第5話


 未だアーヴェン=リラ=スィヴェールが幼かった頃の話だ。


 兄の予備として育てられた俺は、いざとなればその後継となれるよう王となる教育を受けつつも、徹底して権力からは遠ざけられていた。母は早くに死に、父との会話した記憶など碌に無い。食卓を囲むという概念すらないあの王宮で、俺はいつも一人で、教育係の厳しい指導を受け続けていた。


 自分の生まれを呪ったこともある。

 王族になど生まれなければ。

 何故早々と死ぬのなら、俺なんかを産んだんだと母を罵って、ベッドの中で恋しさに泣いた日もある。

 指導鞭で叩かれた手が痛くて痛くて、勉強なんてもうしたくないと泣き喚いて、それでも椅子へ縛り付けられ課題が終わるまで食べることも寝ることも許されない日もあった。

 おそらく俺は、人並み程度には優秀だったのだろう。

 子どもらしい反抗も感情の暴走も一通り発散した後は黙々と指導に従った。

 王国の歴史を知り、考え、政治と派閥と、軍事と兵站と、いざとなれば兄の変わりとなって国を背負う覚悟を何度も決意して、その機会が来ないまま終わるかもしれない己の人生に絶望しながらも、淡々と日々を生きていた。


 いつしか目的も目標もどうでもよくなり、言われるままに動く人形のように課題をこなすようになっていった、ある日の事だ。


「アーヴェン。これから一ヶ月、私達と一緒に行動しなさい」


 父が俺の部屋へ現れてそんな事を言い出した。

 同行していた兄もまた、俺のことを興味深そうに観察していて、普段とはあまりに違う様子に困惑した。


「分かりました」


 父とは道ですれ違っても会話一つしない。

 兄は、お互い幼い頃は興味を向けていたが、彼も彼で厳しい指導を受けたのだろう、次第に目を合わせることもなくなっていった。


 予備の王子とはいえ、二人目の継承者となれば戦いの火種足り得る。

 王国を担う一族として、僅かでも可能性があると臣下達に思われれば、権力を欲しがる者は必ずすり寄ってくる。


 無関心、不干渉は、俺を守る手段であり、王族としての責務であるのだと、親の声より聞かされ育ってきた。


「よろしい。ではこちらに着替えて、荷物は……あぁ、用意しているんだったか?」

「父上、必要なものは既に揃えてあります。先日、私の目で確認してきましたから」

「そうか。そうか、ははは。なら今度は、砥石を探す手間は省けるかな」

「そんなこともありましたね」


 俺は目の前で起きていることが理解出来ず、トイシという覚えの無い単語にも困惑を浮かべつつも、指導された通りの無表情を貫き、ただただ従うことにだけ備えていた。

 同時に、こうして話をしていていいのだろうかと猛烈な不安感を覚えていた。

 もしコレが俺への試験であった場合、不干渉であるべき父や兄の側から寄ってこられても、それを貫けるかを見られている可能性がある。


 顔を動かさず、視線だけで教育係を探したが、いつの間にか姿を消してしまっていた。

 俺の視野外に居るのかも分からない。

 突如として現れた父と兄の、不可思議な言動に翻弄されるあまり、注意力を欠いてしまっていた。


「どうしましょう父上、アーヴェンが固まっています」

「そういうものだ。お前もそうだったぞ。ワシもそうだった。皆そうだ」


 あまりにもコロコロと表情を変える、スィヴェールの王の姿が信じられなかった。


 いつしか完璧と言える程に表情を読ませなくなっていた兄は、むすっと、まるで図書室から隠して持ち込んだ物語の登場人物のように、拗ねた表情すら見せた。


「私はここまで意固地ではありませんでしたよ。もっと素直に、父上の言葉を信じていた筈です」

「それはそうだ。お前は第一王子。アヴィは第二王子だ。私と接してきた頻度が違い過ぎる」

「む。それは……そうですね」


 言うと兄は、やや緊張した様子で俺の前へ立つと、指先を震わせながら手を伸ばしてきて、


「ぁ……」


「ふふっ。どうだ、アヴィ。兄様の手は大きいだろう」


 温かな指先が髪の隙間へ潜り込んで撫でてくる。

 自分から接することが禁じられている人物からの接触に、俺は恐怖を感じているのだと思っていた。

