第10話 ゴーストライター

『――牧原まきはら様。

 お世話になっております。進捗はいかがでしょうか? もし可能でしたら、できている範囲で結構ですので、ご送付いただけると大変助かります。ご多用の所まことに申し訳ありませんが―――』


 そこまで読んで、牧原はメールのウインドを閉じた。

 ――まどろっこしい。

 さっさと原稿寄越せ、で事足りるではないか。


 ビジネスメールというものが、牧原は苦手であった。あの、何重にも何重にも巻かれた丁寧な言葉の壁が、玉ねぎの皮のようで好きではない。

 窓から差し込む光が、パソコンに反射する。朝である。寝不足の目に、その陽光が酷く眩しかった。


 牧原は大きく欠伸をして、洗面所へ向かった。

 洗面所の蛇口を捻り、溢れた生ぬるい水を手に受ける。水は牧原の手のひらで渦を巻き、溢れたしずくが手首を伝う。捧げる様に持ち上げて、無造作に、顔を洗った。

 滴り落ちる雫を、着ていたジャージで適当に拭い、牧原は顔を上げる。


 ひどい。


 洗面台の鏡にうつる自分の姿に、乾いた笑いを零した。

 とてもではないが、二十代の顔ではなかった。

 ここ半年手を入れていない髪の毛は、荒れ寺に生えた雑草のような風体である。度重なる不摂生と、乱れた食生活で、鳴りを潜めていた皮膚炎が再発した。

 どんよりと濁った目。

 隈も酷い。くっきりと、印刷されたもののように、くすんで肌に張り付いている。

 仕事をしなければ。

 〆切はとうに過ぎている。牧原は洗面所を後にした。

 熱々の、濃い目の珈琲を淹れて、パソコンの前に舞いもどる。一度閉じたウインドを立ち上げ、ワードソフトを起動した。

 書こう、書かねば終わるまい。牧原は目を固く瞑った。

 集中しなければ。

 今度こそ、良い作品を仕上げてみせる。


 牧原は、今年で二十八になる。

 売れない小説家であった。

 賞は一度取った。二年前である。小さな出版社の新人賞だ。雑誌に載った自分の名前を、牧原は誇らしく思ったものだ。

 それと同時に、牧原は、勤めていた会社を辞めた。

 執筆に専念するためである。

 そう甘い世界ではなかったと気づくのに、大した時間はかからなかった。

 賞を取ったからと言って、仕事が舞い込むような環境ではなかった。雑誌、一、二冊に寄稿して、それで、終わりだ。

 単行本は一冊出した。賞を取った作品と、書下ろしを合わせたものである。面白い、と言ってくれる読者もいたが、厳しい意見がほとんどであった。

 ネットショップの口コミや、匿名掲示板に自分の本が酷評されているのを見て、牧原は大いに絶望した。

 何が面白いのか、何が求められているのか、そもそも自分の文章など、誰にも求められていないのではないか。

 怖くなった。

 書けなくなった。

 書けない新人作家など、干されて当然であった。

 仕事は、一向に来なかった。

 来ないまま、一年が過ぎ、二年が過ぎ、牧原は今、ここにいる。


 ***

 


「短編集を出すのですが、牧原さんにも是非、寄稿していただけないかと思いまして」

久しぶりに舞い込んだ依頼に、牧原は心を踊らせた。

 お洒落な喫茶店だ。

 腰が沈みそうなほどふかふかなソファでなんとかバランスを取り、牧原は珈琲を啜る。

 一杯、千二百円。これが珈琲の値段だというのだから、世の中という物は理不尽にできている。需要があるから、供給されるのだ。つまり、この千二百円の珈琲を、日常的に口にする人がいるということである。

