クロス×レコード

あわき尊継

第1話

 リア充が爆発したらどうなるか、ご存知だろうか。

 経験から言おう。


 異世界転生するのだ。


 方々から否定の声が聞こえるようだが、まずは冷静に考えて見て欲しい。

 科学とは何だ?

 そう、科学とは起きた現象に対して仮説を打ち立て、検証を繰り返すことで近似値としての正解を構築していく学問だ。ここに世間一般とやらの印象、つまりは科学的であるか、オカルト的であるかということは関係が無い。

 一定の再現性を持ち、再現する為の法則さえ掴めてしまえば、世界を超えて生まれ変わることさえ腹の内へ収めてしまうのが皆大好き科学というものだ。


 あぁ些か勇み足の結論であったことは認めよう。

 とはいえ一つの現象が生じている以上、まずは仮説を打ち立て検証することから始めなければならない。

 最初のもしかしたら、はシンプルであった方が良いだろう。

 検証を繰り返す内に様々な、別種の共通点が見付かる可能性はあるだろうから、下手に専門的な思考へ寄り過ぎて視野狭窄へ陥るのは最も避けねばならない。


 故にリア充爆死イコール異世界転生という仮説から始めようではないか。


 一つ問題点があるとすれば、この件は非常に検証が難しい、ということだ。


 なにせ爆死して貰わなければいけない。

 ここにリア充という条件を加えれば、自殺志願者を探すのは容易なことではないだろう。

 リアルの充実した者だからな。毎日が楽しすぎて、嬉しすぎて幸せすぎる感じのイケイケでウェーイなパリピなのだから。

 そこらの遊園地か商業施設か、あるいは地下のダンスパーティ会場かラ○ホテルにでも数十キロのプラスチック爆弾を送り届ければ数だけは稼げるだろうが、個人的にテロリズムは経験上断固否定したい所存である。


 なので倫理観の崩壊を避ける為にも、もし近日中に爆死予定のリア充もしくは異世界転生を果たす予定の者が居れば是非連絡してほしい。


 さて、他者から情報を求めるだけでは話が進まないだろう。


 ここからは仮説の元となった出来事を提示しようと思う。


 私は言った。

 経験から、と。


 そう。


 自ら名乗るのは面映いものではあるものの、私こそがリア充でありながら爆死して、この日本という土地への転生を果たした人間なのだ。


 では、検証といこうか。


    ※   ※   ※


 最初に前提条件を確認しよう。


 まず、私がリア充であるかどうかという点だ。

 現在の私は資金的及び時間的な理由により統計学者と笑顔で握手出来る程の数値を提供は出来ないが、一般論的に言えば結婚とは幸福の絶頂だ。その後に上がるか下がるかは別として、結婚式時点では絶頂期と呼んで差し支え無いだろう。

 私が爆死したのはそう、婚約者との結婚式当日。まさしくリア充絶頂期だと言える。

 それがあくまで王族同士の政略結婚であり、顔を合わせたのでさえ式前日だったとしても、だ。


 あぁ補強要素として王族というのは重要だろう。

 何しろ金がある。辺境と呼ばれることもある僻地で、歴史の長さだけが自慢で特に書き記すような事など何も無い、一次産業主体の長閑な国であったとしても、およそ個人が持ち得る資産としては破格と言える。


 この式を終えた後、私は排した現国王と継承権一位の兄を更なる僻地へ追いやり、名実共にスィヴェール王国の支配者となる予定だった。

 不平等条約を結ばされたお隣の成り上がりクソヤンキー国家の、事実上の属国となる運命にあったとしても、そして結婚相手というのがそこから押し付けられた売れ残りの三女であったとしても、まあ客観的に見ればリア充だ。少々欠点があるとすれば、式当日でさえ政務の量に圧殺されかけており、正直たまに意識が飛ぶほど疲労困憊状態だった点だが、望んで得た地位故であることを考えれば趣味を仕事にしたと言えなくも無い。