 何故なら顔が熱くなり、全身が強張って何も考えられなくなっていたのだから。


 頭を撫でられていることさえ理解出来ないままでいると、兄は俺の顔を見て盛大に笑った。


 行儀作法の先生が見ていれば、十回は指導鞭で叩かれてしまうだろう、粗暴とも言える様子で。


 なのに何故、誰も叩いてくれないのか。

 いや違う。叩かれるべきは俺の筈だ。

 指導に反し、不干渉で居るべき兄や父の成すがままとなっている。


「駄目だ父上。きっと訳が分からなくて頭が働かなくなっているんだ。私もそうだった。父上ときたら、言葉足らずで問答無用だったからな」


「うん。やっぱり、口で言って納得させるより、あそこに行ってから考えた方がいいだろう。まあなんとかなる」


 結局俺は一度も叩かれること無く、なぜか粗末な服に着替えさせられ、馬車に乗せられ王宮を出た。


 捨てられるんだ。


 試験に合格しなかったから、民の着るような衣を着せられ、市井へ放り出されるんだろう。


 何故か同じようなものに着替えた父と兄が楽しげに談笑する中、俺はずっと身を縮こまらせて黙り込んでいた。


    ※   ※   ※


 「よし。まずは何からやるんだったか」


 俺達三人を降ろした後、馬車は従者の一人も置かずに丘を下って行ってしまった。

 あるのは馬小屋にも似た家らしきものが一つと、場違いなほど小奇麗な髪と顔立ちをして小汚い服を着る王族三人。


 陽の光が、容赦無く頬を焼いてきて、それで俺はようやく自分が王都から程近い直轄領に来ている事に気付いた。

 弓による狩猟は貴族としての嗜みだ。最低限の技術を身に付けるべく、何度か来た事のある禁猟区だったと思う。禁猟区といっても、王族専用だからで、ここで狩りをしている時だけは自分があの父と兄の一族であるという自信を得られたものだった。


 しかしこんな場所があったことは知らないし、山の尾根から察するに普段使っている場所よりずっと離れている。


「掃除ですよ。父上、折角ですから、アヴィとそこの桶を持って川から水を汲んできて下さい。俺、はっ、このボロ小屋の窓という窓を開けて空気の入れ替えをしておきま、すっ、から!」


「おー分かった分かった。アヴィ、こっちだ。えーと、水を汲むんだから大きいものの方がいい筈だから……」


「父上っ、それは前の時に、無理して持ち上げて腰を痛めたやつじゃないですか!」


「あーそうだそうだ。じゃあコレくらいだな。何度か往復すれば水瓶も一杯になるからな」


「道の途中で転ばないように気をつけて下さい。今回はアヴィも居るんですから」


「分かってる分かってる。なんだ、すっかり慣れおって。ほら、行くぞアヴィ」


 目まぐるしく交わされる二人の会話に付いて行けず、そして差し出された手の意味が理解出来ずに呆けていると、父は膝をついて俺の手を取ると、到底道とも思えないような森の隙間へ向けて歩き出してしまった。手を引かれる俺も従って、足元に脅えながらついていく。父もまた、当時まだ身長の低かった俺と無理に手を繋いでいるものだから、中腰のままで、しかももう片方は桶を手にしているから支えを得る事も叶わず下っていくのだ。

 当然、歩みは遅く、けれど俺にとっては丁度良い、そんな速度で歩いていった。


「よぉし、着いたぞアヴィ」


 たったそれだけのことで妙に得意気な父が、川の側で膝を付いた時、俺は咄嗟にいけないと思った。


「父上っ」


 王たる者が膝を付くなど。

 そう教え込まれていた俺は、あまりの事態にただ動転し、とんでもないことをしているんだと父を説得するべく駆け寄った。


「おう、お前もやるか?」


 なのに父は当たり前なことのように俺の頭に手をやると、その両手を川の中へと突っ込み、手の平に掬った水を、まるで貧民のように口元へ運んで啜って見せたのだ。


 事ここに至って俺の頭は完全に混乱していた。

 昨日までの常識が次々と打ち破られていく。

 父親が貧民も同然の行動と取っていることにも衝撃を受けていたし、こうして三人が揃って捨てられたのではないか、王国が乗っ取られてしまったのではないかと無駄に想像を広げては青褪めていた。