 気を取り直して、牧原はメモ帳を開いた。何しろ久しぶりの仕事である。

 次こそは、認められる作品を書かなければならない。もうこれが、最後のチャンスなのかもしれないのだ。

「短編集ですか?」

「はい。若手作家の書き下ろしを集めようと言う企画でして」

 担当の原澤はらさわは、同年代の男性であった。

 かっちりとしすぎない程度のフォーマルな服装に、櫛を当てて綺麗に整えられた髪。

 きらりと輝く瞳や、はきはきとした口調から、今の仕事への自信が伺えるようで、牧原は目を合わせることができなかった。

「コンセプトは、少し奇妙な話、でお願いしたいんです」

「はあ」

「出版が夏なので。ほら、テレビでもよくあるじゃないですか。奇妙な話を集めた短編ドラマ」

 あの、有名な番組か。

 牧原の脳内に、耳に残るテーマソングと、ストーリーテラーのサングラス姿がぱっと浮かんだ。

「原稿用紙換算の、二十枚ほどでお願いします。〆切は――」



 牧原は頭を振った。

 書けない。

 画面は依然真っ白のままである。

 立ち上がり、伸びをする。そのまま右手の本棚に手を伸ばすと、一冊の本を取り出した。

 ――懐かしい。

 高校生の頃、親友と作った本である。昔の文豪に憧れて、原稿用紙に見よう見まねで書いた小説を、ホチキスで閉じただけの簡単な物だ。

 本を読むのが好きであった。ただそれだけであった牧原に、物語を作る楽しさを教えてくれたのは親友の吉野よしのである。

「書いてみろよ」

「無理だよ」

「無理なもんか」

「書き方わかんねえし、なんかほら、作法とかあるんだろ?」

「そんなん一旦置いといて。まずは思ったとおりに書けばいいんだから」

「でもよ」

「物語の中では自由だぞ。何でもできる。大金持ちにもなれるし、未来から来た超絶美少女とあんなことこんなこと」

「動機が不純だな」

「まあ、とにかくやってみろって。絶対ハマるから」

 吉野の書く文章は、素晴らしかった。初めて読んだとき、あまりの感動に寒気を覚えたほどだ。

 砂の一粒、水の一滴すら漏らさないほどの緻密な表現、魅力的な文は頭の中で音楽のように鳴り響き、描きこまれた世界の全てがきらきらと輝くようであった。

 吉野の文章が白鳥なら、自分の文章はただの雀だ。

 そう口走ると、吉野は笑った。

「ばかだなお前。こういうのは比べるもんじゃねえだろ」

「でもよ」

「なに、お前、雀、嫌いなの?」

「そういうことじゃねえよ」

「白鳥は一生雀にはなれねえよ。だから別にいいじゃねえか」

 吉野は笑った。

「楽しむのが、一番だ」

 希望に満ち溢れた、光り輝くような笑みであった。


 吉野は、もういない。


 本が完成してまもなく、車の事故でこの世を去った。

 高校三年生の時であった。

 葬式に、この本を持っていくことはできなかった。

 頭では分かっていたのだ。この本は彼の遺作であり、遺族に渡さなければならない物なのだと、牧原はきちんと理解していた。

 理解していたが、感情がそれを許さなかった。

 この本が、牧原と吉野を繋ぐ糸のような気がしたのだ。

 これを渡してしまったら、吉野を忘れてしまうような、吉野と切れてしまう気がして。それで、できなかった。


 牧原はぱらりと紙を繰る。

 勢いよく、ほとんど殴り書きに近い、吉野の字。

 彼の、遺作だ。

 改めて読むと、彼の非凡さがよく分かる。

 彼の物語は少し奇妙で、ひと匙の毒があり、怪しい煌めきに満ち満ちている。

 彼が亡くなって、もう十年以上たつというのに、その輝きは失われるどころか、より光を増しているようですらあった。

 ああ、こんな物語が書けたら。

 こんな物語が……。

 じいわりと染み出た、恐ろしい囁きに、牧原は本を取り落した。


 ――今、自分は何を考えた?


 震える手で本を取り上げた。

 これは、彼の遺作だ。

 許されるはずがない。

 何を考えている。

 物書きの風上にもおけぬ、最低最悪の行為だ。

 お前は、親友を裏切るのか。

 やめろ。

 やめろ。

 はやまるな。

 お前の誇りはどこへいった。

 やめろ!



