※   ※   ※


 昼過ぎには家へ戻って、少々早いが風呂へ入った。

 四月の気候とはいえコハルは散々走り回っていたし、釣り人のおじさんと長話に興じている間に独特の魚臭さが服に付いた。開いてフライにするといいよ、などと言って二尾の釣り果を頂けたことは大きかったが、まあそのまま部屋でゴロゴロする気になれなかっただけだ。


 ドライヤーでコハルの髪を乾かしてやりつつ、携帯で魚の捌き方を調べる。


 難しく考えていたが、要するに内臓と頭を取り除いてしまえば後は骨の問題が残るだけだ。

 不恰好すぎる魚のフライは兄の沽券に関わるものの、正直に言って今更でもあるのでとにかく食あたりと骨にだけ気を付ければ良い。裁縫道具を買った時に毛抜きもあったから、コハルの喉に小骨が刺さる危険は徹底的に避けるとしよう。


「やるー」


 調べものに注力しておざなりになっていたのを見抜かれたのか、俺を気遣ってくれたのか、コハルにドライヤーを奪われた。

 少しして自分の髪は渇いたのか、こっちの後ろに回って俺の髪を乾かしてくれる。男の身で気にする事も無いのだが、一生懸命なので身を任せることにした。


 携帯で調べものをする俺の回りを、コハルはちょこちょこと歩き回って色んな角度から温風を当ててくる。


 徐々に、口元から笑いが漏れているのに気付いた俺は一時携帯を脇へ置いて頭へ手をやった。


「コハル」

「きゃーっ」

「兄ちゃんの髪ぼっさぼさなんだけどっ」


 言うと嬉しそうに大笑いし、逃げるから身を倒して追い掛ける。捕まえた。どうしてくれよう。とりあえず脇をくすぐりつつ確保して、こっちに飛びついてきたので受け止める。


 しばし、言葉の無い笑いが続いてから、


「おなかへった」

「お昼過ぎたしな。魚の処理は時間掛かるから、別に何か作るか」


 二人でうどんを食べて、また少し遊んで、昼寝を決め込んだ。

 休日とは堕落の許される日だ。

 国を背負うでもなく、臣下を持つでもなく、なんの力も無い一般人として生きるのであれば、こういう時間を得ていける。

 時に状況への主導権を持てず振り回されて生きることを強いられるのだとしても、手放し難く、覚悟の要る生き方なのだと今では思える。


 だから、


「キサマの主人に伝えろ」


 簡素なベランダの柵で身を休めているように見えるカラスへ、背後でコハルが完全に寝入っているのを意識しながら言葉を続ける。


「あるいは本人がその目を通して見ているのかは知らんが、俺は現状何の力も持っておらず、どちらか、もしくは何かに属するつもりもない。生活を続ける上で最低限関わりを持つことはあるだろうが、俺には主義も主張も無いし、敢えて危険に身を晒すほどの理由が無い。これは命乞いと捉えて貰っても構わない。? 俺の弱点は露呈している。俺は、今の生活を続ける以上の価値を持たず、関与は余計な危険を呼び込むものでしかないと認識している。加えて、家庭の事情から出せるものなど持っていない。余裕も、無い」


 カラスはじっとこちらを見詰めている。

 野生なら逃げ出してもおかしくない距離だ。

 法則性など何一つ見い出せていないことではあるが、勘違いだったとしても見ている者のいない、少々痛々しいだけの行為でしかない。


 語りかけること事態、異能を認識しているという意思表明になってしまうのだが。


「見逃して欲しい」


 万感の想いを込めて、頼み込んだ。

 下げた頭の向こうで、カラスは羽を一枚落として飛び立ち、去っていった。


    ※   ※   ※


 そうしてまた一日が始まる。

 俺に残されたたった一人だけの大切な存在。

 彼女の熱を胸に抱いて、壊さないようにそっと、縋るように掻き抱いて、ゆっくりと身を離していく。


 今日もアラームを鳴る前に止めて、お腹の出たコハルに布団を掛けてやってから立ち上がる。


「さて」


 まずは、朝食を作ろう。




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