「この川の名を知っているか?」


 答えはしたと思う。次々と見せられる異常事態より、覚えた知識を試される方がずっと容易い。


「そうだ。これはその支流の一つでな。いずれは王都へ流れ込む川に合流し、我が国の飲み水として利用される。手で掬って飲もうと、銀のコップで飲もうと、水は水だ」


 ほれやってみろ。そう求められて、俺は恐る恐る川に手を突っ込み、その指先を何かが掠めたような気がしてひっくり返った。


「ひゃあ!?」

「ん? あっははははは! 魚だアヴィ。小魚だぞ。そんなのに脅えててどうする」


 言われるまま川面を覗き込めば、手で掴めそうなほど小さな魚が近くを泳いでいた。

 先ほど触れたのはコイツだ。


 俺は父上の目の前で醜態を晒した事に顔を赤らめ、つい感情任せに魚を掴み取ってやろうと手を突っ込んだ。


「駄目だ駄目だ。魚というのは、人の手なんぞ軽々避けてしまう。余程の熟達者でなければ素手など無理だ」

「ち、父上でも出来ないのですか?」

「ん? ワシか。あぁ~、ワシも一度は掴んだことがあるんだがなぁ、結局逃げられてしもうた」


 物心付いて以来、途方も無く大きい存在に思えていた父ですら敵わぬと聞いて、また俺は衝撃を受けていた。


「何、魚を獲る手段というのは他にもある。人間が他の動物より秀でているのは知恵だ。知恵を絞って魚を上回れば、それは勝利と呼べるだろう?」


 確かに、と俺は大きく頷いて川面の魚を睨み付けた。


 いずれ必ず。


 足りない自分を刻み付けながら、そう誓ったのだった。


    ※   ※   ※


 それから父と一緒に何度も川と小屋を往復して、水瓶をいっぱいにしてから兄と合流し、埃を被った小屋の中を掃除し始めた。

 稀に王宮でも掃除の甘い場所などで見ることはあるが、小屋の中は凄まじい状態で、汗を拭ったその手が真っ黒に染まってしまうほどだった。

 俺の顔を見て指摘した兄の顔もまた、埃で汚れていて、俺が指摘すべきか悩んでいたら、別の部屋から顔を出した父が兄を笑いものにし、その父もまた、埃で顔も服もすっかり汚し切ってしまっていた。


 そう暑い季節でも無かったのに、王族が三人揃って汗だくになりながらボロ小屋を掃除する。

 最初は困惑ばかり募っていたが、やり続けていると面白いもので、より綺麗に、より良い状態にするべく工夫を考える自分が居た。

 折れて放置されていた板から細い筋を拝借して薄く布を巻きつけると、今まで指先では拭けなかった隅にまで届いてくれる。水に着けて絞るだけでなく、ちゃんと揉んで汚れを落としてやると、次に拭く場所が汚れない。濡れた布で拭いた後で放置すると水の後が残っていたから、それは乾いた布で拭き取ってやった。


「ふぅむ。アヴィは掃除が得意みたいだな。王宮の壁と変わらないくらい綺麗になってるぞ」


 後から考えれば親馬鹿そのものな意見だったが、俺は生まれて初めて受けた父からの称賛にすっかり舞い上がって、その後の掃除も徹底的に頑張った。


「そろそろ食事の用意をします。火を起こしてきますので、父上はこのまま中の掃除を」

「いやいや、火起こしならワシの方が上手かっただろ? ほらアヴィ、父が火の起こし方を見せてやるぞ、付いて来い」

「父上はアヴィを独占し過ぎです。アヴィ、私と来い。火起こしは体力が必要だからな。父上は休ませてやらないと」

「んー? 老人扱いするでない。が、まあそうだな、アヴィ、兄と一緒に行ってくるといい。戻った時には王宮と変わらぬほど綺麗になっているからな」


 話がまた勝手に決まって、今度は兄に手を引かれるまま竃へ向かう。


 途中、積んでいた薪を一束掴んだ兄の腕は逞しく、とても大きいものに思えた。

 竃の前で膝を付いた兄に最早何も驚かないまま、未だ流され続けていた俺に、彼は言ってくれた。


「驚いてるだろ」


 束を崩し、一本一本で形を作りながら。


「私が父上とここに来たのは三年前になる。唐突に平民の服を着た父が現れて、強引にここまで連れて来られた。普段、厳しい顔しか見せない父が不思議なほど笑って、四苦八苦しながら一緒に掃除をしたよ」