 金持ち、地主、仕事も充実、そして結婚式当日。


 およそ考え得る中でも相当上位に食い込むリア充ぶりではなかろうか。

 ふむ。


 少々否定材料があるようにも思えるので、一つの要素へ着目した上でリア充検証を行おうではないか。


 当日から一日程時間を巻き戻し、私が婚約者と初めて顔を合わせた時の出来事だ。


「貧乏くさい場所ね」


 彼女は最初にそう言った。

 両国の関係を深めるべく結婚という政策が取られた訳だが、これはもしかして我が国を挑発して戦端を開く口実作りではないかと疑ったものだ。


 そして困った事に彼女という人間の、第一印象たる見た目について私はこの時点で報告する術を持たない。

 なにせ我が婚約者は初顔合わせだというのに折り重なったヴェールを着用しており、晒した耳元や横顎のラインから輪郭を想像するのがやっとという程度なのだ。折角歳若い女性が出てきたというのに美少女アピールも出来ない事には遺憾の意を表明したい。


 結果としてだが、顔を隠した婚約者の第一印象は、彼女自身の呟きによって構築された。


『貧乏くさい場所ね』


 ふむ?


 とはいえ嗜める侍女が付いていた事から、言動の理由としては彼女の性格故と判断出来るのかも知れない。

 私は先ほどの一言を無かったことにして、賓客用の客間にて自ら出迎え、物心付いた頃から磨いてきた王子スマイルで微笑みかける。


「お初にお目に掛かります。スィヴェール王国第二王子、アーヴェン=リラ=スィヴェールと申します。今日この瞬間を一日千秋の思いで待ち望んでおりました。本日私の目前にて国鳥とされている大鳥が日の出と共に東へ飛び立ちました。我が国の占い師によれば大いなる吉兆を示すものとのことで、私は貴女との出会いがまさしく王国に繁栄を齎すものであろうと――――」


 云々かんぬん。

 

「――――それでは姫、長旅によりお疲れではありましょうが、どうかこの一時を貴女と過ごさせては頂けないでしょうか」


「嫌よ。疲れているの、休ませてくれない?」


 王子スマイル継続。

 継続しつつ、私は先ほど彼女を嗜めていた侍女へ目を向けた。


 髪を両サイドで括った女が進み出て声を掛ける。


「姫様、本来であれば到着した二日前に顔を合わせる約束だったのを、お疲れということで今日まで延ばして頂いたのですよ?」

「でも疲れてるのよ……」


 よもや従者にフォローさせることで国としてはそのつもりなかったんだー、としつつ姫を過剰なまでに暴れさせて戦端を開く口実作り? などという思考が頭を過ぎったが、仮にそうだとしてもこちらが怒らなければ何の問題も無い。


 私は今、王国のすべてを背負って立っているのだ。頑張れ私。ふぁいとだよ。

  

「それでは今日までの状況を、明日の参列の為にいらっしゃる予定の父王陛下へご報告致しましょうか?」

「…………分かったわよ」


 多少想定外の事態はあったが、何はともあれ茶会は始まった。


 予め覚悟していたのでエスコートを拒否されたことに笑顔は崩れず、王国一の家具職人が拵えた椅子と机には流石の姫も文句は言えなかったのか素直に着座してくれた。

 対面の席は開けたまま、私は用意させていた茶器を手に取る。


「……王になろうという者が自ら下女の仕事するの」


 言葉とは裏腹に、声音は不思議と浮付いて聞こえた。

 御付きの面々は表情こそ動かなかったが、驚いて意図を計りかねている者も多い。


 この部屋には当然ながら身の回りの世話をする付き人が部屋の隅で待機しているし、警備の為に騎士団長自らが私の側で不動を貫いている。加えて警備に混じった宰相が彼らを観察しているので、姫の周辺における力関係なども後で報告を受けられるだろう。

 今私がするべきは観察ではなく、歓待だ。


「諸国では珍しいこととは聞いておりますが、私の母は茶人として名の売れた女でした。農耕の盛んな我が国では、とても良い茶葉が取れる為、昔から優れた茶を淹れられる者というのは王室にも招かれ、重要な会議などで手前を振るうことも多かったのです」


