第4話
慣れた足取りで部屋の奥へ向かった生徒会長が窓を空けると、どこからか小鳥が飛んできて枠に留まった。
彼女は少し驚いたようだが、逃げる様子が無い事を察して手を伸ばしかけるが止まり、浮いた手を窓際の食器棚へ向けた。
「紅茶と、緑茶と、それに珈琲か。色々あるが、何が良い?」
案内された生徒会室は、仰々しい造りなどどこにもなく、ただ空き教室を割り当てたような簡素な造りだった。
一応、一般教室に無いようなものと言えば、安っぽい合金製の棚と、会議に使うのだろうホワイトボード、学生机とはまた違う長机に、今話しに出た来客用の茶葉各種を納めた年代物らしい木製の食器棚が一つ。食器棚の半ばに飾り用の空間があって、そこに湯沸しポットなどが置いてある。
「では、緑茶をお願いします」
「分かった」
生徒会長は腰元まで伸びる黒髪を持っていたヘアゴムで纏めると、茶葉の入っているのだろう筒を取り出して用意を始める。
道中色々と激しい緊張に晒されていたと思しき彼女だが、一年生棟からは比較的距離のあるこの生徒会室へ向かう中、徐々に初めて見た時のような凛とした佇まいを取り戻していった。
元来こういう人なのだろうか。
何がどうなって先のような醜態を晒したのか、分からないの一言で纏めるには昨今俺の周辺で起きている事には疑問が多過ぎる。
幾つか仮説を立ててみた。
まず彼女が例の妖狐を操っていた人物であるという可能性。
断定する為の判断材料が無いのでこれ以上は発展の仕様が無いのだが、こうして会話が出来る以上は今から探っていくことが出来る。
次に、これは少々過剰な反応だとも思うのだが、加賀谷先輩との件で更なる忠告をするつもりなのか、という可能性。
俺としてはこの場合が一番助かる。彼女とは距離を取っていくつもりだし、こうして生徒会長が積極的に動いてくれるのであれば、今後のことも含めて庇護を受けるという手もあるだろう。一介の生徒であれば難しいが、元々問題行動が多いという加賀谷先輩に対し、生徒の代表者から学校側へ働きかけてもらえるというのは、一つの政治的手段として確保する旨味はある。
他には少々下らない仮説ではあるものの、入学早々に俺の優秀さに目を付けた生徒会長が自ら生徒会へ勧誘しに来た、だとか、加賀谷先輩の反応と合致することなどから、この真面目そうな生徒会長を眼光一つで陥落させてしまった、だとかいう可能性もまあ、考えられる。
「どうぞ」
「頂戴します」
だって、まあ、こうして盆に乗せた湯のみを差し出してくる生徒会長は、どことなく頬を染めていて、俺の方をチラチラ見ては逸らしてを繰り返している。
湯のみを手に改めて仮説を申し上げる。
俺、モテ期、来た!
「………………」
最近色々あって疲れているんだな。
心の癒しが必要だ。思えば今日は一度も追いかけっこをしていないじゃないか。
「ほぅ……」
しかして生徒会長の淹れた茶は美味かった。
ただの緑茶ではない。玄米茶にも似た香ばしさを持ちつつ、緑茶としての清涼感が勝る。渋みが出ないよう短時間で蒸らされた茶葉からは、いっそ甘味を感じるほどだ。当然ながら砂糖など入れている様子は無かった。茶葉が本来持つやわらかな甘みだろう。
あくまで湯沸しポットから急須へ注いだだけで、細かい技術など論じるまでもないのだが、これは純粋に茶葉の質の高さと、最低限この状況でも茶葉を活かす術を彼女が持っているということだ。
「結構なお手前です。これほど良い茶を飲んだのは久しぶりです」
「そうか……良かった」
心底安心したように頬を緩ませ、自身も湯のみを持って対面へ座る生徒会長。
さて話の内容とは。
身構える俺の前で、彼女はまず自ら淹れた茶に口を付けた。
湯のみの底と側面へそれぞれ手をやり、やはり、美しいと言える所作で以って。
「……」
吐息一つ取ってもどこか涼風を思わせる。
「まずは、君の名前やクラスなど、勝手に調べてしまったことを詫びよう。言い訳などはしない。私は私の望みによって行動した。君の持つ私への評価へ異論を唱えるつもりはない」
「はい」
「そして礼儀として名乗らせて欲しい。私は