 火口を詰め、竃の脇に置いてあった器具を取る。

 切れ込みの入った板と、棒の先端部に紐を通して、その紐で両端を支えた板とで十字になった道具。


「私達は王族だ。民が民であるように、王族は王族としてしか生きられない。私達は常に臣民から見定められ、王足り得るかを計られている。また先祖から受け継いできた王国を途絶えさせぬよう、権力を求める者の手に渡さぬよう、慎重に行動し続けなければならない。分かるな?」


「はい」


 幾度も言い聞かせられてきた言葉だ。

 反抗すれば喉が枯れるまで復唱し、腕が動かなくなるまで書き続けさせられる。


 王は人ではない。

 民と同じように笑ったり、悲しんだりは出来ない。


 だから今日まで、そうやって生き続けられるよう指導を受けてきた筈だ。


「それでもな、アヴィ――――私達は人間であることからは逃れられないんだ」


 それは、今日目にした、耳にしたことの何よりも大きな衝撃だった。


 王は人ではない。


 つまり、いずれ王となる自分も人では無い。

 違うのだから、人のように振舞うことは出来ない。また振舞う必要も無い。そう教えられ、信じてきた。


 何もかもが崩れていく気がした。

 じゃあ、今日までの日々はなんだったんだ。

 人では無い王足り得る者として、あれだけ厳しい指導を耐え抜いてきたというのに。


 兄は語る。

 手元で板に突き立てた棒を、棒に紐付けられた板を上下に揺さぶることで高速に回転させ、熱を生じさせながら。


「父上が褒めてくれた。それだけで私は心が躍った。母上から厳しく叱られると、それだけで悲しくなった。どれだけ感情を封じて、制御する術を学んだとしてもな、やっぱり人間でしかない私達は、人の持つ情を完全に断ち切って生きることなんて出来ない。やってはいけない。それは、国を統べる王が、国を維持させる為だけの歯車になることを意味する。そんな者に民を、この国を、スィヴェール四百年の歴史を託してはいけないんだ」


 赤熱した火種を別に用意した火口へ流し込むと、兄は神へ懇願でもするように跪いて吐息を送り込み、


「そらっ、火が点くぞ!」


 着火した。

 炎が兄の手元で広がり、器としていた陶器を手に素早く組んだ薪の内側へ放り込む。


「お前も吹け!」

「えっ?」

「ほらっ、火が消えちまうぞ! 力一杯ここに息を吹き込むんだ!」


 額に汗して叫ぶ兄の真似をして、四つんばいになって竃の中ヘ息を吹き込む。

 正直に言って、狙いも定まっていなかった俺の吐息なんて意味を持たなかっただろう。

 だけど火口から広がる炎が薪へと燃え移り、もうもうと煙が吐き出されるようになると、なぜだか自分が凄い事をしたのだと感じるようになっていた。


「ははっ! 一発だ! 凄いぞアヴィ! 一発で火が点いた!」


 大喜びする兄の姿を見れば、いっそ誇らしくも感じるもので、何をしたでもない癖に意味も無く胸を張った。


「出来ましたね、兄上」

「おうっ。達兄弟の力だっ!」


 肩に腕を回して笑う兄に、いつしか困惑はしないようになっていた。

 そして思った。


 あぁ本当に、俺達は人間なんだ、と。


 いずれ王となり、人では無いように振舞うけれど、確かに俺達は人間だった。


 父と、兄と、水を汲んだり、掃除をしたり、火を起こしたりする、それだけがとても嬉しくて、楽しくて、涙が出るほどに尊いのだと、感じていた。


    ※   ※   ※


 それから鍋で湯を沸かし、三人で切った不恰好な野菜や肉を放り込んで、父が自慢げに王家伝統の大秘術だと言って放り込んだ謎の塊によって色付いたスープを、三人でお腹一杯になるまで食べた。

 机の上ですらない、竃から取り出した薪で新たに用意した焚き火を囲って、時折漂ってくる煙に目が痛いと文句を言い合いながら、パンもワインも、ナイフもフォークも無い削りだした不恰好なスプーンで具材を口の中へ流し込んでいた。


