第2話


 『違うわよ。そうじゃないの。私だってちゃんとしようと』


『お前どうしちまったんだよ。なんか、なんか変だって!』


『結局駄目なんだ。こんなつもりじゃなかった。俺だって、もっと上手くやれていたらさ』


『ぁ…………よかった。帰って、きてくれて』


『調査の結果、対象は両名共に現在国外に居ることが判明しており』


『なんだよソレ……っ、そんなのっ、だって、相手は自分の』


『うん。だいじょうぶ。だいじょうぶだよ』


『お話は伺っています。こちらでちゃんとお預かりしますので、どうかご安心を』



『状況はある程度固定化された。諸所の問題は継続するが、俺達は俺達が辿れる筈だった道を取り戻そう。辛酸を舐め、地に伏したまま生きていくつもりはない。俺達の人生はまだ、始まったばかりなんだから』



『――――それが例え、常軌を逸した手段であろうと、俺は日常を取り戻す』


    ※   ※   ※


 春風の誘いに乗って桜の花びらが一斉に舞い始めた。

 桜というのは良いものだ。見た目の美しさもさることながら、明治維新以降に全国各地へ植樹されたソメイヨシノは、凍える冬を越えた頃になると一斉に花を咲かせ、春の訪れを感じさせてくれる。冬は冬の良さはあるものの、やはり寒さというのは厳しいもので、春の気温を感じてしまえば力が抜ける。そうして冬に外を出歩く時には、春よりも少しだけ強張っていた自分を知るのだ。


 俺は学生鞄のベルトに手をやり、肩に掛かる感触を確かめながら掛け直す。

 さして意味の無い、なんとはなしの行動だ。


 明日からどうなるかはさておき、今日の学生鞄は実に軽い。

 入っているのは始業式の案内となるプリントが一枚と、各種筆記用具を収めた筆箱、あとは財布と携帯くらいだ。


 真新しい学生鞄に、学校指定の制服もまた、桜の花びらが肩に乗っている以外は新品そのもの。


 今日は高校入学初日。


 周囲にちらほら見えている同じ制服の学生らも、単純計算で三分の一は新入生の筈だが、この辺り、登校時間に応じた学年の分布などの統計はどうなっているんだろうか。慣れている者ほどギリギリを狙うと考えるのは安易か。結局は性格に拠るものだし、部活の朝練でも始まれば変わってくるものだしな。


 朝の過ごし方は人それぞれ。

 真っ直ぐ登校する者も居れば、公園の川向こうでなにやら背伸びして両手を掲げている女生徒も居る。

 よく分からないが、登校中でも出来る簡単エクササイズとか、流行のギャグネタだったりするのだろうか。

 昨今では情報源が増え過ぎて流行も一枚岩では無いからな、知らずに居れば珍妙なものであってもおかしくはない。


「ほらっ、急いで急いでっ! こんなの昨日の夜のに比べればへっちゃらじゃない!」

「いや待て晴菜はるな、その言い方は誤解を招く。第一時間はかなり余裕があるんだから、無駄に急ぐ理由はないだろ」


 春一番が吹いたのかと思った。


「早く学校に着けばその分青春時間は伸びるの! 彰人あきとはただでさえ若さが足りないんだからっ、新入生からたっぷり吸い取ってあげないとね!」

「人を吸血鬼か何かのように言うんじゃない。俺は別に青春なんぞに興味は無いし、欲を言えば後十分はテレビを見ていたかった」

「何かあったっけ? お天気お姉さんの占いコーナーは終わってたよね?」

「番組最後のわんこ紹介コーナーを見ずして今日を始められるか。お前がしつこいから録画して出てきたんだぞ」


 同じ制服を着た男女がなにやらを言い合いながら駆け足で俺を追い抜いていく。

 快活さが溢れんばかりの少女は何度も後ろを振り向きながら男に激を飛ばし、男も男で、もじゃもじゃ頭を掻きつつ意外にも軽快な足取りで少女に続く。年齢は双方共に変わらない筈だ。なのに少女と男といった印象が強いのは、まあ、男が結構な老け顔だからだろう。口振りからして上級生だが、一つ二つ上とは思い難い程に謎の貫禄がある。