心地良い声と意気が胸を叩く。
そして一切ブレの無い真っ直ぐな背筋。
俺は話を進めるべく、問いを投げ掛けることにした。
「藤堂先輩は何か武術をやっているんですか?」
「ん? あぁ、家が道場を開いていてな。幼い頃から剣道を仕込まれている」
成程。とても一般人とは思えないほどに整った姿勢をしているが、そういう事情があったか。
「よく分かったな。姿勢が良いとは言われるが、武道云々を指摘されたことはない」
「昔、似たような人を見たことがあります。その人も武術……武道を嗜んでいましたから」
「そうか。そういうのも、あるのか」
妙な言い回しだったが、疑問を解消する為に付いてきたのだ。
謎はこの場で解消される。
焦らず、こちらの手札を必要以上に晒す事無く情報を得たい。
「それでは、先輩からの質問をお聞きしましょう」
湯のみに手を伸ばし、茶を頂く。
話の流れはこちらで作った。
質問をし、答えを貰い、それに応じる形でこちらも質問を受けると言ったのだ。
科学だろうとオカルトだろうと、異質な力だろうと生徒会長との問答だろうと、重要なのは制御可能であるかどうかだ。
制御出来ないというのはそれだけで危険。
事が自分の慮外からやってきて、力及ばぬ可能性あるとなれば尚更そうだ。
「あぁ……ただ、妙なことを言うだろうから、分からなかったら忘れてくれていい。違うのであれば、私も無闇に干渉しようとは思っていない」
前置きは、自信の不足や誤解の危険がある時に行われる。
自己保身というのもあるが、彼女の口振りからも、言葉からも、そういう弱さは感じられない。
ただ、崖の淵に立っているような不安定さが、その声からは感じられた。
「君は、ウィリアムという名を――――」
「あのぉー、ここに生徒会長がオトコ連れ込んだって聞いてきたんですけどぉー」
場の雰囲気を蹴飛ばすように、何の遠慮も無く扉が開け放たれた。
鍵は、生徒会長が閉めていた筈だ。気付かれぬようこっそりとではあったが、退路を塞いだというよりは、外部からの干渉を拒む為に思えたので黙っていたのだが。
「人が先に手ぇ付けてた子、権力振り翳して攫うなんて貴女も人の事言えないんじゃなあい?」
加賀谷 芽衣。アキト先輩からはクソビッチなどと呼ばれていた少女は、鍵に通したリボンに指を入れて回しながら、嗤っている。
ダン、と机を叩いて立ち上がったのは藤堂 薫子。
外し忘れていたヘアゴムを引き抜いて扉前の彼女に向き合うと、凄まじい眼光でその身を貫いた。
「きゃーこわーい」
だっていうのに加賀谷先輩は動じた様子もなくケラケラと嗤うのみ。
普通なら、ただ日常を生きてきた者なら、あんな目を向けられて平静を保てるだろうか?
最初から異様な雰囲気を放っていた加賀谷先輩。
幼い頃からの躾があったとはいえ、歴戦の勇士を思わせるほどの眼力と整った所作のある藤堂先輩。
共通するのは、あまりにも歳不相応という点だ。
「お静かに。加賀谷先輩も俺のクラスへ顔を出し、そこで生徒会長が連れて行ったと聞いたんですよね。なら俺に用件があったのでしょう。今は先約である藤堂先輩から話を聞いていますので、その後でしたら応じる用意もあります」
尚も口論を続けようとする二人へ向けて、俺は淡々と提案を叩き付けた。
いい加減、翻弄されるばかりなのにも苛立ってきた所だ。
「えー、私はぁ」
「――――ではお帰り下さい」
状況を整理したい。
邪魔な要素は排除する。
年上の、それも女性の先輩に対してあまりにもキツい対処となったが、優先順位を間違えてはいけない。
なんとなれば、コレで離れていってもらえるのであれば好都合ですらある。
比較的冷静に対話を望んでくれている生徒会長の方が、現状では重要度は高い。
なのに彼女はショックを受けるでも驚くでも無く、
「っ……!!」
何故か頬を染めて胸をきゅっと掴んだ。
そして何故か、言葉を向けられたのでもない藤堂先輩までも似たような反応を。
続けて二人は何故か向き合い、じっとお互いを観察し始めた。
なんなのだ……。