 食事中の会話は常に今後の暮らしについてだった。

 王宮でのことだとか、政治がどうとか、勉強がどうとか、そういう話は一切無かった。


 最初は翻弄されるままだった俺も、徐々に二人の会話へ入るようになっていき、このあまりに非日常的な、不思議な時間を心の底から楽しむようになっていった。


 陽が落ちると三人で板張りの床へ転がり、一枚が駄目になっていた為に、薄手の毛布一枚を横向けにして共有していた。


 兄俺父の並びだ。

 二人の身体はまだ熱を帯びていて、ちょっと汗臭くて、なのに楽しくて仕方なかった。


「明日には用意してもらいますか」

「ふぅむ、こういうのも悪くないと思うがな」

「風邪を引いては一ヶ月も居られませんよ。私との時は、結局体調を取り戻すのに政務をしばらく休んだそうじゃないですか。侍従長からくれぐれも体調管理はしっかりしてくれと頼まれていますので」


「アヴィ、分かるか? 普段澄ましているが、コイツぁ何かと細かいんだ。政務でも疑問があれば全部聞くまで納得せん。文官が列を作って待っておっても聞かんのだ」

「父上は大らかさが過ぎます。人を見る目は優れていると思いますが、人の意思というのは一定ではないのですから、常に管理してやらないと」

「それでお前、今回も始める前から色々と準備をしおって。折角何もかもを自分らでやろうというのに勿体無い」


 床に肘をついて横向きになった父が、にっかと笑って俺のわき腹をくすぐる。

 驚いて悲鳴を上げれば、兄が俺を守るようにして引き寄せ、半眼を父へ向けた。


「私の時は大変苦労させて頂きましたから、弟の苦労を軽減しようと少しばかり骨を折ったまでです」

「それでお前、毛布が足りないんだからなぁ」

「それはっ。手抜かりがあったのは確かですが……!」


「っふふふふ。あははははは」


「アヴィ?」

「ほっほ! 笑っとる! ほれアヴィに笑われとるぞ!」


 もう何がおかしいのかも分からず、こみ上げる笑いに身を委ねて転げ回り、兄にぶつかっては父にぶつかり、脇をくすぐられては逃げて、結局兄に取り押さえられるまでそれは続いた。


「二人とも! 今日はパンの一つも無く、寝室だって使えないまま広間で寝ていますが、明日には今日よりもっと良い環境を作らなければいけないんですよ! ふざけてないでしっかり休んで、陽が登ったらすぐに活動再開しますからね!」


「はぁい」

「分かった分かった」


 でも結局、ふざけ合いには兄も加わって、夜遅くまでそれは続いた。


    ※   ※   ※


 目まぐるしく日々は過ぎていった。

 寝室を整備したものの、寝台の脚が一本腐っていたことが分かると、父が周辺の木から脚になりそうな枝を切り出し、釘で滅多打ちにして無理矢理固定するも、長さが合っておらす造りなおしになったり。

 兄が駄目になっていた釣竿から針と糸を拝借して新しいものを用意してくれてからは、三人で川釣りをして日々の食事の足しにした。

 俺は相変わらず小屋の掃除を続けていて、父がもういいぞと言ってもまだ汚いからと頑張って、そんな様子を見た兄が継続するのは良いことだと褒めてもらった。


 父の火起こしは本当に上手で、手を叩いて俺が称えると、調子に乗って薪をくべ過ぎてスープを丸こげにして兄から怒られた。

 川で汚れた服を洗濯し、ふと対岸で鹿の親子が水を飲んでいるのを見付けると、俺達は少しだけ下流へ行ってからまた洗濯を続けた。

 気温が急激に上がった日には三人で服を脱いで川へ飛び込み、遊んでいる間に服を持ち逃げしようとした大きな鳥を追って裸のまま森を駆け回った。

 三日に一度はやってくる補充と共に、小屋の厠から汚物が持ち出されていたが、雨の後は妙に匂いが強くてそこらでした。三人ならんで川に向けて放尿した時などは、別の意味で自分は人間なんだろうかと問い掛けたくなった。