「ん?」


 不意に男が振り向いてこちらへ注目してきた。

 急なことだったので目を逸らすのが遅れ、ばっちり目が合ってしまう。


 眠そうな半眼が何を捉えたのかは知らないが、俺は一之瀬 仁の十四年と、としての一年少々の経験を元に小さく会釈した。相手も同じく会釈を返してきた。違ったのはもう一人。


「あー、いけないんだー、下級生苛めてるー」

「晴菜、誤解を招く。目が合っただけだ」


 言葉の後で男は――――アキトと呼ばれていたか、アキトは適当に手を振って背を向けた。

 今度はハルナが首を傾げてこちらを見たが、アキトに頭を小突かれて追いかけていった。


「下級生にガン付けとは、お前も二年に上がって先輩風を身に付けたか」

「ゴカイをマネクー! マネクーようなことを言わないで貰えませんカー?」


 ともあれ二人は駆けて行き、俺も学校へ向かうべく歩を進めたのだが、ふと疑問を得て口ずさむ。


「どうやって俺を下級生と……いや」


 生地が新しいのもそうだが、成長期を見越して制服は大きめに作ってもらっている。

 何より鞄だ。学校指定の学生鞄は傷一つ無い状態で、加えて、


「名前を書いて収める場所と言われたからそうしていたのだが、あの二人には無かったな」


 俺は学生鞄の表面に差し込んでいた『一之瀬いちのせ じん』の名札を抜き取って、鞄の中へ放り込んだ。

 常識とは往々にして変質するものだ。

 新入生だからこそ素直に指示を聞き過ぎる。

 まあ普通に考えて、通学時に周囲へ自分の名前をアピールして回るというのは確かに面映い。

 奥ゆかしい日本人たるもの、善行を積んでも「名乗るほどの者ではございません」とでも言うのだろう。


 改めて通学だ、そう思って踏み出した一歩は、またしても硬直することになった。


「……………………」


 歩き出す。

 通学路は頭に入っている。無理をする必要は無い。しかし今ので勘付かれた可能性がある。どうだろうか。思い、辿り着いた曲がり角でそっと背後を確認した。


 真後ろだった。


 金髪ボブカットの少女が文庫本片手に歩いており、俺とは一切目を合わせる事無く、視線を手元の本へ釘付けにしたまま回り込み、歩を緩める俺を追い抜いていく。

 足取りに奇妙な所はない。視線は動かなかった。こちらを伺う事無く、身を固くすることも無く、当たり前に本を読んで慣れた通学路を行く姿がある。


 改めて背後を振り返ってみるも、学校に程近い場所とあって学生の姿が多い。

 スーツを着たサラリーマン、短パン姿で自転車を転がす老人、犬の散歩をするマダムなど怪しい者の存在は無かった。


 気のせいか。


 思いつつも、一度覚えた違和感が本物である可能性を十分に考慮し、結論を保留とする。

 最後にあのボブカットの少女を探してみたが、続く通学路の先にその姿は確認できなかった。


「アキトといったか……彼が最初に振り返った時の視線も、今のものだったとすれば」


 言語化は自己確認の手段として非常に有用だ。

 そんなことを言っていたのは宰相だったか。

 現代日本ではちょっと危ない奴だと思われてしまうのが玉に瑕なのだが。


 だから名も知らぬツインテールの少女よ、俺は寂しい人では無いし、変な人では断じてない。ほら、学生鞄にネームプレートを入れたままでは名乗るほどの者ではプレイが出来ないだろう? お互い新入生同士、誤解無く分かり合おうではないか。