 手にした茶器は華やかとは言えぬものの、スィヴェールの長閑な景色を現すように素朴で美しい。

 人の手による美もまた素晴らしいが、自然にあるものを再現することで美を追求した、実に味のある逸品だ。


 そして、


「これは私の母の実家で二百年以上前から使われてきたもので、王に見初められた時に持ち込み、以降は国宝として扱われてきたものです」


「だったら、その名手の茶を飲みたかったものね」

「姫様」


 慌てて嗜める侍女の声を聞きながら、自然と笑みで振り返れた。

 母の遺したものに触れていたからだろうか。


「母には遠く及びませんが、私も先だって師範より茶人の端くれとして認められた身です」


 国賓相手に振る舞う以上、必要最低限の称号という政治的な理由が混ざった、実にきな臭い認定ではあったが。


「今回は、初めて顔を合わせる姫へ、私自らの手で振舞いたいと我が儘をさせて頂きました」


 修練は積んだ。

 積み上がった政務を宰相以下信頼出来る数名と共にこなしつつ、なんとか時間をやりくりして仮初めの称号に恥じぬよう、それこそ寝る間も削って。


「どうぞ」


 差し出された茶器を姫はじっと見詰めた。

 ヴェールの奥に隠れた表情は分からなかったが、僅かに顎が引かれ、動かぬことから、そのくらいは察せられる。


 何を思っているのだろうか。やはり付け焼刃では一国の姫を誤魔化せはしなかったか。あるいはこれまでの悪態同様にお前の淹れた茶など飲めんと突き返されてしまうのだろうか。床に捨てられる、茶を振り掛けられる、までは想定内だが。


 理想的反応を返すべく試行錯誤していると、姫は優美な所作で茶器を手に取った。

 細長い指先を包む、縁をレースで彩られた白い手袋。宝物を扱うように、どこか恐れを感じさせる固さを孕みながらそっと持ち上げ、


「ぁ……」


 私は静かに背を向けた。


 確かに、ヴェールを付けたままでは茶など飲めないか。

 御付きの一人が寄っていく気配があり、少しして小さな吐息が耳元を撫でた。


「美味しいわ」


 敢えて聞かせたのだろう足音が離れていくのを察して振り返ると、先ほどまでと同じように澄ました様子で座る姫の姿があった。

 顔色は、相変わらず分からない。

 ただ唯一見えている耳元が少しだけ赤くなっている気がした。

 失敗して恥ずかしかったのだろうか。

 残念ながら前の状態をあまり観察していなかったので気のせいという可能性もある。


 ふむ、残念とな?


 それから私も席に付き、一口味わった後は会話に注力した。

 自分でも中々な出来だった為か、姫は机を挟んで向き合いながらも、時折背を向けて御付きにヴェールを持ち上げさせながらちまちま飲み続け、私の淹れた茶を飲み干してくれた。

 続けて今度は師範自らが手前を振るってくれたので、


「やっぱり、こちらの方が美味しいわね」

「まだまだ及ばぬという事ですね。次があれば、この味に近付けるよう精進致しましょう」

「そう」


 背を向ける彼女にこちらも慣れた調子で背をむけて、


「でも私は、さっきの味も結構好みだったわ」


 御付きは中々離れていかず、しばらく背を向けあったまま。

 珍妙な時間の後、向き合った彼女の耳元は、さっき見た時よりも白く健康的だった。


「それは光栄です――――イーリス姫」


 初めて呼んだ彼女の名は、口の中で甘く蕩けた。


 イーリス=ヴァン=クロノハル。


 明日には妻となる者の名を再び心へ刻み、仄かに渋みを効かせたお茶で甘さを喉の奥へと流し込んでいく。


 ヴェールの向こうは未だ覗けはしなかったが、形見の品へ触れた彼女の所作は目に焼き付いている。

 父を裏切り、兄を裏切り、既に人の心など失ったと思っていたが、倉より持ち出した政治的印象操作の為の道具には思っていたよりずっと、私の想いが残っていたのかも知れない。