『――牧原様。

 お世話になっております。原稿のご送付ありがとうございます。拝読させていただきました。とても素晴らしい作品だと編集部でも好評です!(僕も驚きました! 間違いなく傑作です!)

 スケジュールなどは後ほどお送りいたしますが、取り急ぎ感想をと思い、ご連絡しました。

 どうぞよろしくお願いいたします。原澤』



 ――ああ、なんということだ。



 短編集の評価は上々であった。原澤はホクホク顔でこう言ったものだ。

「いや~、この間の短編、素晴らしかったです」

「……はあ」

「で、ご相談なんですが」

「はい」

「続編、出しませんか?」

「――え」

「この間の短編、読者様からも多数御好評の声をいただいているんですよ」

「……そう、なんですか」

「どうです? やってみませんか?」

 血の下がる音が、するようであった。

 言うなら、今だ。これ以上は取り返しがつかなくなる。

 しかし、もし言ってしまったら。

 言ってしまったら、どうなる。

「――よろしく、おねがいします」

 口を付いて出た言葉は、断罪ではなく、承諾の言葉であった。



 なんてことを、してしまったのだろう。

 今更ながら、自分のしでかしたことの恐ろしさに震えが止まらなかった。

 朝である。

 道を走り抜ける車の音が止むと、雀の囀り。登校中の学生の、賑やかな声。自転車のベルの音。

 やがて、静寂が訪れる。

 パソコンのファンの音がぶわりと響いた。窓から差し込む光が、画面を照らしている。

 ――眠い。

 こんな時だというのに、唐突にやってきた睡魔が牧原の脳内を浸食する。

 急速に重くなっていく体に引きずられ、牧原はゆっくりと瞼を閉じた。

 ゆうらりと歪む意識の中で、牧原は夢を見た。

 誰かが自分のパソコンの前に座っている。それを牧原は、高い位置から見下ろしている。

 まだ若い。学生のようだ。彼は、背筋を伸ばし、無我夢中の体でキーを叩いていた。

 そんな夢であった。

 目醒めると、日は落ちかけていた。斜陽が部屋を赤く染めている。

 牧原はそろりと体を動かした。

 椅子に座ったまま眠ってしまったのだ。身体の節々が悲鳴を上げている。スリープモードになっていたパソコンを起動しなおして、牧原は、絶句した。


 そこには、書いた覚えのない小説が、書かれていた。




『――牧原様。

 お世話になっております。原稿の送付、ありがとうございます。確認いたしまして、またご連絡差し上げます。原澤』


 その続編が評価され、牧原の名は一気に有名になった。

 短編の依頼が舞い込み、他社からも声がかかる。本はどんどん売れ、暮らし向きも明るくなった。雑誌の連載を頼まれるようになった。一杯千二百円の珈琲を嗜むようになり、ファンレターが頻繁に届くようになった。