 だから、俺の視線に気付いたのなら足早に去っていくのは止めて貰えないだろうか。

 待ちたまえ。

 まずは言葉を交し合おう。

 会話こそ理解の第一歩だ、だから落ち着いて、俺は怪しいものではない。


 駄目だった。


    ※   ※   ※


 校門へ辿り着くまでの間に例のボブカットの少女が居ないか探してみたが、やはりというか駄目だった。

 駄目駄目続きなのは誠に遺憾だ。せめてツインテールの少女の誤解を解きたくて追いかけたのものの、彼女は更に速度を上げて逃げてしまった。遺憾である。


 校舎へ逃げ込む背中は一時見送ることにして、俺は気持ちを切り替えて門を潜った。


 校舎までの道は多くの人で埋まっており、どうにも彼らは新入生を歓迎するべくあれやこれやで賑やかしてくれているらしい。

 どこから調達したのか着ぐるみを着ていたり、文化祭の展示物じみた巨大アーチを潜らせるべく声を掛けている男子諸氏に、催し的にアリなのかは不明だが仮装をしている女子も数名居る。メイド、チャイナ、バニーと多彩だが、思春期的には目に毒だ。ちなみに男子も全く同じ仮装をしているのだが、アレもアレで目が穢れる。


 謂われ無き誤解を受けた身としては、先輩方の心遣いはありがたい。

 ありがたいのだが、やはり今はそっと身を引いて通り過ぎていこう。


 ツインテールの少女は最後全力疾走でここを駆け抜けていた。

 中々のスプリントぶりで、多少は運動が出来るつもりでいた俺でも追いつくことは出来ず、敢え無く見送ることになってしまったのだ。

 いたいけな新入生の初登校を飾る催しを台無しにしてしまった身としては、自らもその外側に置くべきだろう。


「君」


 催しを避けて通ろうとしていた俺へ、声を掛けてくる者が居た。


「ネクタイが曲がっているぞ」


 桜の花びらが胸元へ舞い散ってきた。

 伸びてきた手をそんな風に感じてしまったのは、あまりにも彼女の動きに気配が無かったからだろう。


 落ちる、という動作には溜めの初動が存在しない。

 故に僅かな判断の遅れが生じてしまうのだと、かつて騎士団長は言っていた。


 細い手指が丁寧な動きで俺のネクタイを調えている。


 不意を打たれた不覚を恥じつつも、俺は相手の顔を見た。


 女生徒、だろう。制服を着ている。なのに他の女生徒と違うと感じるのは、彼女があまりにも落ち着いた表情をしているからだろうか。

 艶やかな黒髪を烏の濡れ羽色と言うそうだが、まさしく彼女のソレは感嘆を溢すほどに美しかった。

 流水を思わせるほどに滑らかな髪は腰元にまで達しており、俺のネクタイへ注目した為か、やや前傾したせいで肩口から横髪の一部が流れ落ちた。

 目つきは柔らかいながらも凛とした雰囲気を持ち、口元には小さな笑み。先ほどの張りのある声はその唇から発せられたのだろう。竹を割ったような性格、かどうかは不明だが、竹を割った時のような心地良い声だった。