 被っていた埃を彼女の満足げな吐息が払う。

 どこか、子どもっぽい声で。


「うん。さっきの方が好きよ、アーヴェン」


 飲み口をそっと撫でる指が、茶器に触れた手袋越しの爪先が、ほんの少しだけ私の心を引っかいた。


    ※   ※   ※


 背後に膝を付く音で私はほんの短い間、意識を飛ばしていたことに気付いた。

 腹へ力を込めて息を吸う。

 顔の角度は変わっていない。

 目線だけを上向かせ、染め上げたような青空を眺めた。


「どうした」


 声は小さく、後ろへ放る。


 少し離れた所にはイーリスが御付きと何やら暇つぶしの雑談を始めており、私達の前にはかれこれ二百年分は王国の興りと神の奇跡を語り続けている大司教が居る。


 現在は結婚式の真っ只中。

 城下の広場を望む四階のテラスより、民と方々の貴族らにリア充アピールをしている訳だ。


 角度的に広場の民衆からも、賓客用の観覧席からも見えない死角より、渋めのおじ様ヴォイスが囁かれた。騎士団長だ。


「少々、この場を離れたく存じます」

「許す。以降許可は不要だ。私の権限で以って事に当たれ」

「宰相を残して行きますので、何かあれば彼を」

「良い。行け」


 手早く話を終わらせると、今度は音も無く騎士団長が離れていった。

 幾つかの可能性が頭を過ぎるものの、今の会話だけで正解を導き出すことは出来ないだろう。

 この重要な式典中に敢えて騎士団長自らが現場を離れるのだ。説明は後回しにしてでも即応させるべき。

 ふと目をやれば、宰相の席でも動きがあった。


 警備として動き回れる騎士団長とは違って、政治的立場の強い我々は席を立つ訳にもいかない。

 というか、私が離れたら誰がイーリスとの式を挙げるというのだ。


「おそらく、先日脱走した魔導士の足跡が掴めたからだろうとのことです」


 宰相から送られてきた伝令が告げる内容に、私も僅かながら眉を寄せた。


 結婚式の最中という政治的配慮を要する状況であると同時に、対象に関しても無闇に口外出来ぬものだったか。

 騎士団長自らが動くという時点で予測出来たことだが、おそらくは問題あるまい。


 騎士団長、そして宰相は、私が現国王と第一王子を追い落とす動きに率先して加わり、事を成し遂げた要因となった二人だ。

 忠誠心に関しては疑いようも無く、実力は王国に比肩する者や無し。

 万が一にでも裏切られたなら、私は自らの命を差し出すことも厭わないだろう。その覚悟で信頼し、同時に王として君臨し、両者を統治し続けるという自負があった。この二人を支配出来ぬようであれば、私にスィヴェールを支配する資格など無い。


「一体いつまで続けるつもりなのかしら」


 そんな時に、聞こえよがしな声がふらりと踊り出る。


 先日の初顔合わせ以来、方々で悪態を振り撒いてクロノハルの威信を見せ付けるイーリスへ、私はそよ風に吹かれたような気持ちで目をやった。


「普段やることもなく、目を向けられるほどのカリスマが無い者ほど用意された舞台ではよく喋るものよね。今日の主役が誰であるか、弁えて貰いたいものだわ」


 彼女は婚儀に際してもヴェールを着用していた。

 身に纏う結婚衣装は見事なもので、見劣りし過ぎない様奮発した私の衣装が霞むようだった。

 急成長を遂げたクロノハル王国。その財力を見せ付けんばかりの輝かしさ。

 属国としての立場を考えれば格落ちで並ぶのが礼儀というものなので、彼女が輝いて見えるというのは重畳だ。


 しかし、暇なのは分かるが脚をぶらぶらさせるのは止めなさい。


 姫の声が聞こえたのかどうかは不明だが、ようやく大司教は話を纏めに掛かってくれたらしい。

 二百年分を語りつくした十分の一ほどの時間でもう二百年を語り始める。もういっそ飛ばしてくれても構わないのだが、性分なのか軌道修正に難儀しているのか、時折わき道に逸れては姫の愚痴で後ろから刺されている。


「ふふ。耐えて黙っているだけでは駄目よ。思う儘を口にして状況を動かすことも必要なのよ」


 新興国家らしい考え方だが、スィヴェールでは長らく教会との良い関係を築きながら共栄してきた背景がある。大司教も話が長いだけで盆栽が趣味な気の良い老人なので個人的な攻撃は控えるよう後で言わねばなるまい。