俺は一度頭へ手をやり、そして落そうとした息を飲み込む。
コレがアキト先輩的に言う、おいしい展開なのだろうか。
いや違う。さっきまで衝突していた二人が何の理由も無くそんな事になるものか。
一目惚れという証言ですら俺は疑問視しているのだ。
二人は、おそらく俺の知らないあらゆる情報で以って思考を重ね、交わらせ、やがて――――
「そっか……」
「だとすれば……」
音も無く、座る俺の前へ
※ ※ ※
アーヴェン=リラ=スィヴェールは第二王子に過ぎなかった。
第一王子に万が一があった場合の予備。
そんな俺が父王を排し、兄を排して玉座に収まれた最大の理由が、本来ならば王を支え守るべき二人の離反にあった。
王の側に侍り、王を守る為に身命を賭して尽くす騎士団長。
王の方針に従い、国政の一切を取り仕切る宰相。
不審はあった、迷いはあった、諭され懇願されることもあった、試すために突き放し、裏切りを臭わせることさえした。けれど最後には、二人は揃って俺の元へ傅いた。
軍事の頂点に立つ者と、政治の頂点に立つ者を同時に奪われた父は呆気無く玉座を追われ、権力はこの手に収まった。
迫るクソヤンキー国家との交渉や反乱の鎮圧など、二人が居なければ到底収められるものではなかったと思う。
この身の半身であり、支えであり、命を懸けて統治すべき二人。
俺が死ぬ瞬間、彼らが何に気付いて駆け寄ろうとしていたのかは分からない。
イーリスの瞳に縫い留められ、いや、夢中になって、いたから。
そんな、最後の最後で忠言に耳を傾ける事無く爆ぜ飛んだ馬鹿な主君を助けるべく、死に物狂いで行動しただろう二人。
ウィリアム=バクスター。
エリクザラート=ゼイヴェルト。
その名は我が誇りであり、我自身ですらあり……心残りであった者を示す言葉。
『君は、ウィリアムという名を――――』
生徒会長はそう言った。
聞き落とすものか。
ならば。
※ ※ ※
「確信を以って申し上げる。今再び、御身の前に傅ける喜びと共に、是非貴方様の真名をお聞かせ願いたい」
生徒会長が言う。
最早、気の良い先輩という仮面すら放り投げ、いつか捧げ誓った己が心臓へ手をやり、敬服を以って地に侍る。
「同じく。最早永久に叶うこと無き忠誠であると、昏き絶望の最中に差し込んだ一筋の光で以って、どうか慈悲をお与え下さい」
クソビッチなどと称されていた少女はこれまでのふわふわした動きなどあっさり捨て去り、床へ沈み込まんばかりに己を敷き、希う。
「「王子。どうか、御身の名を」」
仮説はあった。
一目惚れだの、才能を見い出しただの、そんな曖昧なものではなく……あまりにも俺にとって都合の良い、こんな可能性を考慮しないでもなかった。
人の性根は目に宿る。
俺だって何一つ感じ取っていない訳じゃない。
「ウィル」
「はい」
「エリク」
「ここに」
名を呼んだことで最早確定した事実を前に、未だ頭を垂れて全身全霊で忠義を示す二人を前に、俺は額に手をやり吐息を呑み込む。
眉間には苦悶が刻まれ、歯が軋まんばかりに食い縛る。
「そうか……お前達も、死んでいたのだな」
なんという愚か。
なんという罪深さ。
己の間抜けさにこの魂すら引き裂いてしまいたい。
最早死んでいる以上、俺に王国をどうこうする術は無い。
だが、一度排除されたとはいえ、父も、兄も残っている筈だった。
そこに裏切り者とはいえ国を支える重鎮二人が戻れば、スィヴェールを立て直すことは出来るだろうと、甘い観測に浸っていた。
王も無く、騎士団長も、宰相も失って、今の国政の流れを知る者の無いまま父や兄が戻ったとして、果たして国体を保っていけるだろうか。
王が果たすべき最低限の責務は、死なぬことだ。
それを果たせないばかりか、重鎮まで巻き添えにして。
加えて考えるならば、俺が死に、離れた位置に居た二人が死んだのであれば、直近に居たイーリスは、もう……。