「うん、いい感じだ。ふふっ、どうしたんだ、初登校が待ち切れなくて走ってきたのか?」


 大和撫子とはこのような人物を言うのだろうか。


「いえ、少々不幸な行き違いがありまして。問題を正すべく行動していたのですが、ここに至って尚も解けぬままでした」


 応じた途端、弾かれたように少女が顔を上げた。

 そう、少女だ。

 一つか、もしかしたら二つは年上という程度の、少女。


 未だ名も知らぬ少女その二は、彼女を見ていた俺の視線とぶつかり「え?」と小さな呟きを溢した。


「どうかしましたか?」


 問い掛けるも、反応は無いままじっと見詰められる。

 いや、両肩を掴まれ、逃げる足を追って踏み込んできた。


「あの、先輩……」


 面識は無い筈だ。

 俺はつい先月になってこの町へ引っ越してきた。

 幼い頃に住んでいたそうだが、幼稚園に入るよりも昔の事で、仮に近所で会っていたとしても顔など分かろう筈も無い。今は、ネームプレートすら外しているのだ。


 指が食い込む。


「痛っ……」


 半分はわざとだったが、思いの他強く握られた為に痛みはあった。

 女生徒はようやく我に帰ってくれたらしく、慌てて手を離し、しかし某かを言おうとするも形にならないようで、


「生徒会長ーっ、男子が悪ふざけして新入生困らせてるー!」


「!? あっ、ああ! 今行く!!」


 催しの側から要請を受けて、女生徒の視線が外れる。


「あの、それで君――――」


 俺の判断は早かった。

 こういう時の対処はつい先ほど学んだばかりだ。

 つまり全力疾走で以って対象から脱兎の如き逃走を果たしたのだ。


 あぁ因みにコレは余談であるのだが、


「ぴぃっ!?」

「ふむ、ここで出会うとは好都合」


 ツインテール少女とは同じクラスだった。

 彼女は俺を見ると一目散に逃げ出して、俺も彼女を見て一目散に追いかけた。


「待ちたまえ相原あいはら 宇佐美うさみ! 君は誤解している。それを解かせて欲しいだけだ!」

「なっ、なんで名前知ってるんですか!? まだ自己紹介だってしてないですよぉっ!?」

「ふっふふふふ! それを知りたければまずは脚を止めてじっくりたっぷり話をしようではないか!」

「結構ですぅっ!? 今後ともどうぞ無関係で生きていきましょう!!」


 しかしまあ、女子トイレへ逃げ込んだ上で学校側へ通報するとは、中々に状況判断能力に優れた人物だ。

 おかげで俺は始業式を生徒指導室にて過ごすこととなり、ホームルームで合流した後も席の離れた彼女と話す機会は持てなかった。


 一之瀬、と、相原、なら初期位置として近しいと思ったのだが、何故か男子は逆順で席が定められていて、俺はめでたく教室奥の後方という好立地を獲得したのだった。


    ※   ※   ※


 チャイムが鳴った。

 臨時で指定された日直の号令に従って起立し、礼をする。


「はぁい、皆さん初日お疲れ様ですぅ。入学初日だからって浮かれ過ぎないようにしてくださいねぇ」


 ふんわりした担任教師の言葉が終わるや否や、俺とツインテール少女こと相原は動き出していた。

 そして早々に驚愕させられることとなった。


「なっ!?」


 やはり彼女は只者ではない。

 正順で並ぶ女子の第一列は教室廊下側を占有しており、あ、と、い、を続ける名前の彼女は最前列に席を持つ。

 当然ながら不利は察していた。しかし机を回り込み、閉まったままの扉を開け、廊下へ飛び出すには数度の制動を要する。対して俺は最後方の空きスペースをたっぷり活用して教室後ろ扉から一直線に廊下へ飛び出せば、十分に彼女の頭を抑えられるものと思っていた。


 しかし彼女は廊下とを隔てる壁の下部にある引き戸を予め開けており、担任の言葉が終わるや否や扉ではなく引き戸の隙間へ身を投じて廊下へ出たのだ。

 タイミングも絶妙だった。してくださいね、の、くださ、の辺りで動き出している。あれならば言葉の締めくくりに初動が被り、見た目には言葉を無視して動き出したようには見えない。僅か一時間程度のホームルームだったとはいえ、教師の呼吸を読み、言葉の流れを読み、あそこで言葉が終わることを完全に見切っていたということか。流石は時にエスパーにも例えられるほどに空気を読むと言われる日本人だ。未だ学生の身とはいえ、十五年の経験は伊達ではない。


「くっ、待つんだ相原! 話を!」

「いーやーでーすーぅっ!」


 大きく先行を許したものの、俺とて無策で臨んだ訳ではない。

 ホームルーム中に後ろ扉前の席に座る女生徒へ手紙を回して開けてもらっていたのだ。

 未だ距離は絶望的ではない。

 しかも人の往来があった登校時とは違い、ホームルーム明けの今は廊下に人影は無い。


 そう何度も遅れを取るとは思うな。

 俺とて五十メートル走は上位に食い込むタイムを保持しているのだ。


「廊下は走っちゃだめですよぅ?」


 いざスプリント、と駆け出そうとした俺と相原が固まる。


「校則はちゃあんと守りましょうねー」


 ふわふわしていてもやはり教師か。言い知れない迫力を感じつつ俺達は全力疾走から早歩きに切り替えた。


「はぁい、怪我の無いよう気を付けて帰ってくださいねぇ」


 しかし、あそこまでして逃げようとしていたというのに、教師から指摘を受けた途端に走るのを止めるとは、やはり彼女は理想的日本人でもあるらしい。バスや電車ではキチンと並ぶ。火災や地震が起きても慌てず騒がず、ゆっくりと歩いて退避する。右に倣えがこの国の民族が持つ気質だ。欠点も確かにあるが、美徳の一つとも言えるのも間違いではない。