 ヴェールの奥でおそらくはドヤ顔を決めているイーリスへどう諭したものか、考えていると状況が動いた。


「それでは神に祝福されし二人をここへ」


 大司教の唱えに応じて立ち上がる。

 イーリスが少し遅れたが、まあ許容範囲だろう。


 盛大な音楽と共に花びらが撒かれ、広場から喝采と悲鳴にも似た歓声が挙がる。

 何割かは長話が終わった喜びかも知れないな。


「お手を」

「……えぇ」


 指先がほんの少しだけ触れる。

 やはり、女性の指らしく細く繊細で、強く触れれば崩れてしまいそうなほど危うく震えている。


 何故ここまで緊張しているのだろうか、などと考える時間はもう過ぎた。


 一歩。


 結局彼女の両親は、クロノハルの王と后は、スィヴェールへやってこなかった。


 二歩。


 前以って分かっていたことだ。

 相手から来ないとの通達は無かったが、国内へ入ればこちらで歓待しつつ誘導することになるので当然だろう。


 三歩。


 我が国の辿る未来も同時に見えた。

 クロノハルはスィヴェールを重視などしていない。

 元より土地としての価値が薄かったからこそ、大陸の中心とは成れず、辺境などと言われている国だ。


 四歩。


 同時にイーリスの立場も見えただろう。


 五歩。


 今日この場にクロノハル王が居ないこと。

 それは方々の貴族に知れ渡った。


 六歩。


 彼女は捨てられた。


 七歩。


 戦端が開かれることは無いだろう。

 価値が低いからこその扱い。

 戦っても旨味は薄く、売れ残りの姫を一人放り投げて、後は適当に扱うだけ。

 裏切りの可能性を下げられたなら十分だとばかりの行為。


 八歩。


 元々良い噂は作られたもの以外に聞かなかった。

 私とて結婚相手の情報くらいは集める。

 手紙で数度やりとりはしたが、文章を考えたのが別人という事だって考えられる。


 九歩。


 加えてあのヴェールだ。

 ここまで頑なに顔を隠すということは、ソレが原因で相手が見付からなかった可能性も浮かんでくる。


 十歩。


 彼女の容姿についても調べさせたが、お決まりの美辞麗句ばかりで真偽の程は疑わしい。

 私はコレを政略結婚と割り切っている。

 結婚できなかった理由が性格であれ顔であれ受け入れるつもりだ。

 王族にとって重要なのは世継ぎを産めるかどうか。彼女が私を拒絶したとして、その義務さえ果たしてもらえるのであれば、後は多少の我が儘も許容するし、自由にしてくれて構わない。最悪妻としての役割は第二妃に担ってもらうことも出来る。


 だから、あくまで容姿を調べたのはいざ顔を合わせた時に表情を変えぬ様、間違っても悲鳴など上げぬ様、覚悟しておく為だった。


 十一歩。


 辿り着いた。


 身を引いた大司教の立っていた、一段上がった壇上に立ち、最早殴りつけるような大歓声を受けながら彼女と、イーリス=ヴァン=クロノハルと向き合う。

 ここまでのエスコートでも触れるだけだった指先が離れる時、また少しだけ、彼女の爪先がこちらを引っかいたような気がした。


 大司教が何か言っている。

 どうせ、神に纏わる称賛なり、祝福なりを語っているのだろう。


 ヴェールへ手を掛けて、少し止まる。


 その向こうにある見るも無残な顔を想像して堪えた、のではない。


「今の内に言っておこうと思う」


 彼女の境遇や、今や、これからを思う。

 最早その資格など無い身でありながら、先日茶器に触れた彼女の指先の動きを思い出してまた少し微笑む。


 向き合ってしまえば、それからでは嘘になってしまう気がしたから。


 ヴェールでぼやけた今だからこそ価値を持つ言葉だと思うから。


 面と向かっては言い辛い、言葉だったから。


 自分と相手に言い訳を挟んで、言葉を贈る。


「お互い、昨日出会ったばかりの身で愛だの語った所で疑わしいだろう。だが」


 引っかかれた心の内にはまだ感触が残っていたけれど、それで全て肯定してしまうには私は愛というものを知らない。


 父を裏切り、兄を裏切り、母は失っている。

 そんな私の言うことにどれほどの重みがあるだろうかと悩みながらも、強張る肩をそっと抱く代わりに言うのだ。


「今日この時より、君は私の家族だ。最早一人も居なくなった私にとっての、唯一の家族となる。国を統べる者として成すべきを成す時、時に君を悩ませ、苦しめることがあるかもしれない。他国の価値観を知らぬ為、知らず君を悲しませたり、怒らせてしまうことがあるかもしれない」