感情は不要。ならば、だ。ならば、クロノハルは式の最中に第三王女が暗殺されたという政治的カードを得たことになる。例え画策したのがスィヴェールでなくとも、防ぐことの出来なかった責を問うことが出来る。未だ式への出席でスィヴェール国内に残る自国の貴族を守るという名目で軍隊を派遣してきた場合、父や兄では跳ね除ける術を持たないだろう。後は適当な理由を付けて軍を各所に駐留させ、実効支配を広げていけば良い。国の主要人物を失っている以上、下手をすれば誰も気付けないまま王都を失うことも考えられる。
王国は途絶えた。
他に考え得るあらゆる幸運を前提にしたとして、スィヴェール王国の滅びは避けられない。
「王子の心中、察するに余りあります」
「最早王国は手の届くところには無く、座して想う他無いのでしょう」
ですが、と。
「再び出会えたこの奇跡を前に、どうして傅かずに居られるでしょうか。どうかお許しを。そして、御身の名を」
「王子。どうか、それ以上ご自分を責めなさるな。世は違えど、我々は新たな生を受けたのです。ですから、どうか再び」
重ねて願う二人を見下ろしながら、一時スィヴェールへの思考を遠ざける。
二人の言う通りだ。
最早手は届かず、死で以って俺の王道は完結している。
歴史に残る暗愚そのものであったとして、ここで思考を重ねることは、悲劇に浸る娯楽と何の違いがあるのか。
今を。
思い、ぐっと手を握った。
「良いだろう」
立ち上がり、自らの脚で二人と向き合う。
藤堂 薫子。ウィリアム=バクスター。
加賀谷 芽衣。エリクザラート=ゼイヴェルト。
かつては己の半身とし、世界を超えて尚も出会った忠臣に対し、俺は、
「俺の名は…………一之瀬 仁。最早この身は、スィヴェールの王族ではない」
絶縁状を叩き付け、生徒会室を出た。
最後に見たのは二人ではなく、空いた窓から飛び立つ小鳥の姿だった。
※ ※ ※
日常を歩いていく。
平たく、穏やかで、刺激は少ないけれど、飽きや退屈とだって仲良く歩ける。
「遅れてしまって申し訳ありません。本来ならとっくに時間を過ぎているのに」
「いいえ。昨日も言いましたけど、お二人の事情についてはお聞きしてますから」
入り口脇で花壇に水遣りをしていた園長先生へ挨拶をしてから中へ入っていく。
園内にはまだ他の子どもの姿もあり、こういうことがそう珍しくは無いのだと分かってくる。
だからか、他の先生と話し込む、同じように引き取りにきた母親の一人が俺を見定めてなにやら声を潜めた。
異質というのは目立つ。
注目を集め、好奇の対象となる。
それが道端の石ころを蹴飛ばす程度と思っている側からすれば、蹴った石が当たろうと外れようとどうでも良い。
だが石は、当たれば痛い。
俺であれば痛みには耐えられる。
前世での記憶も合わせれば、三十年分の経験があるとさえ言える。
肉体的、精神的にも単純計算することの愚かさについても今はどうだっていいことだ。
「例の子の」「親が」「大変よね」「でも」「えぇ」「そうなのよ」
異質というのは目立つ。
通常の話し声であれば聞き流してしまうようなことでも、潜めた声は異質故に意識へ入り込んでくる。
打てる手は限られるが、対応策は追々練るしかない。
なによりも、あの子の為に。
決意も新たに周囲へ視線を巡らせる俺へ、横合いから飛びつく者が居た。
「うおっと!?」
危うく落す所だった。
「兄ちゃん!!」
パァッ、と笑顔を咲かせた少女の腰元へ手を回し、抱きかかえて姿勢を整えた。
「よっと」
「ん~~~ぐりぐりー!!」
「こぉらこら暴れるな。落ちるぞ。また頭ぶつけて泣くぞ」
「んー!」
身体全体で甘えてくる少女へ、俺はぞんざいにも思える手付きで背中を叩き、落ち着け落ち着けと擦ってやる。
「いい子にしてたか? 喧嘩したり、先生困らせたりしてないだろうな」
「してない! 元気!」
「そっか。うん、コハルはいい子だな」
「んふふー」
しばらくそうやって戯れていたら、若い先生が寄ってきた。
昨日も会った、担任の人だ。
「コハルちゃん、お兄さんの事が大好きみたいで、お絵かきの時間に絵まで描いてたんですよ」
コハルを抱いたまま俺は彼女へ向き合って頭を下げた。
「コハルがお世話になっています。その絵っていうのは見せて貰っても?」
「だめぇえーっ」