 しみじみ考えていたら、角を曲がった途端に彼女は駆け出していた。


「あ、おい!?」


 なんという油断……!

 そうか、教師の目が無いのなら守る気など無いと、そういうことか!

 いやそもそも早歩きに切り替えたのは誘い!? 俺の同調を引き出し、油断させ、初動で確保した距離的アドバンテージを生かして引き剥がそうと!?


 慌てて走って追いかけようとするも、背後から謎の迫力を感じて俺は早歩きを続けた。角を曲がる。居ない!!


「おのれ相原っ、必ず君と話をするぞ! 覚えていろ!」


 今思えば走るなと言われた際に数歩勢いのまま駆けていたのも、この曲がり角が勝負所と読んでいたからだろう。

 抜け目の無い女だ……次はより周到に準備を重ねて追い詰めるべきだろう。


 ふふふ、この俺から何度も容易く逃れられるとは思わないことだ。


「随分と気合の入ったナンパだな、新入生」


 横合いからやってきた声には覚えがあった。

 アキト、と呼ばれていた男。

 名札と生徒手帳を配られた今ならば分かるが、彼は二年生であるらしい。


「いえ先輩。ナンパではなく、誤解を解きたいのです。彼女は俺のことを誤解している。じっくり話し合い、理解を深められたらと思うのですが」


「逃げ回る兎を捕獲するには追いかけるんじゃなくて、罠を仕掛けることだ。餌付けなり、欲しいものを目の前にぶら下げてやれば向こうから寄ってくる。追われりゃ逃げる、そういうもんだろ」


「成程。彼女の過剰なまでの反応はもしかすると、俺の事を怖がっているのではないかと思っていたのですが、どうやら生物的な反射行動だったようですね。罠というのは良い案です。まずは彼女の好物や欲求を徹底的に調査することから始めましょう。助言、感謝します、先輩」


「ん~……まあ、頑張れ」


 もじゃもじゃ頭を掻きつつ、先輩は学生鞄を肩に歩いていった。


 今更だがこの曲がり角、一年生棟と二年生棟の合流地点であるらしい。

 気になって覗いてみたが、朝一緒に居た女生徒の姿は無かった。


    ※   ※   ※


 入学初日を終え、諸所の事情を終えた後、俺は家から徒歩十五分ほどの場所にある山中へ来ていた。

 中腹にある神社へ向かう参道の途中、わき道へ逸れて入ると広場があり、目論見通りに人気は無い。祭りとなれば出店が立ち並ぶことになる場所とあって広さは十分。街灯は少ないものの、月明かりが強くて慣れれば視界には困らない。


 明日にも授業があるというのに深夜になって出歩いているのは、ある検証をする為だ。

 検証内容を提示しよう。


 この世界では超常の現象が起こり得るだろうか?


 ふむ。


 少なくとも、異世界転生は起きたのだ。

 未だ再現性を見ない、仮説に過ぎないものではあるのだが。


 あの生々しくも鮮烈な記憶が全て俺の妄想であるという説も確かに存在する。しかし心情的には否定したくないものだ。同時に、記憶というのは非常に曖昧なものでもある。一度思い出したからといって、今後一切変質しないとどうして言えるだろうか。時を経る毎に、経験を積むほどに、知れず書き換えが行われてしまうという危険は常に付き纏っている。