 覆い隠された顔は、どんな思いで満たされているだろうか。

 あるいは、何一つ通じずに、本来の家族から見放されて空っぽになっているままだろうか。


「それでもな、イーリス。私は君を家族として迎え入れたい」


 ヴェールを上げる。


 その顔を。

 その瞳を。

 その唇を。


 私だけが見ていた。


    ※   ※   ※


 人の性根は目に宿る。


 揺れる瞳は青空のようで、少しだけ濡れて見えるのは言葉に降られたからだろうか。

 切れ長の目、と言えば聞こえは良いが、吊り上がった目尻は威圧的に見えなくも無い。

 長い睫毛もこの場合は目の印象を強くしてしまうからか、化粧も抑えられているようにも見えた。


 あくまで形は。


 何となく思っていた。

 これまでの悪態や、たまに見せる幼稚な所など。

 単純に脅えていて、気が弱いのに周囲を威圧することでしか関係を構築出来なかったのかも知れない。


 年の頃は私とそう変わらない。

 二つ上、とは聞いているが。


 なのに目は迷子になった幼子のように不安そうで、泣くまいと必死に堪えているような、そんな不安定さが見て取れた。


 悲鳴を上げるなんてとんでもない。

 一般論的に言っても、おそらくは美人と称される顔付きだろう。

 目尻のせいで睨まれているように見えるのに、目や表情に幼さが混じっているからか、愛らしくも感じる。


 初めまして、イーリス=ヴァン=クロノハル。


 それが君か。

 未だ多くを語り合えていない、未熟な家族ではあったけれど、私は生涯で初めてこんなにも近くで誰かの瞳を見詰めている。


 ヴェールを後ろ髪へ被せてから、彼女の肩へ手をやった。

 ビクリと跳ねる。


 細い肩だ。


 顔付きも、思っていたより痩せている。

 もう少し肉付きが良くなってもいいんじゃないか?


 思って彼女を眺める。


 小鼻の筋は綺麗なもので、指で撫でれば陶器のように滑らかな感触を得られるだろう。

 眉は細く、整えられている。

 実は最初から気付いていて、気恥ずかしくなって知らないふりをしていたのだが、頬は朱色に染まり、それが耳元にまで達していた。その耳元から顎へのラインは美しく、ふっと視線が唇へ向いた。


 口紅は薄い桜色。


 意外にもふっくらしていて、小さいけれど小さ過ぎもしない。

 なんというか丁度良い感じ。


 その唇が、震えながら開いていく。


「……ほんとう?」


 声は抑え付けたようにか細い。


「あぁ。本当だ」


 触れた肩がゆっくりと下がっていく。

 まだ少し強張りを残しながら、けれど力が抜けていくのが分かる。


 決して簡単ではないだろう。

 強国からの嫁入りで、本国からのこの扱い。

 政治的理由で距離を置かねばならない時もあるかも知れない。


 それでも、この触れれば千切れてしまいそうな儚い絆を守りたいと、そう思っている。

 縋っているのではないかとも疑いながら。


「神の御前にて誓いの口付けを」


 長広舌が収まったのだろう、大司教の言葉を受けて、驚くほど周囲が静まり返った。


 いや何か変だ。

 一部騒がしさがある。


 けれど私は縋るように見上げてくるイーリスの視線を解くことが出来ず、そっと顔を近付けていった。


 彼女は目を閉じなかった。

 まるで私の真意を探るように、求めるように、繋ぎ止めるように……ほんの少しでも逃げれば二度と信じないとばかりに決意して、じっと、見詰めたまま――――



「王子っお逃げ下さい! 今すぐに!」

「間に合わないっ! 抱えて飛びます!!」



 宰相と、騎士団長の声がした。

 二人揃って珍しいくらいに慌てた声で叫びながら駆け寄ってくる。


 結局二人は間に合わず、私とイーリスは何らかの力で弾け飛び、そのまま意識を暗転させた。


 誓いの口付けを交わしたのかどうか、正直言って分からない。

 残っているのは彼女が掴んできた胸元の感触で、最期まで揺らぐ事無く見詰め合っていた瞳の記憶。


 はっきりしているのは私とイーリス……いや、私がそこで死んだということだけだ。


 そして、


    ※   ※   ※


 そしては前世の記憶を取り戻した。


 ユーラシア大陸の極東、太平洋の西端、すらりと伸びる列島の地、日本という国で、一介の庶民として。


 一之瀬いちのせ じん


 十四年間そう名乗ってきた少年の人格を徹底的に殴りつけて、叩き潰し、意識の脇へ追いやって。


 俺は、異世界への転生を果たした。



 さあ、状況を開始しよう。










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