 成功すればするほど、牧原の心は死んでいく。

 ――吉野だ。

 夢に出てきたのは、吉野に違いない。

 あの学生服。背すじを伸ばした姿。彼が、牧原の代わりに、小説の続きを、書いているに違いない。

 仕事を始めると、牧原はとたんに眠くなり、必ずあの夢を見るのだ。

 一心不乱にキーを叩く、高校三年の吉野の姿。夢中の体で、軽やかに、キーを叩く。

 吉野は、牧原の事を恨んでいるのだろうか。怒っているのだろうか。それとも、憐れんでいるのだろうか。

 吉野の姿を思い浮かべる。

 彼は生前も、夢の中でも、とても幸せそうに紡いでいた。

 牧原は唇を噛みしめる。

 賞を取って、プロになって、評価ばかりが気になるようになった。

 挙句の果てに、親友の作品を盗作して。

 それで得た成功など、何の意味がある。

 牧原は、物語が好きであった。ただそれだけのはずだったのに。



 既に夜は更けていた。

 バイクの走り去る音が、闇夜に響く。

 明りはつけなかった。暗い部屋に、パソコンの青白い光が漏れている。

 牧原は椅子に座りなおした。両手をキーの上に置く。

 いつものように、睡魔が、牧原を侵食していく気配がした。じわりと脳の中心を掴まれ、瞼がどんどん重くなる。

 ――いやだ。

 眠りたくない。

 今眠ったら、また吉野が。

「吉野、おれは……」

 眠りたくない。

 牧原は真剣にそう念じた。もう彼に頼るのは嫌だった。自分の力で、作品を書き上げなければ、意味がない。

「……おれは」

 ああ、でも瞼が。

 重く。


 ――いやだ!


 牧原は、重い腕を持ち上げた。

 目の端に映ったシャープペンシルをゆっくり取り上げる。

 切っ先が闇にきらりと光った。

 ――目を。

 その切っ先を、自身の太ももめがけて。

 ――目を覚まさなければ

 思い切り、振り下ろした。


 衝撃は、いつまでたってもやってこなかった。

 氷のように冷たい何かが、牧原の手をがしりと掴んでいる。

 振り仰いだ、そこに。

 吉野が、いた。

 ボロボロの、血の滲んだ学生服。血まみれの首、その上の、陥没した頭。

 ひとつしかない瞳が、パソコンの明かりに照らされて、闇の中にぽっかりと光を放っていた。

「よ、しの」

 真っ黒な、底知れぬ眼窩。

 その一つ目が、こちらを見下ろしている。

「……悪かった」

 吉野は動かない。じいと牧原を見つめていた。

 つぶれた頭から、じゅうと染み出た血が、まだほんのり子供の線を残した頬をゆっくりと伝っていった。

「たのむ」

 謝って、許してもらえるとは、思ってもいなかった。彼の大切な作品を、自分の名前で発表したのだ。彼が怒らないはずがない。

 けれど、せめて。

「おれに、チャンスをくれないか」

 せめて、あと一作だけでも、牧原は、書きたかった。

 あの頃に。

 吉野と笑いながら物語を書いていた日の、自分に戻りたかったのである。

「吉野、お願いだ」

 吉野は血に染まった顔をゆうるりと緩めた。

 一つしかない目から、ほろりと零れたのは、彼の血だったのかもしれない。しかし、牧原はそれを、涙だ、と感じた。

 彼は、泣いていた。頭を重そうに傾け、吉野は涙を零していた。

 氷の手が、溶ける様に消えていくのを、牧原は薄れゆく意識の中で、見つめていた。



 ***



 痛む節々を伸ばすように、牧原は大きく伸びをした。

 どうやらあのまま、眠ってしまったようである。

 長い、夢を見ていた気がする。その輪郭は、おぼろげではっきりしない。

 窓から差し込む斜陽が、パソコンに反射して眩しい。朝に淹れた珈琲は、すっかり冷めきってしまっている。

 牧原は大きく欠伸をして、洗面所へ向かった。

 洗面所の蛇口を捻り、溢れた生ぬるい水を手に受ける。水は牧原の手のひらで渦を巻き、溢れたしずくが手首を伝う。捧げる様に持ち上げて、無造作に、顔を洗った。

 滴り落ちるしずくを、着ていたジャージで適当に拭い、牧原は顔を上げる。

 洗面台の鏡にうつる自分の顔は、どことなくすっきりとした表情になっていた。

 ――書こう。

 牧原は洗面所を後にした。

 椅子に腰かけ、スリープモードになっていたパソコンを立ち上げた。

 ――ああ。

 牧原は瞠目した。

「吉野」

 ばさり、と、本棚から本が落ちる。

 しまってあったはずの、あの本が。


 牧原は、笑った。

 背筋を伸ばす。

 目に力が入る。

 書こう。

 落ちた本の頁が、ぱらりと捲られた。


 パソコンに打ち込まれていた、文字。

 ――楽しむのが、一番だ。


 懐かしい声が聞こえた気がした。


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ツクモノカタリ【ホラー短編集】 野月よひら @yohira-azuma

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