 ただでさえこの一之瀬 仁という少年の経験則によってバイアスの掛かった記憶だ。

 物事の好悪も、些細な判断に対する思考も、虚空から沸いてくるのではない以上は主観によって捻じ曲げられる。


 検証はより正確に行われるべし。

 故に俺は、出来うる限りの記憶を文字に書き起こし、客観性を損なわないよう慎重に慎重に記憶を固定化していった。


 その中で問題となったのが、魔法という存在だ。


 かつての世界ではそれがあった。

 正確に言えば、それに類する行為を、俺や一部の者は当たり前に行使していた。

 日常に根差し、信仰を育み、文化として浸透し、人が肉体以上の力を持つという条件下での道徳と悪徳が混在し、時に途方も無い変革を呼び込みすらしていたのだ。人間の思考や精神に感応して物理現象が生み出されるなどエネルギー保存の法則に対する挑戦状だ。相対性理論によって冥王星が発見されたように、今日も世界中の数学者達がこの世は閉じた系であると信じて公式を組み上げている。

 魔法というのは言ってしまえば、固定化されている筈の数値をカオス理論すら足蹴にして意図的な揺り動かしを発生させる現象だ。


 あるいはどこかで辻褄が合わせられるのであれば、それこそ相対性理論こそが魔法の存在を証明してくれるのかも知れない。


 冷戦下で二大国が競って開発を進めていたというエスパーも、憶測を基にした結果ありきの研究だったと言える。

 未だ解き明かされぬ法則性などは、二重スリット実験を講釈するまでもなく山と存在しているのだ。


 故に俺は魔法の存在を否定しない。


 三次元空間が閉じた系として完全に機能していると誰に証明出来る?

 他次元からこぼれ落ちるようにして法則が部分的書き変わることは無いだろうか?

 無論容易なことではないだろう。

 偶然という理由を排除するのであれば、意図的に再現するとなればそれは、より低次元への干渉に留まる。

 低きから高きへと干渉しようとするなら、尋常ならざる手段が必要となるだろう。


 言うなれば上位存在への干渉か。


 安直に神と評するのは思考を三次元に囚われ過ぎているが、概念的に近いと言えるのも確か。

 神に干渉し、操り、あるいは奏上し、希い、一定の、再現性のある結果を引き出すことが出来たなら、魔法は科学へと化ける。

 この世界が、閉じた系ではない、次元の壁を突破し意図的な法則の変異を促すことが可能であるという、酷く不安定な状態で成り立っているという前提を必要とする、非常に困難な学問ではあるが。


 しかして。


 そう。


 少なくとも、異世界転生は起きたのだ。


 魂は循環する。前世の記憶を内抱しながら世界の壁を越え、新たな命として肉体に宿ることが出来る。あくまで、仮定に過ぎないものではある。コレを否定するのであれば、たかが十四歳の平凡な少年が瞬間的に一個の世界の歴史や法則や人物を想像出来てしまうという現象を証明しなければならない事も、また忘れてはいけないのだから。


 せめて再現性を得られたなら。

 そう思ってならない。



――――だからな、やるならちゃんと前提条件を揃えて貰いたいものだ。



 異世界転生の条件はリア充爆死。

 まずはそこから始めようというのに、今の俺はリア充でもなければ、迫る死因は爆死ですらない。


「否定しないとは言ったが、よもや目の前に現れようとはな」


 重い足音が響いたかと思えば、それは木々を薙ぎ倒して広場へ飛び出してきた。

 街灯の端を掠めて浮かび上がったのは白い体毛。前肢は二つ、後肢も二つ。四足歩行の獣であることは観測した。しかし大きさが常軌を逸している。かれこれ数年は動物園なぞ行った記憶もないのだが、体感で象やキリンよりも大きいのではないだろうか。