暴れようとするコハルをなんとか宥めるも、どうやら絵は見せてくれないらしい。
「どうしたのコハルちゃん? お兄ちゃんにも見せるって、さっきまで言ってたのに」
「んー、だってやだー」
「そっかぁ、やだかぁ」
「んー、だって兄ちゃんー」
そっかそっかぁ、と応じていたら、本当におかしそうに先生が笑った。
変な噂をする人も居るが、とても優しそうで、人好きのする笑顔だった。
「っふふ。あ、すみません」
「いえ」
「コハルちゃんがやっていたお兄さんの真似にそっくりで」
「ほう。そんなことやってたのか。後で兄ちゃんにも見せてくれな?」
「しらなーい」
どうにもウチの妹は黙秘権を覚えたらしい。
成長著しいのは嬉しいが、兄として一抹の寂しさを覚えなくも無い。
折角描いてくれた絵を見たいとは思うんだが。
「よし。実はな、ちょっと学校出るのが遅れちゃって、スーパー寄って来なかったんだ。帰りに寄るけど、まだ歩けるか?」
「ちゅーぱっと!」
「分かった分かった。百円で十本の奴な」
「うん!」
「たまに兄ちゃんと半分こしてくれよ?」
「んー、いいよ」
その後は先生と軽く話をして、コハルの荷物を受け取ってから幼稚園を出た。
基本的にはバスで送り迎えをしてくれる所なのだが、俺の登校時間と兼ね合いが悪く、送り迎えする形を取らせて貰っている。
幸いにも家は歩いて十分と少し。スーパーでチューパットを買えば二十分程になるから、一日遊びまわったコハルにとっては過酷な道程になっただろう。
「コハル。コハル、着いたぞ」
言いつつ身体を前傾させ、背負ったコハルが落ちないようにして家の鍵を取り出す。
建て付けの悪い扉をなんとかスライドさせて中ヘ入ると、腰を落としてコハルを降ろした。
「んー、兄ちゃん~」
一応起きてはいるようだが、疲れてもう意識も絶え絶えといった所か。
「まだお風呂入ってないだろ。晩御飯だって食べてないぞ」
外に置きっぱなしにしたスーパーの袋を取り、扉を閉めて鍵を掛ける。
「ちゅーぱっとぉ」
「凍るのは明日の晩くらいかな」
冷蔵庫は入り口脇にある。
転がったコハルを跨いで回り込むと、手早く買ったものを入れていく。
漂ってくる冷気が心地良かったのか腰元に抱きついて冷蔵庫の中を覗いてきた。
「朝食べるぅ」
「また半分溶けてるのになっちゃうぞ」
冷凍庫にチューパットを放り込んで終了だ。
俺は腰元に巻きついたコハルをそのまま抱え上げて奥へ行くと、畳んであった布団を脚で広げてそこに寝かせた。
まだ時間は十五時過ぎ。
どこかで起き出すだろうから、晩御飯はすぐ食べられるようにしておこう。
立ち上がって用意を始めようとしたら、コハルが制服のズボンの裾を掴んでいるのに気付いた。
また腰を落とし、頭を撫でようとして、不意に止まる。
――――制御出来ない力はそれだけで危険だ。
発動条件も分からず、存在さえ確定していない。
呼吸、視線、発音、集中、怒りや悲しみや、指先の動き、組んだ手の形、あるいはふっと意識を遠退かせるような、理性の減衰か――――頭を撫でる、この動作が、想像も出来ない暴力を撒き散らすかもしれない。
異世界転生は起きたのだ。
特異な能力は存在したのだ。
異能者が今日も暗闘を繰り返し、どことも知れぬ場所で絶えていく。
俺のこの危惧が過剰であると、誰に証明出来る?
何の自覚も無いまま判を押した紙切れ一枚で数千人が死に絶えることもある。
力の有無、総量、制御の手段。それを分からぬままこの子の近くに居るというのは、俺の甘えから生じる必然としての事故に巻き込む危険があるという意味だ。
「コハル」
六畳一間。築五十年を越える安アパートの一室で、たった二人。
帰ってくる者は、もう居ない。
「ご飯作ってるから。手、離してな」
「んー、いっしょぉ」
「あぁ」
恐る恐る、震える指先でコハルの頭を撫でた。
「ずっと一緒だ。兄ちゃんが、コハルの側に居るからな」
これが俺の、一之瀬 仁が守るべき日常だ。
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