 一度だけ、獰猛な獣の痕跡を見付けた兄の指示に従って、殆ど小屋から出る事無く過ごした時もあった。

 幸いにも襲われる事無く離れていったとのことだけど、父が若い頃に率いていた部隊の一つが、手懐けようとした獣に襲われ全滅したなんて話をしては兄に叱られていた。その時の俺は、父が面白がるくらい、兄が心配するくらい、怖がっていたらしい。


 魔法を使えば解決する問題も多くあったと思う。

 今の、現代日本の感性から見たその力は、きっと獣を撃退出来たし、毎日の水汲みも必要なかったり、なんとなれば空だって飛べたかもしれない。


 だけど己の肉体、それだけを頼りに一ヶ月を生きた。


 すると徐々に分かってくる。


 自分がちっぽけな生き物に過ぎないこと。

 お腹が減れば辛いし、満たされればそれだけで幸せな気持ちになれること。

 最初は楽しかった水汲みも、日常となれば寝起きにやるのは億劫であること。

 スープばっかりは飽きるし、パンをやわらかく焼き上げるのは難しいし、食べ物は保管が悪いと腐るし、腐りかけでも食べればお腹が痛くなる。

 当たり前だけど、当たり前と思っていなかった一つ一つのこと。


 日々を生きればこれまで自分の中にあった、王となることの重みも変わってくる。


 一日を過ごせば、残りがまた一日減っていく。


 語られるまでもなく理解していた。

 この一ヶ月だけ。

 今だけが、きっと生涯で一度きりの、アーヴェン=リラ=スィヴェールが人間として生きていける時間なのだと。


 父は毎日楽しそうに笑い、兄も楽しそうにしながらいつも心配そうで、怒ったり、叱ったり、けれど時に父もびっくりするくらい大胆なことをする。


 言い合いをし、生まれて初めて兄弟喧嘩というものも経験した。


 時折対岸で見る鹿の親子を食料にしようなどと言われては、俺だって兄に反抗くらいはする。


 喧嘩をして、仲直りをして、でもまだ意見は対立したけど、喧嘩に勝利した兄に従って狩りをした。

 子の命を奪ったのは俺だ。

 罠を張り、動きを封じ、棍棒で頭を殴りつけ、殺した。

 それまで別の生き物は普通に狩猟していた癖に、ここへ来て間もない頃から顔を合わせていたあの鹿の親子だけは、どうしても殺したくなかった。


 泣いて、叫んで、肉を食べた。

 兄と喧嘩をしてから、意地を張って丸一日以上食べていなかった胃袋に、鹿肉は悲しいほど染み渡って、俺の血肉となっていった。

 その日は久しぶりに三人並んで眠り、俺は鹿の子どもと一緒に野山を駆ける夢を見た。


 途方も無いほどの感情をうねらせて、接し合い、学んでいく日々。


 大きな自然の中で生きているということ。

 自然の中で生かされているということ。


 それを、ゆっくりと学んでいった。


 そして最後の日はやってきた。


    ※   ※   ※


 直前になるまで、俺はすっかり自分が王族であることを忘れていた。

 我ながら間抜け過ぎる話だが、何故だか明日も、そのまた明日も、父と兄と一緒にずっとこの森で生きていくような気がしていたのだ。


 だから兄に期日を告げられた時は我が儘を言い、けれど、差し出された衣を見て俺は、何も言えなくなってしまった。


 最後の夜、俺達は来た時とは逆で、いつも王宮で着ていたような、王族としての服を着て過ごしていた。


 どこに隠していたのか、絹を編みこんだ絨毯を広げ、香を焚き、ランタンに火を灯して横になる。


 あんまりにも不釣合いで、いっそ馬鹿にすら見える恰好なのに、一度着てしまえば徐々に馴染んでいった。


 一ヶ月を過ごしたオンボロ小屋の天井を見上げながら、思い返す日々のあまりもの眩しさに涙が止まらなかった。


 父は、俺を愛してくれていた。

 兄は、俺を愛してくれていた。


 この日々の中で、二人から受け取ったものは途轍もなく大きい。


 でも、今日までだ。


 明日から俺は、兄に万が一があった時の予備として、王国を二つに割らないよう慎重に慎重に周囲との距離を計りながら、兄が死ねばその代わりとして、兄が死なねば一生を何もしない予備として、生き続けていくことになる。