 その化け物じみた、というよりは化け物そのものと言える大きな影がのっそりと身を起こす。


「――――――――!!!」


 月に吠える獣の遠吠えが鼓膜を、肌を、指先を震わせる。


 巨大な狐だ。


 妖狐と呼ぶべきか。

 俺の頭どころか胴体ごと丸齧りに出来そうな巨体に、さてどうしたものかと思案する。

 先ほどから山頂側の森林部がやや騒がしいとは思っていたのだが、木々を薙ぎ倒して妖狐が飛び出してくるなど流石に予想外である。


 見敵必殺を是をしているのか、運悪く空腹時に捕捉されてしまったのかは不明だが、妖狐は吹き飛ばした大木に片足を掛けつつ俺をはっきり目視し、身を沈みこませた。


 来るか。


 深夜、人気の無い広場、そういう場所を選んで検証していた事実は仕様の無いことだ。

 家人が寝入る前に抜け出せば心配をさせてしまう。

 故に深夜を選び、迂闊に再現されてしまえば多くの注目を集める危険性から、人目を避けての検証作業だった訳だが、こうして超常現象としか言い様の無いナニカの方からやってくるとはな。


 加えて、おそらくだが対話は不可能。

 矮小なるニンゲンよ、とかなんとか言ってくれれば交渉も始められるだろうに、問答無用で襲い掛かってくるとは困ったものだ。


 脚には自信を持っていたのだが、今日は単純な脚の速さと逃げ足は別物であると思い知らされたばかりである。


 しかし吉報でもあった。

 流石に人類最速の男でも十メートル超の巨大な妖狐より早く走れるとは思えない。二メートル前後の獣相手でもボロ負けだからな。だが速力で劣るからといって逃げ切れないと決め付けるのは早計だ。


「ランニングをする際に口元を布で塞ぐ者が居るのを知っているか? まずはその理由を思い知ると良い」


 俺は検証の為に廃品回収から拝借してきた、本を束ねた紐を掴み、大口を開けたまま迫る妖狐へ向けて投げ付けた。

 同時に横へ跳ぶ。


 はてさて妖狐に生物としての生理現象が存在することは証明された。


 生物として呼吸を続けるのであれば、走って息を乱し、勢いの付いた状態で進んでいる時に口元へ飛び込んで来たモノを確実に回避するのは難しい。運動は大量の酸素を消費する。故に呼吸はどうしたって荒くなり、吸うという行為に無防備さが生まれる。しかもこういう時は決まって息を吸っていて、異物は一気に喉まで達する。まして相手は狐。咀嚼する頬皮を持たず、噛み千切って呑み込む類の生物というのは喉が開きやすく誤飲が多い。口の中で確認するという作業が異様なほど短いことも無関係では無い。故に吐くなりそのまま胃袋へ収めるなりに慣れてはいるだろうが、喉を通る食料とならない固形物など、生理的に拒絶感を覚えるのは当然の事。そういう機能を持たない生物は簡単に死ぬ。生物的に、無くてはならない機能だからな。


 妖狐は転倒こそしなかったが、すぐの動き出しが出来ず、幾度も吐くような喉の動きを繰り返し、気持ちの悪さ故か目を閉じた。


 俺は妖狐に向き合ったまま地面を蹴るようにして距離を取っていく。

 これも今日学んだ所だ。

 追われれば逃げる。

 逃げられれば追いたくなる。

 実に生物的な原初の衝動。

 背中を見せて逃げられればさほど興味が無かったとしてもついつい追いかけてしまうものだ。

 個人的に相原の誤解は今後の高校生活を平穏なものとするべく解いておかねばならないと真剣に考えているので、俺が動物的な衝動に駆られているのではないことは理解して貰いたい。


 さて生物が他の生物を襲う理由はそう多く無い。


 捕食、遊戯、人間であるならば依頼や怨恨なども可能性に登るが、流石に妖狐から恨みを買った覚えも、妖狐をけしかけてくるような知り合いも居ない。

 腹が減って迷い出てきたのであれば今からでもコンビニに駆け込んで諭吉を生贄に捧げる覚悟も決めよう。問題は遊戯だった場合だ。遊ばれているのであれば、相手が満足するまでこの追いかけっこは続く。最初にあっさり負けていれば興味を無くして去っていったのかもしれないのだが、既に手を出してしまった為に恨みを買った怖れもある。

 出来れば嫌なことをしてくる相手と判断して撤退してもらいたいが。


 やがて広場を抜けて参道へ入ろうという頃になって、喉の気持ち悪さが取れたらしい妖狐が明確にこちらを見定めた。


「鳥居は潜れまい、と言いたい所だが、根元から蹴散らして追ってきそうだな」


 鳥居の構造には詳しく無いのだが、現代の家屋で言う基礎建築をしているとも思えないし、鉄骨とコンクリートで地中深くに固定しているとも考え難い。有識者の意見が欲しい所だが現状連絡を取り合っている余裕も無い。


 問題は神社へ向かうか、参道を降りて市街地へ逃亡するかだ。

 八百万の神を信じるならば神社へ入れば妖怪の類は入って来れない筈。

 それが嘘八百であったなら俺は逃げ場を失って狐のお夜食になる怖れがある。


 神も八百、嘘も八百。実に天秤の釣り合いが取れてしまっていて困った。いや、神は八百万だったか。桁違いとは流石神。


 思案していたのは一秒ほど。

 どちらを選んだのか、後になって思い返してもイマイチ思い出せない。


 なにせ逃げ出すより早くに参道の側から飛び出す者が居たからだ。



――――ピシリ、と何かが軋むのを感じる。


 人影は、いや女は、いや少女は――――



「関係無い人まで巻き込んで……っ、これ以上好き勝手なんかさせない!!」


 俺の良く知る高校の制服に身を包んだ、確かハルナと呼ばれていた二年の先輩が、身の丈を越える長槍を手に襲い来る妖狐へ向けて駆け込んで行き、


「水?」


 その背後から続く大量の水が矛先へ向けて流し込まれ、巨大な妖狐の突進を押し留め、押し流し、そして……


「ごめん」


 額にあった紋を矛先で貫いた。

 妖狐は一度だけ跳ねるようにして痙攣し、けれど糸が切れたように力を失って横たわった。

 薄く黄色掛かった白色の体毛を持つ巨体はやがて蛍火となって掻き消え、天へ昇っていった。


 気が付けば、曇りは晴れ、月が覗いていた。


    ※   ※   ※


 状況を確認しよう。


 人目を避けるような時間、場所、そして今見た超常現象の数々は意図的に起こされているように思える。

 つまり、このハルナ先輩は一定の再現性を以ってあの津波のような水を生み出し操っていたということだ。

 あれだけの水量は気が付けば掻き消えていて、蛍火となって消え失せた妖狐同様に質量保存の法則に従って生じたものでは無いらしい。


 そして襲い来る謎の妖狐。


 彼女の口振りもそうだが、戦いぶりには慣れを感じた。

 少なくとも今し方得た力をがむしゃらに振るっているというよりは、やはり一定の熟達が見られる。


 この暗闘は彼女の腕が磨かれる程度には続けられてきたものだ。


「ふむ。これは」


 深夜の出会い、不可思議な現象、そして何より月明かりに照らされた美少女だ。


「成程、これがボーイミーツガールというものか」

「ん? あれ、君って今朝見た――――」



「おう無事か。ん、おう、確か仁とかっていう新入生だよな?」



 大振りな倭刀を手に現れたアキト先輩を見て確信する。


 これはボーイミーツガール。

 そして、


「俺の立ち位置としては巻き込まれた脇役その一といった所ですか」


 残念ながら物語は始まらない。

 俺の人生は、日常は、未だ強固に固定されている。


「日々世界の平和の為に暗闘を続けている先輩方には敬意を表したいと思います。ただ申し訳ありませんが、俺には守るべき家族が居るので、心配事は預金口座と月ごとの光熱費と食費だけに留めたいと思っています」


「妙な理解の早さと生活感に軽く引くわ」


「うーん、でも食費なんて考えて食べてるとほら、おいしさが半減しない?」

「問題ありません。低コストでありながら十分な栄養が摂取できるよう常に計算は怠っていませんので」

「そっか。半額のお弁当とかでも結構おいしいもんね」

「長期的に見ればプランターを用意して自家栽培することでより予算を抑えられますよ」


「噛み合ってないぞ。お互いちゃんと相手の話は聞こうな」


 ともあれ折角の事態ではあるものの、


 俺にとっては全く、


 これっぽっちも、



 関係――――ない!




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