 道ですれ違っても視線を合わせることなく、誰が見ても下位の者と分かるよう、利用出来ない隔たりがあると感じさせるよう、無関心で不干渉な存在として在り続ける。


 その日々の、なんと怖ろしいことか。


 思いながらも、同時に胸の奥で確かに息づくものがあった。


 これさえあれば、俺は一生を人形として生きていける。

 例え道ですれ違った父が何一つ俺へ関心を向けてくれずとも、玉座の兄が冷たく俺を突き放したとしても、この一ヶ月さえあれば何を不満に思うことがあるだろうか。


「父上。兄上。ありがとうございました。おかげで俺は、この先の人生で何一つ迷う事無く己の役割を全う出来ます。俺はこの一ヶ月で、一生分の愛情を貰いました。これほどまでに家族の愛を受けた者など他には居ないと言えるほどに、今の俺は満たされています」


 父が鼻を啜り、兄は静かに頷いた。


 二人から敢えての言葉は無い。

 伝えるべきことは、今日までに伝えてくれている。


 衣を纏った以上、今の父は王で、兄は第一王子。


 未だオンボロ小屋で寝転ぶ三人だからこそ、声を掛けるという甘えが赦されている。


「ありがとうございます。俺に、人間として生きる時間を下さったこと、心の底から感謝しております」


 そうして最後の夜は終わり、朝になるとやってきた馬車へ乗り込み、王宮へ戻った。

 馬車の中で言葉は無く、降りてからは一度も振り返る事無く己の道を歩んでいった。


 これが――――アーヴェン=リラ=スィヴェールが持つ、家族との記憶。


 やがて彼は、俺は、これだけの愛情を裏切り、王国を乗っ取って、新興国家の属国として頭を垂れ、盛大に周囲を巻き込んで爆死した。


    ※   ※   ※


 だからコレは、俺に与えられた天罰なのかも知れないと思った。


『違うわよ。そうじゃないの。私だってちゃんとしようと』

『結局駄目なんだ。こんなつもりじゃなかった。俺だって、もっと上手くやれていたらさ』


 父と、義母が……自由か、あるいは理想に生きることを望んで、俺を捨てて去って行ったこと。


 最早お前に家族の愛情など受け取る資格は無いのだと、冷め切った心でもう一人の俺が断罪を口にしていた。


 本当であればそこで全てが終わる筈だった話。


 なのに。


『ぁ…………よかった。帰って、きてくれて』


 残されていた。


 たった一人、俺の元に残った家族。

 身軽になろうした二人だからこそ、置き去りにしたもう一人。


 かつて手を伸ばして掴んだ筈の人は既におらず、最早、彼女だけなのだと。


『コハル。兄ちゃんと、一緒に居てくれるか?』


『うん』


 施設には入らない。

 望むのはただ明日を繋ぐ生存ではなく、コハルから奪われてしまった日常を取り戻すこと。


 当時中学三年生になったばかりの、選挙権すら持たない小僧一人で目指すには、あまりにも重い決断。


 常道は歩めない。

 非常で以って奪い取り、取り繕い、飾り立てて偽装する。


 人間であることから逃れられぬ身で以って、情を武器に、非情を振るう。


『だいじょうぶ。だいじょうぶだよ』


 コハルには全て話した。

 抱え続けることに耐えられなかった。


 俺は、およそ子が親に取るべき行動からあまりにも離れた手段を選んだ。


 残された手切れ金で探偵を雇い、二人を捜索し、新たな生活が安定するのを待ってから、その全てを破壊すると恐喝し、逃亡すれば追い詰め、精神的にも肉体的にも、金銭的にも追い詰めながら、決して首を断つ事無く生かし、望む結果へと誘導した。


 二人は六法全書に誓い、俺とコハルが成人するまでの養育費及び生活費を支払い続けることを書面にて契約し、今は、海外で新しい生活を平穏に送っている。


『状況はある程度固定化された。諸所の問題は継続するが、俺達は俺達が辿れる筈だった道を取り戻そう。辛酸を舐め、地に伏したまま生きていくつもりはない。俺達の人生はまだ、始まったばかりなんだから』



『――――それが例え、常軌を逸した手段であろうと、俺は日常を取り戻す』



 しかして日常は、非日常によって侵食されていることが判明した。


 さあ、状況を開始しよう。




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